ドキュメント ヴェトナム戦争全史
著者:小倉 貞男
ヴェトナム戦争は、私の物心がついた頃から、常に国際情勢を考える際に頭の端にあった事件である。インドシナ半島の片隅の小さな国に、大国アメリカが激しい攻撃を加えるが、戦況は改善することがなく、逆に米国側の死傷者も増加し、米国のみならず世界各地での反戦運動が高まることになる。私が外国文化に初めて、且つ決定的な興味を板いた60年代の欧米での学生運動にも、そうしたヴェトナム反戦が大きな影響を及ぼしていたし、日本でも小田実の「ベ平連」運動が、それに賛成するか反対するかは別にしても、論壇でも常に議論になっていた。そして最後は、1973年の米軍主力部隊の撤退から、1975年のサイゴン陥落と翌1976年の南北ヴェトナム統一と続き、大国米国の敗戦という現実を、大学時代に目撃することになったのであった。その後、1987年の「ドイモイ」開始や1995年のASEAN加盟等を経て、私がシンガポールからアジアに深く関与することになった時代には、この国は社会主義を基盤とする一党独裁国家ではあるものの「普通の国」になっており、日本のみならず、かつてはあれほど激しく戦った米国との関係も改善し、私も気楽にこの国を観光旅行で訪れることになった。サイゴン陥落を背景にしたミュージカル「ミス・サイゴン」がヒットしたり、この陥落からボートピープルとして逃れた人々のその後の活躍―例えば、村上春樹の「ノルウェーの森」を脚本・監督として映画化したトラン・アン・ユン―等もある。そうした現在から考えると、この半世紀前の戦争は、今や余り関心を引くことがなくなっていた。しかし、この国の研究に深く関わり、以前に新書で「物語 ヴェトナムの歴史」でも接してきたこの著者(1933年生まれ)による戦争の記録(出版は2005年4月)は、久々にそうした私の若い頃の国際情勢への目覚めを思い出させることになったのであった。
1966年から69年まで、読売新聞の特派員としてサイゴンに駐在し、その後大学に移り、ヴェトナム、ラオス、カンボジアなどを頻繁に訪れながらこの地域の歴史と現状を研究してきた著者は、特にヴェトナム統一が行われた以降、多くの関係者へのインタビューを交えながら、この戦争をまとめている。その多くは北の政権関係者や、南の民族解放戦線といった「勝利者」側の人々が多いことから、その見解は相応のバイアスがかかっていることは否定できない。しかし、やはり当事者の証言は生々しいものが多く、流石に長年に渡りこの地域で研究と人脈を積み上げてきた著者ならではと感じさせるものが多い。
戦争の歴史については、1945年8月の日本の敗戦により、1941年に結成され、ホ・チ・ミンが指導していたヴェトミンが、独立に向けたクーデターによりバオ・ダイ帝を退位させ、9月に「民主共和国」として独立宣言を行うところから始まり、旧宗主国フランスの復帰とディエンビエンフーでのフランス敗戦を経て、次は米国が介入、それに北で権力を固めたホ・チ・ミンと南の民族解放戦線が戦いを挑んでいくということで、大枠は良く知られたものであることから、ここでは読んでいて興味深かった幾つかの点だけを記載しておきたい。
まず終戦直後の状況であるが、まず興味深いのは「第二次大戦後のインドシナにフランスが復帰することに猛烈に反対していたのは米国」であり、「少なくとも1945年春までは、米国はインドシナへのフランスの復帰を認めていなかった」という点。しかしルーズヴェルト大統領が1945年4月に死去すると、こうした米国の姿勢は急転換し、「植民地住民が最終的に彼ら自身の政府を樹立することを歓迎」しつつも、フランスの復帰を事実上認めることになる。これは戦後のフランスとの関係を重視する米国内での欧州派が、民族主権を認める流れに対して巻き返した結果であった、というのが著者の見方である。更に、フランスは1948年以降、「自らのインドシナ政策の失敗」を糊塗することも念頭に、ヴェトミンの活動を、インドが主張したような「民族主義運動」を越えた「共産主義運動」であるとするキャンペーン(「東南アジア赤化論」)を張り、それに米国が乗ることになったとする。当時の朝鮮戦争の勃発も考えると、こうした欧米における反共意識の高揚は止むを得なかった。そしてそれが米国のこの地域への関与を深めていくことになる。尚、この時期、インドネシア独立運動等と同様、旧日本軍の将校でヴェトミン側に協力していた者たちもいた、ということも覚えておこう。
次のポイントは、当初は軍事顧問団等の派遣という形で直接の介入を行わなかった米軍が、軍隊を派遣したり北爆を開始したりという直接介入に至った経緯とその理由である。
米国介入の大きな契機となったのは、北による南の武力解放戦略(第15号決議)が、ヴェトナム労働党の1959年1月開催の総会で採択され、南部での本格的な戦闘が開始されたことによる。この決定を受け、1960年以降、南部に潜んでいた解放戦線兵士による武装蜂起が始まり、それを米国の支援を受けたゴ・ディン・ジエム政権が過酷な弾圧で対抗するということになる。この戦いについては、解放軍指導者による多くの回顧が引用されているが、そこには女性の指導者も登場している。しかし政権側の激しい弾圧にも関わらず、解放軍側が勢力を拡大していったのは、やはりジエム政権が民衆から信頼されていなかったということであろう。1960年代、新聞社の特派員としてサイゴンに駐在していた著者の印象でも、「都市知識人、学生、仏教僧侶はいうに及ばず、政府の閣僚の中にも解放戦線を支持する人がいた」ということで、政権の動向は、こうした政権中枢に潜り込んだ支持者により解放軍側に筒抜けになっていたということである。
こうした北側の攻勢を受け、米国側も次第に関与を深めることになるが、ここで議論になるのは、この戦争への米国への傾斜について、1961年に就任したケネディ政権が責任を負うべきかどうかである。著者は、ケネディ政権が進めた「対ゲリラ戦争戦略」は引き返し可能な対応であり、またこの戦略が効果を発揮しないことに気がついたケネディはヴェトナムからの米軍の撤退さえも決断していたとしている。しかし、1963年11月、ケネディが暗殺されると、後を引き継いだジョンソン大統領は、「273号覚書」と称される文書で、米軍による北への本格的な攻撃やラオスへの戦線拡大などを指示する。この文書は、ケネディのヴェトナム政策の延長戦にあるという議論もあるようであるが、著者はこの文書を詳細に検討し、これがそれまでの米軍の姿勢を一段進め、米国がこの戦争の泥沼に入っていく契機となったと考えている。ただこの議論については、この戦争に関する別の著作などでの見解も見た上で、個人的な判断をしたいと考えている。
いずれにしろ1964年のトンキン湾事件で、この戦争は激化の一途を辿り、まさに私が学生時代に接していたこの地での米国による悲惨な戦争と、それに反対する欧米日本での激しい反戦運動の嵐を生んでいくことになる。しかし「戦争の拡大ばかりを望んでいた制服の将軍たち、コンピューターに全ての信頼をおいた頭脳集団、ドルをつぎ込むことで民主主義が確立されると確信していた援助グループ。そのいずれもが、ヴェトナムのこころをつかむことができなかった。」そして1968年のテト攻勢以降は、ニクソン政権の下で米軍の撤退が進められ、最後は1975年のサイゴン陥落で、この戦争の帰趨が決することになる。著者は、1978年以降のヴェトナムのカンボジア侵攻やそれに対する中国のヴェトナム侵攻、そしてカンボジア内戦の様子等も記載し、そして終章で、この戦争の教訓―それは米国側だけではなく、統一ヴェトナムやその他の国際社会全体にとってのものも含めてであるーを整理しているがそれは省略する。ただこうした「大国」が関与する戦争は、その後もアフガニスタンやイラクでも繰り広げられ、また当事者関係は異なるが、現在進行中のロシアによるウクライナ侵攻もあり、こうした国際紛争は依然過去のものになっているとは言えない。大国の勢力圏争いに巻き込まれた小国が戦火に晒され、そしてその結果として「大国」自体も大きな損害を被るという現実は、ヴェトナム後も何度も発生しているのである。その意味で、ヴェトナム戦争は。関係国に多くの「教訓」を残したが、それがその後の世界の歴史に生かされているかどうかと聞かれれば、やや首をかしげざるを得ないと感じるのは余りに陳腐なものだろうか?
読了:2023年7月31日