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ベトナム戦争
著者:松岡 完 
 1957年生まれの国際政治学者によるベトナム戦争に関わる2001年7月出版の新書である(国名は「ヴェトナム」ではなく、「ベトナム」となっているので、ここではそれを使う)。ここのところ関連著作を読んできた流れの中、図書館で見つけた著作であるが、ベトナム戦争自体以上に、それに至る、あるいはそれ以降の米国の外交史や国内政治の影響といった記載が多く、そうした観点毎に章が変わっていることもあり、時間が行ったり来たりしてやや読みづらい部分もある。ここでは先日読んだ小倉貞男の著作(これは純粋に「戦争」の歴史だけに絞っている)との比較も交えて、印象を記載しておく。

 その夫々の観点であるが、著者は6つの側面からこの戦争とその背景や影響を描いている。それは、@冷戦下での大国の代理戦争、A南ベトナム内の反政府勢力(民族解放戦線)と北ベトナム政府の水面下での戦い、B北京とハノイの歴史的な軋轢、C米国とサイゴンの反共政権の軋轢、D米国と東南アジア諸国との外交上の駆け引き、そしてE米国内での「政府と世論との、そして現在と過去との戦い」である。

 この内、@はまさに小倉の著作でも詳細に述べられているし、常識的にも良く知られている部分である。ベトナムへの介入に際して、米国政権内に「ミュンヘンの記憶」が大きく影響していたことは、関連本で何度も述べられている通りである。そして時のケネディ政権は、当初は、ギリシアやフィリピン、マラヤ等の経験から、南に潜むゲリラの掃蕩に自信を持っていたとされる。しかし、ベトナムは、それらの戦いとは決定的に異なっていた。それを認識した時からケネディ政権は、1962年以降本格的な介入を決断するが、一方で、それが米国の被害を拡大し、威信も危機に晒すことも意識していた。それが、ケネディ暗殺により、「早い時期の名誉ある撤退」が実現できていたかどうか、という議論になり、まだ観ていないが「JFK」等の映画では、ケネディ暗殺が、「冷戦緩和に反対し、ベトナム撤退阻止を図る、軍産複合体や右派の陰謀であった」という議論を呼ぶことになった。しかし、小倉と異なり、ここでは著者は、「ケネディはその死の直前まで、介入政策の屋台骨をなすドミノ(将棋倒し)理論に疑念を挟んだことはなかった」として、ケネディ後に戦線を拡大したジョンソンの対応は、ケネディが引いたものの延長戦上にあったという見方をしている。まあ、このあたりは「ケネディ神話」を巡る「宗教論争」でもあるので、どちらとも取れると理解しておくことにする。以降、ここではパリ協定の締結など、米ソ協調による戦争終結の試みが北の攻勢により意味を失った過程が描かれ、その点で、北ベトナムは、米国のみならずソ連という「象」にも勝利した、という著者の見方が示されることになる。

 二つ目の論点は、ホー・チ・ミンは、民族主義者なのか、共産主義陣営の手先だったのか、という議論と関連する。著者は、少なくともその出発点においては、ホー・チ・ミンも、ネルーやスカルノ、あるいはシハヌークなどと同様、共産主義を利用する民族主義者であったと見る。しかし、南の政権によるベトミンから民族解放戦線勢力に対する弾圧が激しくなり、それに米軍が加担していく過程で、共産主義への傾倒を強めることになったとする。そして、基本的には、南地域での反共政権と解放戦線の闘いという性格があったこの戦争で、解放戦線も北の支援を必要とする状況に至って、共産主義による統一に舵を切ることになった。それは、北にとっては、統一後のライバルとなり得た南の「民族主義者」に対する勝利という結果にもなったというのである。ただ、元々生活水準が高かった南では、統一後の急速な社会主義化に対する不満も高まり、それがホー・チ・ミンに対する批判として広がったことが、その後の「ドイモイ政策」に繋がったとされる。しかし、列強植民地からの独立運動が、民族主義革命に留まった国と、いっきに社会主義化に進む国に分かれたのは、あくまで夫々の国が置かれた国内的・国際的環境の結果に過ぎない、という見方もできると思うので、ホー・チ・ミン個人の意向を詮索しても意味はないだろう。

 第三の視点である中越の歴史的な軋轢は、改めて詳しく見る必要はない。米国との戦争に際して、北ベトナムは、ソ連のみならず中国への接近も余儀なくされるが、統一と同時に、カンボジア問題も含め、ベトナムー中国間の緊張が高まったのは歴史的な必然であった、という理解を確認するだけで充分である。
 
 第四の視点も、ある意味新興国で数多見られる現象である。小倉の著作でも散々説明されている通り、南ベトナム(そしてカンボジアやラオスの)政権の腐敗と統治能力の欠如は、同時期の他の東南アジア諸国との比較でも際立っていた。そこに政権を支援する形で介入した米国が、その政権の脆弱性とも戦わねばならなかったのも必然であり、それは介入の正当化を難しくすることにもなっていったことも言うまでもない。ただゴ・ジン・ジェム(「ジェモクラシー!」)等、米国の支援を受けた反共政権が、カトリック教徒が中心で、仏教徒を弾圧したことが民衆の一層の反発を招いた、と言うのは、今回初めて認識することになった。この点は、長く米国の植民地でカトリックが民衆に浸透していたフィリピンとは異なるところであるが、他方で、ベトナム社会についての米国の認識不足もあったことは疑いない。

 第五の「米国と東南アジア諸国との外交上の駆け引き」という議論も、国際政治の普通の現象である。ただ現在のASEAN以前の1954年9月に、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンが加盟する東南アジア条約機構(SEATO)が結成されていたことは、個人的にはあまり認識していなかった。そもそもパキスタンが入っていることへの違和感などもあるが、この米国主導の反共同盟が、1950年代末−60年代初めのラオス内戦等で無力を示すと共に、米国主導での枠組みに対するタイなどの警戒感から、1961年にマラヤ、タイ、フィリピンによる東南アジア連合(ASA)を経て、1967年の5か国によるASEANと、その後の5か国加盟で10か国になるという、東南アジア諸国自身による地域連合の拡大に進んでいくことになる。ASEAN自体も、現在は軍事クーデター以降のミャンマーの扱いで、動きが取れなくなっており、多くの課題を抱えているが、ASEAN+3や、米国、中国も含めたAPEC等とも補完しあいながら、その後の地域の安定と発展に大きく貢献したことは間違いない。その意味で、ベトナムでの米国の敗戦、撤退と中越紛争等のその後のこの地域での緊張を経て、ようやくそれなりに安定した枠組みができたということである。ここでの著者の記載はそこに至る紆余曲折の道の復習である。

 そして最後の視点は、ベトナム帰還兵の苦難や政治不信の拡大とそれを表現した映画や音楽等、米国内におけるベトナム後遺症との戦いが説明されることになるが、これは個人的にも同時代で体験し、追いかけてきた課題である。もちろん、米国の政治指導者たちは、その後の国際紛争への介入に際しては、このベトナムでの経験を踏まえた対応とならざるを得なかったことは疑いない。そして現在のウクライナ紛争に対しても、それを踏まえて動いていることは、改めて確認できる。

 著者は私よりも2-3歳若い研究者であるが、高校生の時に朝日ジャーナル(1971年)に掲載された「ペンタゴン・ペーパー」をむさぼり読んだということである。これは私が大学生の時代であるが、それまでベトナム戦争の推移には大きな関心を持ってはいたとは言え、この報告を細かく読んだ記憶はない。恐らく、既に米国が撤退し、サイゴンが陥落、ベトナム統一がなされた時点で、私の関心はこの地域から、冷戦の最前線である欧州に移っていたからであろう。そして実際の私の生活基盤も欧州に移り、そこでソ連でのゴルバチョフ改革からベルリンの壁崩壊、ドイツ統一、そしてソ連の崩壊等、欧州での激動を追いかけることが関心の中心となっていた。

 それが2008年、生活基盤をシンガポールに移したことで、空白となっていた20年近くの東南アジアの動きを改めて見ていくことになったのである。その意味で、著者は、継続的にベトナムとそれを取り巻く大国の動きを追いかけてきていることから、私のそうした空白を埋めてくれる。統一後のベトナムも、多くの紆余曲折があった。現在は、米国や日本との関係も改善し、経済的はむしろ中国に変わる生産拠点として(韓国には及ばないが)重要性を増している。また私も何度も能天気な観光でこの地を訪れたが、そうした場所としての存在感も高まっている。それでも、かつてそこは多くの人々が無為に命を落とした過酷な戦場であったことは記憶から無くすべきではない。そうした思いを改めて感じさせてくれた著作であった。

読了:2023年8月19日