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ネパール人の暮らしと政治ー「風刺笑劇」の世界から
著者:山本 真弓 
 急遽日本に一時帰国し、そこでいろいろなことがあった10日間。とても集中して本を読めるような状態ではなかったが、それが終盤に近づいたところで、ようやく以前から読んでいたこの新書を読み終えることが出来た。この新書は、ブックオフで見つけたものであるが、作品自体は1993年10月と、10年ほど前の出版である。著者は1958年生まれ。この新書の出版後、1995−97年までネパール大使館専門研究員としてこの地に戻っている。また最近は言語論などの著書を出しているようである。

 このヒマラヤ山系の小国については、以前にジャーナリストによるヒマラヤ紀行文(「ヒマラヤ世界」、別掲参照)を読んだが、それはこの地域の自然環境を中心としたルポが中心で、この地域の政治・社会問題についてはほとんど触れられていなかった。そこで得た知識を含め、やはり私にとってはネパールという国はまだエベレスト登山の基地という印象のみが強い国であった。隣国のブータンが、若い国王夫妻への関心や、「国民総幸福度」等で最近話題になったのに比較して、この国の政治・経済・社会についての情報が日本のメディアに出てくることはほとんどない。しかし、ブータンもそうであるが、考えてみれば中国とインドの国境に位置するこの国は、地政学的には極めて微妙な位置にあることは間違いない。しかも中国側にはあのチベットが広がっているのである。そうした要因から、この国には恐らく私が余り認識していない歴史と現実があるのではないか、というのはこの本を読むにあたっての期待感であった。そして、ここで報告されているのはやや古い90年代初頭の状況であるが、確かにそこには余り私たちの意識に入ってこないような厳しいこの国の政治・社会的現実があることが分るのである。

 本の内容に入る前に、まずこの本が出版された時期以降のこの国の政治体制の変化を簡単に見ておこう。まさにこの本で取り上げられている1990年の民主化運動を経て、この国は国王親政体制(パンチャヤート制)から立憲君主制に移行する。しかし、1996年以降、マオイスト(共産党毛沢東派)の武装闘争が激化し、支配地域を拡大するが、他方既往権力の側からは、2002年5月下院が解散させられ、国王の指名による組閣が行われる。しかし依然党派対立等で安定政権は成立せず、結局2005年2月、再び国王が自ら政権を掌握、緊急事態令を出し、基本的人権の一部制限、政党指導者の拘束、報道統制などの強権策を発動することになるのである。

 2005年10月以降、国王は順次選挙を実施し、斬新的な民主化を進めるとの方針を表明するが、政党側は、これは国王の一方的な措置だとして反発し、両者の緊張が続くことになる。政党側はマオイストとも連携し国王への抗議活動を強化し、国王側も2006年4月に、2002年に解散した下院の復活を宣言。これを受けて下院で制憲議会選挙の実施やマオイストとの対話の再開などが採択され、徐々に両者が歩み寄る。この間、国際社会の支援も行われ、日本からも「国連ネパール政治ミッション(UNMIN)」の一員として自衛隊員6名が2011年1月まで駐留したという。

 2008年4月の制憲議会選挙ではマオイストが第一党となり、これを受け5月、連邦民主共和国への移行が宣言され、約240年続いた王政が廃止されることになった。その後は6政党(マオイスト、共産党、友愛党、ネパール人民党等)の連立政権が続くが、この連立政党間での軋轢も収まらず、首相も頻繁に交替、政権は迷走を続ける。現在は2011年8月の選挙に勝利したマオイストのバッタライが35代首相となっているが、現時点でも主要3政党(マオイスト、コングレス党、共産党)の間での駆け引きは相変わらず続いているという。

 こうした政治の混乱もあり、この国の経済成長率は2009/2010年で3.5%と南アジアの周辺諸国と比較しても低く、また財政・経常収支面でも大幅な赤字で、出稼ぎ労働者の送金以外は、主として外国からの援助に依存している。ただ政治が相対的に安定することで、インドや中国からの観光客は増加しており、2011年には「ネパール観光年」として観光業の再興も企画したという。因みに、日本は、歴史的な王室同士の関係もあり、二国間援助の主要提供国である(以上、主として「外務省ウェブサイト・最近のネパール情勢と日ネパール関係」から)。

 ということで、マスメディアからの情報が限られているこのヒマラヤの山国では、この本が出版された後、様々な政治的変遷があり、特に2008年5月には王政廃止という大転換が行われていたのである。この本を見ていくに当たっては、こうしたその後の歴史を念頭に置いておく必要がある。言わば、この本が描く1990年前後は、その後のネパール政治転換の歴史の出発点であったと言えるのである。前述のとおり、この国は、1990年の民主化運動を経て、徐々に国王親政体制(パンチャヤート制)から立憲君主制に移行することになるが、著者が滞在した時代は、政党側、あるいは民衆の動きが活発化してきたとは言え、まだまだ国王の実権が強く残っている時代であった。政党は組織化されておらず、反政府的な言動は依然抑圧されており、庶民は陰で権力者たちの陰口を叩くのが精一杯であった。しかしそれが徐々に変わり始めた時期だったのである。その出発点を著者は、この国で人気を博している二人のコメディアンのコンビによる政治風刺劇を通じて描こうとしている。

 著者が取り上げるのは、カトマンズで、「教育を受けていない庶民から知識人、小さい子供から老人に至るまで」人気を集めているマダンクリシュナ・シュレスタとハリバンシャ・アーチャーリヤという二人組のコメディアン(以下「マハ」)である。偶々著者が見た彼らのショーは、早口のネパール語こそ理解はできなかったものの、その「笑い」の種が強烈な政治風刺にあることは著者もすぐ分かったという。そして、それは抑圧された社会で広がるアネクドートと同種の、庶民側のカタルシスであると共に、時の政権側にとっては、場合によっては不満のガス抜きにも使えると共に、他方では反体制運動に油を注ぐことにもなりかねない取扱いの難しい演芸であったのである。まさに90年代初頭のネパールが置かれた微妙な政治的状況を、この風刺劇を通じて明らかにするのが著者の意図である。

 著者は、カセットなどで出回っている彼らの講演を丹念に翻訳し、彼らの笑いのネタとその背後にある現実の事件を数多く紹介している。言うまでもなく、そこで頻繁に登場するのは王族やそれと結託した政治家や政府高官たちの合法・非合法な利益誘導行為の数々である。他方で、パンチャヤート体制下では検閲制度が存在していたため、マハと当局との間では常に微妙な均衡が保たれていたという。マハの側は、余り過激な表現になることを避けると共に、当局の側では、時折牽制を行うが、彼らが庶民の人気者であるが故に逮捕するところまでは進まない、ということであったようである。

 しかし、こうした政治的笑劇が庶民の大きな支持を集めるということは、まさに公式な政治的意思決定機構が機能していないことを象徴している。実際、当時の反パンチャヤートの政党であるネパール会議派と共産党は非合法で、「そのイデオロギー的側面で、民衆の意見を代弁するまでにはいたっていなかった」というのが著者の観察である。また同時に、ネパールでは、こうした「コメディは民謡と共に代表的な民衆芸能のひとつ」であり、この国で毎年8月に行われるガイ・ジャットラという「その年の死者を弔う祭り」と関係しているという。パンチャヤート制が崩壊する前は、この日だけは「国王及び王族に対する批判以外は何を発言してもよいとされている1年で唯一の日」であったという。こうした伝統的祝祭が、政治的な閉塞感から、政治批判の言説に繋がっていったということは充分に考えられる。例えばドイツにも、1日中冗談を言い合うお祭りがあり、私もその祭りに招待されたが笑いの内容が分からず閉口した経験があるが、ある意味カトマンズの祭りもこれと同じ社会的慣習である。ただし、成熟社会であるドイツでは、政治的ネタは全くない訳ではないが、非常に限られていた。まさにこうした庶民芸能での表現は、社会の現状を象徴しているのである。

 こうしてマハの笑劇を通じて著者は、当時のネパールで如何に庶民が政治の現実に批判的であったかを示していく。その上で、1990年4月8日のパンチャヤート制の廃止と政党政治の導入は国王の「賢い選択」であったとして、1979年の最初の民主化運動の高まりから90年に至る流れを説明しているが、これはその後王政自体も廃止されたことを考えると、既に過去の断片になってしまっているので、ここでは省略する。また1980年代後半時点でのこの国の経済状態や国王一族やその取り巻きと庶民との所得格差なども説明しているが、これも今となっては過去のデータである。他方で日本人ビジネスマンが、この国での商売を行うに際して多額の賄賂を使っているとしているが、これはこの国のみならずその他の東南アジア諸国でも常態化した慣習であると言える。もちろん、スハルト後のインドネシアのように、その後は徐々に変わってきていると言えるが、他方で最近ヴェトナムで日本企業が摘発されたように、依然アジア各地でこうした行為が水面下では行われていることも間違いない。

 こうした政治的な現象は、刻々と変わっていくのに対し、その基底にある民族構成等は、もっと時間的スパンの長い問題である。ここで著者は一章を割いてこの国の多民族からなる社会構造を説明している。この国に対しては、日本人は民族対立のない平和な国という印象を持っていると著者も指摘しているが、言うならば、そうした問題があってもあまり国益に影響しないので、そもそもマスメディアでの報道もされず認知されない、というのが実際のところだろう。しかし実際には過去に、インド国境に近い地域でのヒンドゥー教徒とイスラム教徒(バングラデッシュ独立時の難民として多くのモスレムが流入)の衝突や、山岳民族であるカンパの武装蜂起等もあり、あるいはライやタマンといったチベット民族は自らのアイデンティティを主張する政治運動をしているという。またカトマンズ盆地で多数を占めるのは固有のネワール語を話すネワール人であるが、1962年の憲法で国語はネパール語だけと定められたため、この言葉の公の場での使用は、この時点では一切禁止されていた。実際、著者がこの本で取り上げている笑劇コンビ、マハの片割れマダンクリシュナは、ネワールで、彼は言葉を「ネパール語に切り替えることでしたたかに生き延びた」ともコメントされている。もちろん彼がネワールの不満を代弁しているということも人気の一つではあるのだが。公式にはこの国は、憲法でヒンドゥー教を国教と定めているヒンドゥー国家でカーストもあるとは言え、他方で高地に住むチベット系仏教徒その他の少数民族も多く、またその仏教徒の中にもカースト制が存在したりするという、複雑な社会・民族・宗教構成を持っているという。カーストの構成もまたインドのそれとは異なっているようであるし、そもそもカーストに含まれない山岳少数民族はまさに最も差別された存在と言われている。

 この国の国際関係については、まず隣の大国インドとの関係が語られるが、この中で面白かったのは、紅茶で有名なダージリンを巡る歴史である。そもそも私はこのダージリンがネパールとブータンの間に入りこんだ位置にあるという認識もなかったくらいであるが、歴史的には、この地域は、そもそもは隣の独立王国であったシッキムの領土であったが、その後ネパールの一部になった時期を経て、最終的に19世紀前半にイギリス領インドに併合されたという。しかし住民の過半数はネパール系であり、ゴルカ兵の司令部もここにあったそうである。ネパールは言わばゴルカ兵を英国に差出し、またこの地域を英国に与えることで独立を維持したとも言われているが、他方で現在ではそこに住むネパール系住民の権利を主張する政治運動も発生しているようである。他方でネパール南方のインド国境に近いタライ地域(仏陀誕生の地ルンピニがある地域)ではヒンドゥー語しかできないインド系住民が権利主張しているという。インドとの間で国境・民族紛争が発生するとすればこうした地域が震源地になると思われるが、取り敢えずは現在に至るまで顕在化はしていないようである。反対側のチベット国境側については、亡命者受入れ問題を含めた様々な中国との緊張があるのではないかと思われるが、この本では触れられていない。

 最後に著者は、ネパールを含めたヒマラヤの森林破壊という環境問題の議論を見ている。これは前述のジャーナリストによるルポでも取り上げられていたテーマであるが、森林伐採は、ネパール人の生活様式に問題があるという議論に対して、著者はむしろそこで生活しない外国人と外国政府の援助により責任があると見ている。「観光資源しか持たないネパールという被援助国をめぐって様々な関わりを持つ先進国の人びとと隣国インドの人びと、及びネパールの政治家や役人を含む、国境を越えた政治のあり方の問題である」と言う。そして日本との関係でも、一方で日本のマスメディアがこの国の「神秘」や「秘境」ばかり強調する中で、日本の援助も日本の国益を重視した形で使われていることを批判している。政治家や政府高官のみならずネパール庶民にとっては常に大きな関心の対象である日本と日本人が、逆の立場に立つ我々日本人は彼らにほとんど関心を払わない、という問題が、こうした小国との関係では常に存在しているということであろう。前記のとおり、日本の外務省のサイトによると、両国の間には王室・皇室関係で築かれた土台もあり関係は良好で、経済協力も地方の貧困削減、民主化・平和構築、社会・経済基盤整備という観点から、最近ではカトマンズーバクタプール間道路改修計画やシンズリ道路建設計画、食糧支援、農業、教育、水供給、地方行政能力強化などの分野での技術支援を行っているとされている。著者が10数年前に観察した日本の国益重視の援助スタイルに変化があるのかどうかは、これだけからは推測することは出来ない。いずれにしろ、この国は、隣国のブータンが最近もてはやされているのに対し、未だにヒマラヤ登山の基地としてしか認知度がない。そして確かに著者がこの本を書いた90年代と比較すれば、政治的民主主義は少しずつ根をおろしてきているのではあろうが、政治・経済・社会的には、この国はまだまだ課題を多く抱えているであろうことは間違いない。今後、この国を巡る限られた情報を逃すことのないように注意すると共に、個人的にはまだ訪れる機会のないこの国の現在の姿を自らの目で確認する機会も作ってみたいと思うのである。

読了:2012年3月16日