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消されゆくチベット
著者:渡辺 一枝 
 チベットについては、1949年の中国による侵攻、あるいは1959年のダライ・ラマ14世の亡命以来、中国によるこの地域への強権的な支配が国際社会の非難の的になってきた。しかし、他方でそうした非難にも関わらず、中国は引続きこの地域への歴史的な支配権を主張し、それを無視。結局地域住民は、土着文化を細々と維持しながら、政治・経済・文化の夫々の領域で、中国化の波に晒され続けている。

 この新書は、こうしたチベットに、1987年以降何度も旅行し、この地域に関与してきた女性による、この地域の政治・経済・文化の報告である。著者は、1989年、保育士としての仕事を辞め、以前から関心を持っていたこの地域に対して本格的な関与を始める。それまでは、一般の旅行客として訪れていたこの地域を、ある意味「プロ」の旅行者として足を踏み入れ、観察すると共に、様々な支援活動を行っていくことになる。この本の大半は、彼女のこの地域への関与の歴史を辿りながら、この地域への旅行―と言っても、それはとても普通の観光客が行う旅行ではない、もっと気合の入ったものであるがーの数々の経験を語ることに費やされている。その上で、著者が見てきたこの地域の変化を語ると共に、最後にこの地域を巡る中国の圧力と、この地域の住民の抵抗の歴史を総括している。もちろん、大部分を占める旅行記の中でも、至るところに、中国とのこの軋轢は言及されている。

 その旅行記については、あまりここで記載しておくべきことはない。そこでは一般の旅行記では語られない、この地域で著者が自分の目と耳で体験した、この地域の厳しい自然と、その中で逞しく行きる人々の生活が詳細に描かれている。しかし、その細部、例えば、しょっぱなに紹介されている2005年4月の、野生のヤク(=ドン)を奥地に探しに行く旅など、著者のこの地域に対する特殊な好奇心だけで実行されている感もあり、旅行記としては面白いが、他方で我々がこの体験をしたいかというと、そうした気持ちにはならないようなものである。しかし、そこで同行したチベット人たちとの会話には、この地域の人々の感情が滲み出ている。例えば軽い交通違反で捕まった際に、チベット人がそれに抗議すると、それは政治的反抗と看做されてしまう、といった軽い冗談の中にも表現されている。あるいは、この旅行の途上で訪れた、「万人坑」と呼ばれる場所。文化大革命時代に、中国支配に抵抗したチベット人らがこの地域の鉱山の強制労働を強いられ、そこで死んでいった者たちが埋められた地域であるという。その他、チベット人の食生活の変化と著者が好んだチベット人の好物料理なども紹介されているが、これもまさに著者好みの特殊世界である。

 知り合いのチベット人の死と、その鳥葬による葬儀の様子が描かれている。それはそれで、噂に聞く衝撃的なシーンであるが、そこでそれとは別に説明されているチベットの聖湖ラモラツォの話の方が面白い。湖面に現われた幻想からダライ・ラマ法王14世や、1989年に亡くなったパンチェン・ラマ10世の転生者を探し出したというが、後者は亡命中のダライ・ラマが認知したとたんに中国政府がこの赤子と両親を拉致し、当時6歳だった少年は世界最年少の政治犯となり、今も行方が知れないという。

 チベットでの子供の生活や教育制度、そして手漉きの紙や線香、経本の版木などの伝統工芸、あるいはそこでの流行歌や流行歌手を紹介した後に、中国化により消されていくチベット語について報告している。これは先に読んだシンガポールでの言語政策とも重ねて考えられるので、やや詳細に見ていこう。

 中国では、少数民族地域には「民族学校」が設置され、少数民族言語による教育が行われるが、漢語による教育との比率はそれぞれの地域や学校の種類で異なっているという。ただ高等教育機関はどうしても漢語になること、そして民族学校出身者は就職の道が限られることから、成績優秀者は漢語教育を志向することになる。しかし、アムドと呼ばれる地域で、20109年秋、従来チベット語教育に多くの時間が充てられていた方針を改訂し、漢語を幼稚園から主要教育言語にするという決定がなされ、それに対し大規模な抗議運動が発生すると共にその弾圧が行われたという。またスハルト時代のインドネシアで逆が行われたが、身分証明書等に記される姓名は漢語であり、また街の名前も漢語で表記されることが多くなっている。チベットの最近の漢語名が「香格里拉(シャングリラ)」というのは、観光誘致目的での命名というが、この地域での政治の実態を考えると全くの皮肉である。

 チベットでは、寺への参拝や宗教儀式などが益々厳しく制限・監視される中、頻繁に抗議デモや焼身自殺が相次いでいるが、これは1959年にダライ・ラマ拉致という噂から大暴動になった3月10日近辺で毎年行われているという。最近では2008年のこの日に大きな暴動が発生したが、これは北京オリンピック開催に向けた、中国政府による少数民族弾圧へのアピールであった。また2009年や2011年には、この日の近辺で僧侶による抗議の焼身自殺があり、その数は一般人も合わせると最近の約3年間で100人に達しているという説もある。他方政府の弾圧も、特に言論統制を中心に強化され、あるNGOによれば2008年以降だけでも65人が拘束され、拷問を受け、刑を宣告されているという。こうした中、2011年3月、ダライ・ラマは政治的立場から引退し、チベット亡命政府は現在主席大臣に選ばれたロプサン・センゲが代表しているというのが、最新の政治状況である。

 著者がこの地に初めて足を踏み入れた1987年以来、この地域も当然のことながら大きく変貌した。特に2000年3月、政府が「深刻化した地域格差是正のため」発表した「西部大開発」計画以来、その変化の速度は早まっているという。それによりもちろん社会のインフラは整備され、人々の生活水準も全般的には向上している。しかし、チベットの人々にとっては、「中国から得た恩恵より失ったものの方が大きい」(ロプサン・センゲ)というのが一般的な感覚であるようだ。それが現在も続く抗議行動と、ダライ・ラマを始めとする亡命チベット政府への隠れた支持に繋がっていると言えそうである。まさにこれは現在の中国における最もシリアスな少数民族問題であり、政治的弾圧と経済水準向上だけ解決できるものではない。チベット問題に対する国際社会の関心も、間欠的ではあるが継続している。こうした地域に当初は観光客として訪れてから、その後は様々な支援活動に従事しながらこの地域にコミットしてきた著者の姿勢は、ややマニアックではあるにしても、確かに一貫している。こうした活動を地道に行っている草の根の人々がいるということを認識しながら、その観察結果を、他人事としてではあるが、面白く眺めることができたのであった。

 尚、この作品については、著者の意図も勘案し、あえて「中国」のカテゴリーではなく、「その他アジア」に入れることにした。

読了:2013年8月18日