先進国・韓国の憂鬱
著者:大西 裕
2011年に、戦後の主要な大統領の施策とその評価という観点から見た韓国現代史を読んだが、この時期、大統領は李明博で、まだそれなりの支持率を維持し、現代建設CEOという「スーパー・サラリーマン」として経済成長を核にした政策実現の期待を担っていた。しかし、その後、彼は急速に支持率を失い「レイムダック化」する。政権獲得時には、少なくとも極端な「反日」ではない、と思われていた彼は、突然の竹島への上陸という、韓国大統領としては初めての行為に打って出ることになるが、これにはまさに支持率の低下を「反日カード」で抑えるという意図があり、あるいはもっとうがった見方をすれば、歴代の大統領が、退任後甘受してきた、逮捕ないしは自殺という運命を回避するための懸命な努力だったのではないかとも思えるのである。
その後2012年12月の選挙を経て、かねてから大統領候補として支持基盤を固めてきた朴槿恵が韓国第18代の、そして女性として初めての大統領に就任し、現在に至っている。おそらく「親日的」と言われた父親の朴正煕の娘であることを意識したのであろう、就任直後から朴槿恵は、「反日」姿勢を強く打ち出したことから、反動で日本の反韓感情を刺激し、日本の週刊誌の格好のネタを提供することになったが、足元はウォン高による国内経済の低迷と、そして何よりも先月発生した貨客船セウォル号の沈没事件により、支持率が急落している。これが今月後半に行われる地方選挙にどのように影響するか、というのが現在の韓国政治に関する大きな関心になっている。
前回読んだ韓国本が、李明博の支持率が急落する前に書かれたのと同じように、この新書も、朴槿恵がまだ安定した支持率を確保していた時期に書かれているのは皮肉である。それは、韓国の政治も非常に変化が激しくなっていることを物語っていると言えるのかもしれない。ただ、今回の沈没事件のような偶発的な問題を除いて、より本質的な韓国政治の課題は何か、という観点で考えてみると、この本は、それなりに面白い視点を提供してくれる。それは、韓国がいかにして中進国から先進国への道を歩もうとしているか?(今回の船舶事故で、朴槿恵が事故処理を批判して「韓国はまだ先進国とは言えない」と言ったのは、韓国において「先進国化」というのが大きな課題となっていることを物語っている)、そしてそのために最近の大統領たちは、どのような政策を試みてきたのか?
もちろん、著者が書いている通り、「先進国」を「高度に工業化が進み、経済的に豊かで生活水準が高い民主主義国家」と定義すれば、購買力平価でみた一人当たりGDPで日本に粗並ぶようになった韓国は既に「先進国」である。しかし同時に遅れてきた「先進国」であるが故に、「少子高齢化、巨額の財政赤字、社会保障制度の維持困難、経済活力の低下」といった問題が、先行した「先進国」よりも早く顕在化している。それが意識の中では、まだ「先進国」ではない、という感覚を生んでいるのかもしれない。そしてこうした「先進国病」に対して、最近の政権がどのように対応してきたかを見ていくと、一方でFTAによる貿易自由化により急速に農業社会から工業社会に舵を切り、製造業の国際競争で日本企業を凌駕しつつあるという評価と、それにも拘わらず経済格差の拡大は日本以上に進み、且つそこでの「敗者」を救済する社会保障政策は貧弱なままであるという批判が同時に指摘されている。それは言わば1997年に始まるアジア通貨危機と、そこで韓国が甘受せざるを得なかったIMF主導による経済構造改革の結果であったが、著者によると、こうした現代韓国の政治問題に対する大統領たちの対応を見ていくと、韓国の政治構造の特徴と、夫々の大統領が選択された理由と異なる政策が実際には遂行されてきたことが明らかになる、という。それはいったい、具体的にはどのようなことなのか?
最初に指摘される韓国の政治構造の特徴、それは依然「進歩派(反米・親北朝鮮)対保守派(親米・反北朝鮮)のイデオロギー対立」が存在している、という点である。これに金大中の地盤であった半島南西部(全羅道)と、その他の大統領の出身である半島南東部(慶尚道)との地域対立が重なっている。そして日本と同じであるが、しかし韓国の場合は朝鮮戦争の体験の有無でより顕著な、高齢者世代と若者の対立。他方で、90年代終わりの経済危機以来深刻化した財閥への利益集中と経済格差の拡大(日本と同様の「ワーキング・プア」、「非正規雇用」そして「若年層の就職難」。他方、日本と異なるのは、社会保障制度の整備の遅れによる「高齢者の貧困」)は、保守勢力に対しても「経済民主化」の必要性を認識させることになり、この点では保守派と進歩派の政策的な相違は薄まっているという。こうした韓国社会の基本構造に対する基本認識の下で、著者は金大中、盧武鉉、李明博の3人の大統領の下での経済政策と社会保障政策を見ていくことになる。詳細は省くが、著者による各時代の分析をまとめると以下のとおりである。
まず金大中政権(1998年―2003年)は、皮肉にも、韓国で初めての進歩派政権の下で発生した大規模な金融危機により、IMF主導の新自由主義的な経済改革を余儀なくされたが、まずはこれを支持基盤である労働者代表も参加した「労使委員会」での「社会協約」に基づく金融改革を進めることで乗り切ることに成功する。同時に金大中は「所得保障や社会サービスを国民の権利として認め、国家がその供給に責任を持つ「福祉国家化」を推進した。しかし、まずは、当初は協力的であった労働組合側の不満から「労使委員会」が機能停止し、次は「保守派と進歩派のイデオロギー対立」(進歩派からは新自由主義的と、また保守派からは不徹底と非難された)から、急速に社会保障制度の充実(公的扶助制度の普遍主義化、医療保険の一元化、国民皆年金等)に舵を切るが、「制度改革は進んでも量的充実が伴わなかった(委縮した社会民主主義)」ため、結果的に新自由主義的な改革のみが目立つことになる。
続く進歩派政権である盧武鉉(2003年―2008年)は、北欧型の福祉国家を構想し、「企業の経済活動と手厚い社会保障は両立する」と考え、米韓FTAを始めとする経済自由化を推進する。しかし、「参与福祉」というコンセプトでの、「労働力の『再商品化』」による「生産性を向上させるための投資」(「国民の労働市場参加の権利と機会を保証するための人的資本と社会サービスに対する社会投資」)という政策に保守派の賛同が得られず、更に「同時に推進した地方分権改革や参加民主主義の制度化の結果、かえって福祉需要の表出が抑制され、社会保障の充実がなされないという逆説が発生した(「市民が負担を考慮するからこそ福祉の拡大を抑制する」)。」著者は韓国の「圧力団体」の政策への関心を調査したアンケートを詳しく引用しているが、そこでは、福祉関係の中核的団体は概して保守的で、「市場の介入に否定的で、福祉の拡大につながる政策を好ましいと追っていない」こと、そして盧武鉉が参加民主主義の主体として期待した市民団体は「移り気で福祉政策への関心を持続させるものではない」ことが示されているという。言わば「進歩的なメカニズムそのものが、福祉の充実を押しとどめた」のである。更にこうした市民団体の期待に応えるために盧武鉉は、地域主義打破のための「首都移転法」や、民主主義の徹底のための「国家保安法」「言論関係法」といった法案を提示するが、これが保守派との「イデオロギー対立」を先鋭化させることになる。こうした状況下で、そもそも「盧武鉉がこれを推進したことが衝撃的」とされる米韓FTAが、アメリカとの合意を得ながらも、支持基盤である進歩派の抵抗により協定発効に持ち込めず、これが盧武鉉の命取りになったという。
そして保守に回帰した李明博政権(2008年―2013年)であるが、表面的には二代続いた進歩派政権を全否定する政策をとり、社会保障については社会民主主義的なものから自由主義的なものへの転換を、経済政策では大規模公共投資による権威主義的開発投資による成長を試みる。しかし、彼が目指した「保守主義による革命」は、現実的には「与党内に反主流派を抱え込んだうえ、進歩派の反撃にあい」、強いリーダーシップを発揮することができず、結果的には「盧武鉉政権の政策を引き継ぐ」ことになってしまった。但し、著者は、「李明博政権のもとで新自由主義的改革が進み、格差が拡大したというのは誤りである」、否むしろ「リーマン・ショックにもかかわらず不平等や貧困の度合いは相対的に軽減される」等、この政権の「政策パフォーマンスは、実際はそれほど悪くはなかった」としている。しかし彼が「大衆からも政治家からも人気がなかった」ことで、そうした印象を持たれている、という。言わば、これが冒頭に述べた、政権末期の彼のナショナリズムへの回帰を余儀なくさせた、ということなのであろう。
しかし結果的に三代の大統領時代を通じて深刻化した社会的格差の存在を受け、2012年の大統領選挙の有力候補であった朴槿恵は、党内反主流派時代には批判していた「盧武鉉政権の政策を継承するような福祉国家構想」を打ち出さざるを得なくなる。著者によれば、それは「制度的には社会民主主義的だが量的充実を伴わない韓国福祉国家」の「政治的均衡点」であり、韓国では初めて「福祉が政党間の争点」となったことを意味した。しかし、それにも拘わらず、実際の提案としては、保守派も進歩派も同じような政策を提示せざるを得なかったという。そして当然のことながら、そこでは「問題は何も解決されていない。韓国政治は、いよいよ負担と給付の関係に直面する」ことを余儀なくされているのである。言わば、韓国は、「民主化」や「人権」、そして「生産力と生活水準の向上」といった「中進国」固有の政治課題からようやく解放され、今度は社会保障という「先進国」がどこでも直面している問題に、真剣に取り組まざるを得ない時代に至ったのである。そうした構造問題が、冒頭に述べた船舶事故への対応も含め、朴槿恵の新たな「憂鬱」となることは必至であると共に、それが反日カードを多用する誘惑につながらないという保証はない。4年前に読んだこの国の戦後史でも感じられた保守派と進歩派の厳しい政治対立は、今後も、この「先進国」化した近くて遠い国韓国の国内政治を大きく規定していくことになるのであろう。そして、その国内政治が対日関係を始めとする外交政策に与える影響を含め、引続きこの国の進路は冷静に追いかけていく必要があるだろう。
読了:2014年5月10日