近代朝鮮と日本
著者:趙 景達
先日、韓国の戦後史を読んだばかりであるが、こちらは主として19世紀半ばから1910年の日韓併合までの朝鮮近代史である。この時期は言うまでもなく、日韓の最大の政治問題である「歴史問題」の主戦場になっていることもあり、その取扱い方は政治的にはたいへんデリケートである。他方で、そうであるが故に、情緒を排し、できる限り客観的に理解する必要がある。私と同年生まれの、おそらく韓国系日本人である著者の試みも、そうした姿勢に基づいていることは間違いない。それでは、そうした意図は、どの程度実現しているのだろうか。
著者は、朝鮮における政治文化を長期的な視座で見ながら、それが近代に及ぼした影響を重視する、という姿勢から、14世紀末の朝鮮王朝成立から叙述を始めている。この時期に関しては、朝鮮王朝の建国理念が、「儒教的民本主義=権力的な覇道を排して徳治主義的な王道を目指し、どこまでも民のための政治を行うこと」が理想とされ、18世紀以降は、それが体制的には「一君万民」という政治姿勢となったことが重要である。それはもちろん君主の独裁権力を前提とするが、その支配下の民衆は「平等」と見做されることから、例えば「公論や直訴は重要な言路」として建国時から重視されることになる。
しかし、それが実際に機能したかというと別問題で、凶作時の農民の流民化や軍役の人頭税化など、民衆を苦しめる事例も多く、それを不満とする民乱も度々発生した、というのは、中世農村社会の一般的な現象である。ただ19世紀に入り徐々に民衆が胎動してきた時に、日本的に言えば「士族」にあたる「両班」と呼ばれる人々の人口が増加し、「日本的な兵農分離体制とは違う朝鮮にあっては、士族と農民は村々で共生」していた、という。「一君万民」思想の下では、そもそも「身分制」は認められない。そしてそこでは「儒教=朱子学に基づく仁政イデオロギー」が、日本ではあくまで「統治の手段」であったのに対し、朝鮮では「統治の原理そのもの」となり、それがその後の西欧列強による圧力に対しての両国の重要な相違をもたらした、というのが、ここでの著者の議論のポイントである。
19世紀半ばに向けて「勢道(セド)政治」という「国王の信任を得た側近」による政権が成立するが、これは実際には「門閥政治」であり、腐敗は必至であったことから、政権から締め出された「両班」と貧農や無田農民が「儒教的民本主義」の下で結びつく多くの反乱が勃発すると共に、終末的気分が広がる中、「東学」と呼ばれる新興宗教の類も、大きな勢力となっていったという。
著者は、江戸幕府の日韓関係を総括しているが、それは「通信使外交」と呼ばれ、「豊臣秀吉によって引き起こされた悲惨な壬申戦争(壬申倭乱)」の傷を癒す「善隣外交」であったという。しかし、日本側には朝鮮に対する蔑視観があり、その例として、1764年、朝鮮使節団の一人が対馬藩士に殺害された事件が日本で歌舞伎の題材となり、「対馬藩士の正当性と悲運が民衆の共感を呼ぶような事態となった」ことが紹介されている。当然、朝鮮側にも、日本は文明的尺度から「東夷(東の蛮人)」という意識が形成されることになり、それが19世紀に入ると「通信使外交そのものを変質させ」、日本側で、「国体」思想とも相まって、「朝鮮への侵略を露骨に言明する」「征韓」思想が拡大する契機となっていったとしている。
「日本の明治維新と並行して、朝鮮でも大きな政治の転換があった」として、国王高宗の即位に伴う「興宣大院君(以下「大院君」)政権」の誕生が説明される。「大院君」とは国王である「高宗」の生父の呼称であるが、これは「勢道政治」を打破して王権を強化することを意図したものであり、言わば日本の天皇制復古に対応する。しかし、ここでは、年少(即位時は12才)の「国王=高宗」の後見人である大院君が実質的な意思決定を行おうとしたことが、日本との決定的な相違であり、彼は地方官僚の汚職摘発や税制改革等の改革を自ら主導して行うことになる。著者は、その政権の性格を「ポピュリズムと儒教的民本主義」の混淆と規定している。また彼は対外的には鎖国攘夷政策を貫き、外人宣教師を逮捕するなど、キリスト教弾圧を強化し、欧米列強の報復攻撃を受ける。著者は、こうした列強の報復を受けて、ある意味柔軟に対応した薩長主導の日本に対し、朝鮮は頑強に抵抗したことが、前述の朝鮮の原理的儒教主義の一例であるとしているが、もちろんこれは見方を変えれば、状況を踏まえない情緒主義で外交を進めたと批判されてもおかしくない。そして親族内の抗争から、1973年、大院君は退位し(ただし、彼はその後も時として政権を奪還するなど、多くの節目で影響力を行使することになる)、同時に「征韓論」論争や江華島事件を経て強まった日本の朝鮮強硬論等を受け、朝鮮内部の鎖国派と開国派の抗争が激化していくことになる。言わば、列強の圧力を前に、先に政権の安定性を獲得していた日本が、朝鮮に対して、西欧列強が日本に対して取った行動と同じ対応を行うことになったのである。そして1876年、朝鮮と日本の間で修好条約が締結され、そこでは「朝鮮国ハ自主の邦」と規定されたが、これは「朝鮮に対する清国の宋主権」を否定するもので、その後、朝鮮の支配権を巡る日清・日露戦争の前哨となっていくのである。
こうして朝鮮から日本に、再び「修信使」と呼ばれる使節が定期的に送られるようになったが、朝鮮側では、これを通じ開明派が勢いを強めたのに対し、日本側ではむしろ朝鮮蔑視が進むことになったというのは興味深い。また日本に続き、1882年以降、欧米列強との間で修好条約が締結されるが、著者はこれを「第二の開国」と位置付けている。
内政面では、この時期商品経済の浸透に伴い、農村の窮乏化などの社会不安が拡大していくが、これに、開港場での傲慢な日本人商人に対する反日感情が加わり爆発した一例が1882年の壬午軍乱であった。これは「大院君の反乱」と規定されるとおり、彼の一時的な復活を促し、開明派は分裂するなど、その後の朝鮮の保守派と開国派の主導権争いを激化させることになる。それに清国や日本の思惑が介入するが、日本に関しては、開明派の日本での外債計画を失敗させるような陰謀も行われたことが説明されている。これは、その後の日露戦争時に、ロンドンでの日本の外債調達が成功したのと好対照である。
その後も開明派と守旧派の抗争は続き、1884年には開明派が「甲申政変」と呼ばれるクーデター未遂事件を起こしている。著者は、この事件を巡る数々の陰謀説や、これを巡る日本の各種勢力の反応などを整理しているが、その中では「国権主義者」福沢諭吉が、この事件以降、清国及び朝鮮を「悪友」と規定するなど、「アジア主義的議論(=共存論)」と決別したと批判されていることが注目される。また1892年には厳しい凶作・飢饉を受けて甲午農民戦争と呼ばれる、土着新興宗教である東学徒に率いられた大規模一揆が勃発する。そして、この反乱からの「居留民保護」を目的に日本は朝鮮への出兵を行い、それが日清戦争に連なっていったことは知られているとおりである。また日清戦争の最中には、第二次農民戦争が発生するが、そして著者によると、この反乱は「儒教的民本主義の政治文化を背景に、武力的に仲介勢力を排除し、一君万民の論理に訴えて、民衆的要求を実現しようとするもの」で、「半年にも満たない期間であるとはいえ、民衆自治を敷いたことは朝鮮史上いまだかつてないことであった。」ということになる。朝鮮型「ユートピア」思想の表れ、ということであるが、やや19世紀末ということを考えると、やや時代錯誤的な感も否めない。
日清戦争後は、日本はますます朝鮮への軍事的圧力を強め、朝鮮側は、今度はロシアに接近し日本を牽制する。1895年の、国王妃である閔妃が暗殺されるが、これはその後日本軍部が中国でも行うことになる政治的陰謀であり、すぐに国際社会にばれてしまったというのはお恥ずかしい限りである。その後親露派の政権ができるが、これが結局守旧的な政策しかとれなかったことが、再び日本の介入を許すことになる。1897年、国王である高宗は、国号を「大韓帝国」と改め、帝政を宣言するが、内外の政治情勢が変化することはなく、また「独立協会」という「近代的政治結社」が公共の場での論議と議会制の導入を促す運動も起こったが、結局弾圧され、政治改革は進まず、帝国は日露の争いの舞台となっていくのである。
日本とロシアに対する大韓帝国の国民感情は、日本の方がロシアよりまだマシで、うまくいけば両方朝鮮から出て行ってくれ、といったものであったが、その結果受け入れた日本軍や、それに伴って入ってきた小商人の横暴が目立つようになると急速に対日感情が悪化していく。更にそれに、日本軍部による対露戦争準備を理由とする軍用地・鉄道用地収用、そして労働力収奪が拍車をかけたが、他方で朝鮮側でも「一進会」という、進んで日本の対露戦争準備に協力しようという勢力もいたことは注目される。もちろん著者は、日本の事実上の占領に抵抗する武装闘争も幾つか紹介しているが、それが力を持つことがなかったことは、その後の歴史が証明している。日露戦争の日本の勝利により、朝鮮は日本の保護国となり、1905年戦後間もなく伊藤博文が特派大使として送り込まれ、日韓併合に向けたプロセスが始まるのである。屈辱的な日韓保護条約が結ばれた際の国民の嘆きや、その後の高宗の欧米向けの「密使外交」や、「義兵運動」といった武力抵抗(その多くはゲリラ戦であった)も行われるが、それらは逆に日本側から保護国化を進める理由に使われ、結局1907年には第三次日韓協約で、日本は、法令制定や行政施行、官吏任免などの内政指導権を完全に掌握することになる。もちろん「国権回復運動」の御旗の下での数々の抵抗も紹介されているが、日本軍は言論統制や治安維持の強化で抑え込むことに成功する。そして、まさに現在日韓歴史問題の素材ともなっている、1909年の安重根の伊藤博文暗殺。これは個人テロではあるが、安重根はあくまで「参謀中将として正規の交戦行為として伊藤を射殺した」というのが著者の理解である。「戦争を集団で行うことが不能となり、それでも戦いを放棄すまいとするとき、弱小民族に残された道が『暗殺』であるのは、悲劇的現実である。」そして第三代統監(陸軍大将)寺内正毅の下で1910年7月、形式上の閣議を経て、日韓併合は完成し、この朝鮮近代史も幕を閉じるのである。
朝鮮近代の政治文化についての著者の見方は、朝鮮王朝の建国理念である「儒教的民本主義」が、良くも悪くも近代朝鮮の現実の歴史を規定した、というものである。それが列強の開国圧力が高まった際に、「情緒的」で「不器用」な対応となって現れ、他方で巧妙に対応した日本との格差をもたらし、結果的に日本の拡張主義の餌食となってしまった。しかし、朝鮮の日本に対する感情は、多分に愛憎共存する微妙なものであるとも見ている。それは日露戦争前の、アジアの一員としての日本へのある種の期待感を持っていた、という説明からも浮き上がってくる。しかし、一度高まった期待が裏切られると、その思いは再び修復が難しいものになる。この作品からは、そうした朝鮮側から見た、近代史における日本と朝鮮の関係の問題性をなんとか日本人に伝えようと努力している様子が窺われる。
しかし他方で、やはり地理的に周辺の大国とのバランスを取らざるを得ない位置にあるこの国が存続していくためには、周辺の大国を手玉に取るような冷静かつ狡猾な舵取りが必要とされる。現在の北朝鮮の予測不可能な行動が、そうした狡猾な外交例という訳ではないが、やはり現在の韓国も、ここで描かれているような歴史的に染みついた原理的な情緒主義的な対応ではない、「おとな」の対応を行うべき時期に来ていることも確かであろう。我々日本人が、こうした両国の近代史を学びながら、そこで醸成された相手の両義的な感情を理解する必要があることは言うまでもないが、他方で韓国側も、自国の苦難の歴史を踏まえた新たな戦略を考える時期にきているのではないだろうか?その意味で、著者が朝鮮史の鍵として使っている「儒教的民本主義」が、既にあるものとしてではなく、乗り越えるべきものとして意識された時に、両国の関係改善が歩み始めるのではないかと思えるのである。
読了:2014年5月31日