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秘境ブータン
著者:中尾 佐助 
 書店で目にした時は、一般的なブータンの紹介本だと思われた。ヒマラヤの奥地にあるこの国については、「国民幸福度指数」の採用や、数年前の若い国王の結婚と夫妻での日本訪問などで、日本での関心も高まっているが、他方でこの国に関するまとまった本は、今まで目にしたことがなかった。そのため、このタイトルを本屋で見つけた時は、いとも気軽に購入したものだが、しかし、いざ読み始めてみると、これがなかなかの強者であった。まず、この作品の基礎になっている著者のブータン訪問は、1958年の約5か月間、そしてこの作品が、新聞への連載を経て一冊の作品として出版されたのが1959年というので、自分の年齢でいうと4歳から5歳の頃である。その後1971年に再版され、2011年に今回購入した文庫本化されている。即ち、これは、日本自体の高度経済成長が始まる前の時期に、この「秘境」の地に単独で踏み込んだ植物学者の先端的な報告なのである。更に、その報告は、著者の専門である植物学に留まらず、動物学や気象学など、山の冒険に欠かせない知識にも通じ、更に中根千恵との交流にも触れられているが、全体として文化人類学的な観点も豊富なヒマラヤ論になっている。あまりに詳細な観察と報告で、途中でややうんざりすることもあったが、何とか読み終えた、というのが正直なところである。因みに、著者自身は、この5か月の滞在を除くと、その後この国に長く住み着くことはなかったようであるが、ネット情報によると、彼の大阪府立大学時代の教え子である西岡京治が、アジア・太平洋地域の途上国に対する支援スキームであるコロンボ計画の一環でJICAの駐在員としてこの国の農業技術指導に半生を捧げ、後に国王から最高爵位を受けたという。文庫本の解説によると、その後、短期間この国を再訪した著者は、その際そこに滞在していた西岡を訪ねたということである。

 1958年、ブータンはまだ、国家として国際社会の認証を得ていない、事実上「鎖国」状態のヒマラヤの一地方であった。「鎖国」というよりも、むしろ国際社会は、この地域と交流を取る必要もなかったというのが実態だろう。ヒマラヤへの登山家たちは、エベレストなどを目指し、インドからネパールに入る。ブータンにもいくつか7000メートル級の山があるが、それもヒマラヤのいくつかの高峰の一つに過ぎない。そして何よりも、この国へ入る交通手段はなく、唯一インドから厳しい山岳道を越えて行くしかない。しかし、あるいはそれ故に、既に1953年にネパールはマナスル登山隊の科学班として参加していた著者は、ブータンを次のターゲットとし、机上の勉強を始めるが、ここでブータンの王妃一行の京都滞在という情報が届けられる。この情報は、京大の今西錦司や桑原武夫、そして当時まだ京大生であった本多勝一を経由して入ってきたということなので、著者を取り巻く当時の人間関係が容易に想像できる。毎日新聞をスポンサーとして巻き込み、王妃一行のレセプションなどを企画して、著者のブータン訪問の素地が固まることになる。

 ブータンの存在が、インドに進出した英国が北進していく過程で初めて西欧社会に知られたのは1772年。定期的にヒマラヤの密林から突如インド北部の平野に現れ、略奪を行っていく山岳民族として恐れられていたという。1864年から65年にかけて、インドを制圧した英国との間で「ブータン戦争」と呼ばれる、戦いと交渉が繰り返される小競り合いがあったが、その後英国もこの国に対してはそれ以上の関心を払わず、ブータンもチベット以外の国に対しては鎖国をしてしまう。それから100年、この国に関する情報は断片的なものが伝えられるだけになってしまったということである。

 1907年、現在の王朝が成立してからは、それでもチベットへ向かう西欧人などがこの国を訪れることも多くなり、戦後はこの本が書かれた時の王妃が英国に留学したこともあり、この時の若い米国人の学友がこの国で優雅な休暇を過ごし、その写真等が公表されている。著者は、その写真で、京都に滞在している「王妃」が本物だと確認できた、ということである。

 こうして著者は単身、まずカルカッタへ飛び、そこで出迎えていた王妃の使節の人々と、まず北へ飛行機で2時間、そこから車で2時間かけて、カリンポンというインドの町にある唯一のブータンの在外公館である「ブータン・ハウス」に到着。ダライ・ラマもインド訪問時に滞在したというこの公館で、2週間ばかりの準備期間(といくばくかの上流階級との社交生活)を過ごした後、いよいよブータンに向けて出発する。ブータン宮廷の帰国者の大キャラバンに合流し、車と列車、更にトラックとジープでアッサム平原を進み、最後は馬に跨り、海抜1650メートルのブータン国境を越える。国境には通関の建物などなく、ただ大きな石が目印としてあるだけである。既に著者は道行の森林観察を行い、それがマレー半島やボルネオのジャングルとは全く違うという感想を抱いている。そしてブータンに入ると照葉樹林帯が延々と広がっていく。気温は下がり、そして山ヒルの群れが一行を襲う。このイメージは、昔、泉鏡花の小説「高野聖」で植えつけられたものであるが、全く薄気味悪い世界である。著者は腹痛や下痢にも襲われるが、植物観察だけは仔細に行っているところは、まさにプロの根性である。

 大キャラバン隊は、まず南部ブータンを進んでいくが、そこでの茶やペデルと呼ばれる「チューインガム」の習慣などが説明される。大名行列とも言ってもよい一行は、各地で「門松の礼」で迎えられたことも報告される。その大名行列が、川に差し掛かるといっせいにマス釣りを始めたそうである。日本の江戸時代の「大名行列」でも、ここまでの自給自足は行われなかっただろう。そしてようやく初めての農村地帯に入ってきたところで、著者は、それまでの厳しい行程を顧みながらも、「私の通ってきた道は植物採集を志す者にとっては天恵の宝庫だ」と言い切るところはさすがである!そして中部ブータンに入ると、著者は大キャラバン隊から別れ、単独の植物採集に専念することになる。広いショウブの大湿地帯に行きあたった際には、ベーリング海峡を越える、アジアからアメリカへの人類移動と、その際にこのショウブもアメリカ大陸に運ばれたのではないか、という米国の学者の説を紹介している。

 「ブータンの国内でいちばん豊かな谷間」に入ってきた著者が見たのは、「巨大な白亜の壁を持った」パロ・ゾンの城である。20世紀初めの一時期だけ進められた城郭建設の産物であるが、周りには「城下町」といわれるような集落はほとんどなく、城だけがぽつんと建っている(著者の写真もある)。間違いなく現代では観光地になって、周囲も開発されているのであろうが、著者の訪問時の孤高ともいえる城の姿はたいへん印象的である。

 このパラ・ゾンの町で面識を得た、英国への留学経験のある若い医者の助けを得て、ブータン・ヒマラヤの高山帯、特に幻の高峰チョモラリを目指す彼の新たな旅が始まる。木立は針葉樹林帯に変わり、著者はガイドに案内されるまま、上がったり下がったりの登山を進める。3500メートル地点でのキャンプ。そして最終的には5300メートルまで登り、チベットとの国境にある7314メートルの、この「ブータンで一番有名な山」を視界に収めるのである。9日間に及ぶ探検であったという。

 チョモラリで採集した植物標本の整理の様子や、ブータンにとって最も重要なチベットとの交易、ブータン兵が使った毒矢の話、漆を塗った漆器の伝統、そしてブータン語についての考察などを経て、今度は首相の一行に合流し、彼の出身地域であるハ・ゾンに向かう。そしてハ・ゾンでの生活(狩りなど)と、そこを起点にした植物採集の旅。そして今度は王宮のあるテインプウに移動する。現在も首都となっているこの町に着くと、インドのネール首相の来訪が決まったということで、大騒ぎになっている。陽気な囚人の話。そして、護衛の誰もいない王宮で、著者は国王や王妃に謁見することになる。そして「テインプウからブータンの西北隅のリンシー・ゾンに行き、それから東南に転じて古都プナカを訪れ、更に東に向かって王家発祥の地ブムタン地方を歩き、その北のチベット国境まで行って処女峰クーラ・カンリ(7569メートル)を偵察する」「かつていかなる外国人も試みたことのないルート」を辿る計画に、国王から直接承認を得るのである。まずは、冷たい雨に濡れながら、延々と続く「氷蝕谷」を1日経過してリンシー・ゾンへ。ここは「ヒマラヤの美しいお花畑」で、特に「青いケシ」との出会いが、著者を喜ばすことになる。再びヒルの攻撃に耐えながら、3日かけ古都プナカへ。「ブータン随一といわれる美しい城」、17世紀に妖僧ラム・サプトがラマ今日の活仏として君臨したこの城も、20世紀初めに打ち捨てられ、今や「くずれゆく一歩手前」の状態であった。町自体も「悪疫のはびこる谷間、だれも住まない谷」になっている。しかし、ここなども、今は絶好の観光地になっているのであろう。

 ブータンでの人々の生活に欠かせない牛乳の話しや、農家の家の作りや生活、あるいはブータンの婚姻慣習(妻訪い)などを解説しながら、著者は旅を続け、ついに幻の山クーラ・カンリをカメラに収める。こうして著者が、テインプウに戻ってきたのは、出発してから52日目のことであった。ブータンの風俗や、幻の「雪男」の話、あるいは蜜蜂の大群に襲われた話等々、そして最後はこの国にも否応なく押し寄せる近代化の波に思いを馳せながら、この5か月に渡る大旅行が終わる。1970年代後半に書かれたと思われる「ブータン・その後」(チベット反乱のブータンへの影響と、著者が世話になった首相の暗殺や関係者の盛衰など)と、1981年に書かれた「23年目のブータン」(インドからブータンに入る自動車道の完成による近代化など)という二つの短い補足が申し訳程度に、最後に掲載されている。

 現代のブータン紹介を期待していた私は、見事に裏切られた訳であるが、しかし私が年少の時代に、自身の科学的な関心から、こうして「幻の国」を訪れていた日本人がいる、というのは、たいへんな驚きである。そしてそれは、単なる学者の旅行記ではなく、ロマンに満ちた冒険旅行記なのである。東南アジアに関して、今まで私が接した作品には、前掲の「緑色の野帖」を含め、そうした刺激が多々感じられる。自分がこうした旅行ができるタイプではないので、益々他人の実体験が羨ましくもあり、また同時に、時代は変わってしまっているとはいえ、何とかこの世界の一端に触れたいという意欲を感じさせてくれる。現代のブータンが、この作品の時代からどのように変化しているかを、近い将来自分の目で見てみたいという気持ちを抑えることはできない。

読了:2014年10月4日