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台湾の歴史と文化
著者:大東 和重 
 1973年生まれの、日中・台湾比較文学専門家による台湾の歴史と文化を扱った新書である。台湾については、90年代初頭に訪れた以外は、その後滞在する機会もなく、また東南アジアにいると、距離的にやや関心が薄くなっていた。しかし、日本に帰国すると、当然ながら隣国の一つとしてより身近に感じる上、近年は、政治的には米中対立の激化の中で、一旦支持率が下がった蔡英文総統の人気が復活したり、米国が中国の批判を無視して戦闘機を売却したり政府要人を送り込んだりと、なかなか賑やかで気になる隣国である。また経済的には、シャープを買収した鴻海など、先端産業での躍進も目立ち、経済面での中国との連携・競争に関わる注目度も益々高くなってきている。そうした台湾の歴史や文化については、もちろん一般的な知識は持っているが、考えてみるとあまりそれを扱った著作を読んだことがなかった。そんなことで、この台湾の歴史と文化の「入門書」は、面白く読むことができた。著者は、従来の台湾の紹介が、首都台北を中心とした北部からの視点で描かれてきたと感じており、それに対し、本書では、著者も2年程滞在した南部の視点も意識した、と書いているが、「従来の紹介」にあまり接していない私は、それは意識することはなかった。

 冒頭の二章は、台湾の先史を見る目的から、この地の先住民族の姿を、日本統治時代の日本人研究者や、彼らと協力した現地関係者の活動を中心に描いている。多くの種族が存在した、というのは、日本や中国、東南アジアの国にも共通するが、それは個人的には余り関心はなく、ここではむしろ17世紀初め(1624年)に、インドネシアと中国・日本を結ぶ中継地点として、南部の安平や台南に拠点を築いたオランダの進出を押さえておけば十分だろう。オランダ統治期はわずか40年足らずと、決して長くなく、支配地域も、その拠点の一帯に限られていたが、「先住民族を武力で屈服させるとともに、キリスト教の布教を進めた」他、「農地を開墾するため、対岸の中国大陸から漢族を移住させ」、「水田を開いて稲作を行い、サトウキビ園を設けて砂糖の生産を開始」。そして何よりも「文字に記された台湾の歴史がここから始まる」という点で、この島の歴史の「大きな転換点になった」とされる。

 オランダの台湾支配を終わらせたのが、オランダも一時貿易拠点を有していた日本は平戸生まれの鄭成功であったというのは面白い。貿易商でも海賊でもある父と日本人の母との間に生まれた鄭成功は、勃興する清朝に対抗しながらも大陸では劣勢となり目を付けたのが台湾。そして1662年、台南のオランダ拠点を攻め落とし、彼らを台湾から駆逐したという。この鄭成功の動きは、時代を下った20世紀半ば、大陸で共産軍に敗れた蒋介石の国民党の動きそのものであり、その際、蒋介石はこの鄭成功の行動を頭に思い浮かべていたのであろう。しかし、鄭成功は、それから半年後に病死し、それを引き継いだ息子も、僅か20年で清朝に降伏し、その後は対岸の福建省の一部として清朝による支配が続くことになる。その時代、基本的に台湾への渡航は禁止されていたというが、漢族の流入はやまず「先住民に匹敵する数となった」とのことである。そして1885年、福建省から分離して台湾省が設置、首都も台北に移されることになる。時代は下り1920年、既に人気作家となっていた佐藤春夫が、日本での線愛沙汰に疲れてこの地に滞在したことが紹介されているが、これは若干の気分転換的な逸話である。また著者は、安平や台南の歴史を紹介しながらの街歩きを行っているが、この地域は特に福建省や潮州からの移民が多く、彼らの主要言語が、その後の「台湾語」になったという。屋台料理や寺院(廟)が立ち並ぶ街の雰囲気は、同じ地域からの移民が多いシンガポールと共通する(モスクがないだけの相違!)のに苦笑してしまう。

 こうして時代は、1895年からの日本統治に移っていく。現代でも、中国本土に比して、台湾の日本に対する感情が良好であるのは、この日本統治時代が、それなりに機能していたからだ、と言われることが多いが、それが本当にそうなのか、というのが、ここでの関心である。

 この時代、日本は「農業振興のための水利灌漑施設や教育制度の充実、病院の設置など医療や衛生環境の向上」といった形で台湾の近代化に貢献したが、同時に抗日事件も絶えることなく発生したのは当然である。1915年の「西来庵事件」は、その最大のもので、「台湾の伝統的な宗教団体や秘密結社を母体」としていたという。こうした抗日運動は徹底的に武力鎮圧させられたが、他方で「総督府の方針に従う限りにおいて、台湾人の生活に対する干渉は弱く」、「日本語の普及が公教育を通じて進められたが、私的な生活の場で台湾語を用いることは禁じられなかった」。伝統的な信仰生活も維持され、廟が壊されるといったこともなかったという。若い学生の間では、日本への留学生が増加したとは言うものの、台湾人と日本人の間には当然ながらの差別意識があり、それが小規模な衝突となることもあった。「日本統治期を経験した台湾人の多くがこの時代を懐かしみ、日本人教員は民族差別をしなかったと回想するケースが多い」というのは、やや過剰評価のような気がする。そして1937年の日中開戦後は、「日本精神」を植え付ける「皇民化運動」が進められ、「公共の場での台湾服の着用や台湾語の使用が禁じられる一方、日本風の姓名に改め、神社を参拝し、教室のみならず家庭内でも日本語で話すことが求められた」ということなので、当然台湾人の反発は強まっていたことが予想される。そして太平洋戦争が始まると、先住民の若者たちは高砂義勇隊として召集され、戦場での悲惨や、その後生き残っても、日本政府からの無保障等の苦難の歴史が繰り広げられることになる。

 但し、こうした日本統治時代の苦難の歴史が、決定的な反日感情にならなかったのは、戦後の国民党政権(外省人)による、更に厳しい民衆(本省人)生活への統制が導入されたことが大きいのではないかと想像される。

 実際国民党政権による統制は、日本のそれを圧倒的に凌駕するものだったようである。もちろん戦後の混乱とその状況下での権力の弾圧は、東南アジアのみならず、日本を含め程度の差はあれ、世界中どこでも見られた現象であるが、台湾のそれはその中でも厳しかったのではないだろうか。1947年の「2・28事件」と、その後の過酷な弾圧(知識人中心に2万人の死者をだしたと言われる)はその最大の例である。こうした「白色テロ」に翻弄された個人の紹介や、現在は観光地となっている「監獄島」の話など、この時代の弾圧話には事欠かない。他方で、本省人も当初は歓迎した国民党軍は、日本軍との比較で「装備はひどく、規律に欠け、士気上がらず」という感じであったというが、こうした支配者の下で過酷な独裁を強いられたことも、両者の溝を深めたのであろう。「のち多くの本省人が、初めて見た軍の姿を、国民党による乱脈な政治に重ねた」というのは、ある程度納得できる。しかし、40年続いたこの独裁(戒厳令)は、蒋経国時代末期の1987年に解除され(冒頭に記したとおり、私が、この国を観光で訪れたのは1990年代初めだった思うが、当時はそれを全く意識していなかったが、戒厳令解除後すぐの時期だったということになる)、翌年には本省人の李登輝(本年7月、97歳で逝去)が第三代総統となり、その後は国民党と民進党との二大政党制が確立する。そして当初は、冷戦下の米国の経済支援等により「離陸」した経済も、もちろん紆余曲折はあるが、現在活況を迎えることになる。民主化以降の台湾の歴史や庶民の生活には著者はあまり触れていないが、私もそれらは日常的に情報が溢れているので不要である。

 こうして見てくると、私が親しんだシンガポール等の東南アジア諸国と同様、この島国の歴史も、固有の先住民族と中国各地からの漢族系の移民との共存・軋轢・混交の歴史であったことが理解される。他方、東南アジア諸国とは異なり、西欧列強による植民地支配はなかったものの、当然ながら中国の支配と、1895年からの40年に渡る日本の統治、そしてその後の国民党政権による40年の独裁時代という固有の歴史を持っている。こうした歴史が、中国本土や日本に対する、他の日本の周辺諸国とは少し異なる固有の感情を育成してきたのであろう。冒頭で述べたように、米中政治関係の緊張と、それに関連した経済摩擦の進化の中で、この国の対応や、日本との関係が、今後大きな意味を持ってくることは十分予想される。そして常にそうであるが、そうした対応の際に、その国の歴史と文化を十分理解することは必須である。国境が開放された際には、またこの国を再訪してみたいものである。

読了:2020年12月7日