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蒋経国と李登輝
著者:若林 正丈 
 「ガンディー」、「リー・クアンユー」、「ラーマンとマハティール」、「スカルノとスハルト」に続く、岩波書店刊行の「現代アジアの肖像」シリーズの5冊目で、1997年6月の出版である。著者は、1949年生まれの東大大学院教授(出版時)で、台湾近現代史の専門家であるが、私が著作を読むのは初めてである。台湾については、言うまでもなく、現在中国の対外拡張機運が強まる中、台湾海峡を巡る緊張が高まっているが、ここではそうした中台関係に加えて、当初は大陸から逃げてきた蒋介石率いる国民党の独裁・恐怖政治が、民主化に向けて進んでいく台湾固有の近代史が詳細に語られており、現在の問題を理解するための歴史的背景を中心に、十分な情報を与えてくれる。

 蒋経国と李登輝は、「かたや現代中国の一大政治家族の『太子』、(中略)かたや日本の支配する植民地に育った台湾人高学歴のエリート、中国大陸には戦前も戦後もまだ行ったことがない」という対照的な二人である。その彼らが、ちょうど「『中華民国』と中国人民共和国の国際的な地位が逆転し、台湾をめぐるアイデンティティの政治が台湾の内外にまさに顕在化した時期に台湾の政治を率いる」ことになり、もちろん多くの議論はあるが、この「国」が現在まで存続することを可能にしたのである。私が、この「国」を唯一訪れたのは、1990年頃であるが、その時期は、1988年に蒋経国が死去し、李登輝への権力移行がまさに微妙な状況となっていたことを改めて認識することになったのである。

 まず蒋経国であるが、生まれは1910年。中国は、翌年の辛亥革命を経て激動の時代を迎えることになるが、そうした中で国民党の指導者となった蒋介石は、この息子をあまりかまうことがなかったようだ。そして学生となり政治意識を目覚めさせながら、反軍閥のデモなどに加わることで中学を退学させられたり、逮捕されたりした後、1925年、15歳にしてモスクワに留学することになる。当時は第一次国共合作時期であったことがあるが、彼が通ったモスクワ中山大学は、実態は「コミンテルンの共産主義者が指導する革命幹部養成学校」であった。そこで彼は共産主義の影響を強く受けながら成長し、1927年の蒋介石による上海での反共クーデターに際しては、父親の動きを糾弾する声明を発表したりすることもあったという。他方、同年に彼は中山大学の過程を終えたが、帰国申請はスターリンが認めず、事実上の人質として地方の工場での勤務などで、しばらくソ連で時を過ごすことになる。ロシア人の女工ファニーナと結婚したのもこの時期のことである。そして彼がようやくソ連当局の承認を得て帰国することになるのは、日本の侵略に対抗する国共合作が成立する1937年のことになる。この経歴は、今回初めて知ったが、彼の若き時代のソ連留学とそこでの共産主義への傾倒、そしてロシア人妻の存在は、その後の彼の経歴にはほとんど影響がなかったというのも興味深い。

 帰国し、「太子」として蒋介石の指令に従うことになるが、抗日戦争においては、彼はあまり目立つことがなく、地方勤務を経て、戦後の1945年、ソ連軍との交渉に引き出される程度の役割に留まっていたという。しかし、続く共産党との内戦で、蒋介石が敗れ、台湾に逃亡する中で、「台湾政治家」を運命付けられた彼の存在感がようやく高まっていくことになる。「大陸で挫折を続けた『太子』は、台湾では権力機構にしっかりと根を張っていく」のである。

 以降は、戦後の中国と台湾の関係と、台湾内政での戒厳令による外省人による本省人に対する「恐怖政治」の実態が説明されることになる。朝鮮戦争を契機に、一時は台湾放棄も覚悟していた米国の軍事的保護を受け、台湾は生き延びるが、他方で蒋介石による「大陸反攻」の夢も米国により阻止され、現在まで続く「台湾海峡中立化」状態が始まることになる。その体制は、「大陸でガタガタとなった権力の再編であり、同時に台湾社会を掌握」せんとするものであり、蒋経国は情報・治安部門を任され、「政権の裏の舞台でムチをふるう」ことになったという。そして「表舞台」で、米国の信認も受けた陳誠が、農地改革等で後継者としての実績をあげたものの、彼が1965年に死去すると、蒋介石の衰弱もあり、蒋経国がおもむろに「表舞台」に登場することになる。1975年、蒋介石は心臓発作で倒れ死去。総統は別の人間が一時的に受け継ぐが、1978年、蒋経国は総裁に選任されることになる。またその間の1972年のニクソン訪中を契機とした、米中関係の進行と、日本を始めとする国際社会の中国承認、台湾との断交が相次ぐことになるが、米国による「台湾の自主防衛力増強政策」は継続し、台湾海峡の現状維持は続くことになる。

 こうした国際情勢による危機に対し、指導者となった蒋経国は、「政治の部分開放」、即ち、「非改選議員で占められる『万年国会』の定期部分改選の実施、そして党・政府部門への本省人の積極登用開始」を進めることになる。それまでは特務機関を通じた弾圧一辺倒であった彼が、「表舞台」でアメによる改革を進める方向に転換していった。これは、蒋経国の大きな変化であり、彼がその後の台湾社会の安定と成長、そして李登輝という本省人への政権移譲という、その後の流れを作ることになるのである。

 1960年代以降の急速な経済成長は、教育の普及を含めた中産階級の拡大をもたらし、同時に彼らの政治意識の変化も進む。こうした勢力による米国内での民主化を求めるロビー活動も盛んになっていくが、蒋経国はそうした動きにも機敏に対応したという。もちろん急進的な民主化を求める運動は、例えば1979年の「美麗島事件」のように弾圧されるケースも発生したが、次第に蒋経国は、自らの健康不安の高まりの中で、政権内の「タカ派」を降格させ、本省人の登用を進めていく。そして1984年、李登輝が副総裁として「後継」に名乗りを上げることになる。また1987年には38年続いた戒厳令を解除。翌年には新規新聞発行禁止措置も解除し、言論の自由も一歩進めると共に、大陸旅行の解禁による台湾海峡分断の状況も変えることになる。1988年1月、蒋経国は77歳で死去する。

 こうして李登輝が、本省人として初めての指導者となるが、もちろんその権力移行が平穏であった訳ではない。以降は、引続きそれなりの勢力である外省人古参グループの抵抗や本省人のライバルを巧みに排しながら、「民主化」を進めていく彼の姿が描かれることになる。権力の移行期にどこでも発生するように、彼は当初は穏当な「安全パイ」として選択されたが、一度権力を握ると、国内の「民意」と、米国を始めとする国際社会の支援により自身の権力基盤を固めていく。非常事態法として以前存在していた「反乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止を含めた「憲政改革」を「いつの間にか党内政治のアジェンダに乗せる」という「政治的盗塁」にも成功したという。また草の根から成長した野党民進党との関係も維持しながら、彼らの急進派が主張する「台湾独立」については、微妙な距離感を取りながら(「一つの中国・二つの対等な政治実体」、「中華民国在台湾」といった表現)、中国との関係も「低レベルの機能的接触の積み重ねが、しだいに高レベルの政治的接触を可能にしていく」という実務主義的に改善していったという。

 この著作は、1996年3月、初めての総統直接選挙で李登輝が当選するところで終わっている。彼については、現在並行して彼自身の著作を読んでおり、こちらで改めて触れることにするので、ここでは余り立ち入らない。その後彼は、2000年3月まで総統を務め、それを退いた後も様々な活動を続けた後、昨年(2020年)7月、97歳の大往生を遂げることになる。まさに戦後台湾の歴史を象徴する人物であったことは間違いない。

 いずれにしろ、この著作での最大の収穫は、蒋経国のソ連留学を含めたユニークな経歴と、彼が晩年、自身のイニシアティブで、台湾の民主化への道を切り開いたことを確認できたことである。その点では、今まで私が彼に抱いていたイメージを大きく変えることになった著作であった。そしてもちろん台湾海峡を巡る中台の緊張は、今後も続くことになろうが、その際に、例えば現在の蔡英文を始めとする台湾側の指導者がそれにどのように対応していくかといった点での歴史的な背景を踏まえるための材料も提供してくれたのであった。

読了:2021年12月16日