ちょっとディープな台湾旅
著者:下川 祐治
新年最初の読書は、気楽な旅行記。この著者の本は、まず2年ほど前に、シンガポールとマレーシア・ペナンを訪問した日本からの同僚が持参し、置いていった「週末シンガポール・マレーシアでちょっと南国気分出張」を、そして昨年秋にベトナム「バックパッカー」安旅行記を読み流している。著者は、私と同じ年の生まれ、新聞記者上がりのフリーライターで、以前の本でも書いたが、それらの地域への、この歳になって、ひたすら数ドルの差にこだわる旅行は、あまり私の趣味ではないし、内容的にも、気分転換に読み飛ばす類の本である。そして今回の本も、同様の台湾版である。ただ、台湾については、昨年末、戦後史に関わる著作を2冊ほど読んだこともあり、それに関連した旅も扱っているので、まずはその部分から簡単に触れておこう。それは「緑島」と呼ばれる、かつての国民党独裁時代に監獄島として使われたが、現在はリゾート島となっている台湾東南部の孤島である。
終戦直後、台湾が日本から中国に返還され、国民党の軍隊が駐留始めた時期、そこでは彼ら外省人と、元からの住民である本省人の間の緊張が高まることになる(「狗走猪来―犬が去り、豚が来た」)が、それが最初に爆発したのが1945年の2.28事件であった。これが、その後の「白色テロ」による恐怖政治と、1987年まで続く戒厳令のきっかけとなったが、この事件で拘束された政治犯の「思想教育」を行う目的でこの島に刑務所が設立され、多い時で2千人が収容されていたという。そして1951年に一旦そうした施設を大陸に移したが、1970年、そこで大規模な収容者らによる暴動事件(泰源事件)が起こったことから、再びこの緑島の監獄が強化されて運用が再開されたという。そして蒋介石死去後の1979年に「美麗島」事件で逮捕された関係者も収容されるが、最終的に民主化後の1987年以降、通常の収容所は残ったが、ここには政治犯の収容はできなくなり、そうした人々の名前を刻んだ人権記念碑が建立されることになる。その記念碑には、その後民進党政権で要職に就くことになった人々の名前も刻まれているという。
シンガポールのセントーサ島もそうであるが、このかつての監獄島も、現在はリゾート島に変貌している。著者たちが、対岸にある富岡漁港という街から、波の荒い海峡を越え、この島に到着すると、そこは国際免許もヘルメットも不要なレンタル・バイクの島(住民の数よりもバイクの数の方が多い)となっていた。バイクを借りて、現在は展示館となっているかつての監獄(「緑州山荘」と呼ばれていた)を訪れた著者たちは、そこで「洗脳」とか「思想改造」といった言葉が書かれた黒板の展示等を眺めることになるが、掲載されているそこの写真は、過酷な弾圧や恐怖政治を感じさせない長閑なものであった。
もう一つ触れておきたいのは、台北郊外の中壢(ジョンリー)という寒村である。著者たちは、この街にある「客家文化館」という施設を訪れるが、ここは単なる街のコミュニティセンターであった。ただそこからまたバスを乗り次いで向かった慈湖は、蒋介石所縁の地である。ここには彼の遺体が安置されているが、それは台湾に逃亡してきた彼が、ここが出身地である浙江省の風景に似ているとして気に入ってしまったためで、その後この一帯が政府の管轄地となり、2009年にそれが解除されるまで、一般人が立ち入ることのできない場所になってしまったという。またそこにある公園には、大小200体以上の彼の像が集められているという。実態は、2000年の民進党への政権交代で、台湾各地にあった彼の像の処理が課題になったという。ソ連崩壊時のロシアや東欧種国等、独裁政権崩壊時は、独裁者の像が破壊されるということが多く発生したが、「平和的」な政権交代であった台湾では、蒋介石の像が破壊されることはなかった。しかし、そのままにするのも憚れたのだろう、各地にあった彼の像がここに集められたという。それを前に記念写真を撮っているのが、「客家文化館」では全く見かけなかった大陸からの大勢の観光客である、というのを眺めながら、著者は、現在の大陸での蒋介石評価の一端を物語っていると述べているが、恐らくは、大陸の観光客は、政治家の評価などには関心がなく、ただ面白そうな場所の観光記念を残しているだけではないのだろうか。
この本のその他部分は、以前に読んだ本と同様、公共交通機関を利用したバックパッカー旅行記である。コロナ禍により、なかなか海外への旅は容易でない今日この頃であるが、機会があれば、上記の二つの場所に加え、ここで紹介されているが、私にとっては未知の台南地域などは訪れてみたいという気にさせられたのであった。
読了:2022年1月1日