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文在寅という災厄
著者:武藤 正敏 
 1948年生まれ、2010年から2012年まで駐韓国特命全権大使を務めた外交官による、現在の日韓関係についての考察である。韓国では、2006年12月、朴槿恵大統領が、関係者の汚職などを受け2017年3月に憲法裁判所で大統領弾劾決定を受け失職した後の大統領選挙で、革新系の文在寅が勝利し、現在まで大統領として君臨していた。その文在寅も、今回の任期満了に伴い退任。その後任として、激しい大統領選挙戦の末、保守系野党候補であるユン・ソギョル(尹錫悦)が時期大統領に当選し、5月10日の就任に向けて現在組閣を含めている状況にある。結局、今回の文在寅という革新系大統領の任期は5年で終わることになった訳であるが、まさに著者が大使として韓国に滞在した時期は、この文在寅大統領時代であり、日韓関係が史上最悪と言われた時期であった。著者は、この日韓関係の悪化の最前線で外交を取り仕切る責任を負わされたことから、文在寅政権に対する恨み辛みは積もり積もっていたのだろう。既にそうした思いは前著の「韓国人に生まれなくてよかった」で示されていたようであるが、2019年7月出版のこの著作では、改めてそれを整理した形でまとめている。これでもか、これでもか、という文在寅政権批判には、ややうんざりする感じもするが、日韓関係の「正常化」に対する著者の大きな期待は否定することはできない。恐らく、今回の保守系大統領の誕生で、彼は留飲を下げているのであろう。

 著者による文在寅政権批判は、概ね以下の3点にまとめられる。@1965年の日韓請求権条約を反故にし、「慰安婦問題」や「徴用工問題」に対する韓国大法院判決に対し無視を決め込み、日韓関係を決定的に悪化させた。A北朝鮮外交が最大の関心事であり、そのための米朝首脳会談の仲介を積極的に行ったが、北朝鮮寄りの立場や情報操作が顕著で、更には欧米等と合意した北朝鮮制裁の一つである「瀬取り対策」違反の行為を黙認している。その結果米国のみならず、国際社会全般の信頼を失うことになった。B国内経済政策においては、労働組合の意向を受けた最低賃金の引上げといった政策を進めると共に、サムソン会長の訴追など、財閥に対する締め付けを強化したことで、実質雇用の悪化や国内経済の停滞を招くことになった。

 それぞれの論点についての著者の詳細な議論は省くが、これらは概ね現在の日本からの文在寅政権に対する見方としてはコンセンサスを得ているものであろう。@に関しては、日本政府は引続き「解決済みの問題で交渉の余地なし」という「決然たる」態度を崩していないし、Aに関しても、私自身が目撃した2018年6月のトランプ・金正恩会談以降、何回か行われた米―北朝鮮トップ外交は何らの成果も生み出さず、トランプは退陣。そして現在の米バイデン政権は、一切北朝鮮との交渉を行わず、北朝鮮はただ挑発的なミサイル発射実験を繰り返すだけになっている。Bについては、その後世界全体が、まずは新型コロナ、そして現在はロシアのウクライナ侵攻による経済活動低迷から物価上昇と景気悪化という流れに入っている中、あまり韓国自体の国内経済は話題にならないが、欧米や日本以上に厳しい状況にあることは、特に韓国経済が輸出や韓国企業の国外生産に依存しているだけに、容易に想像できる。

 他方、著者が指摘しているように、それにもかかわらず文在寅政権が、国内でそれなりの支持率を維持してきた、というのも興味深い現象である。著者は、こうした有権者が問題意識を持ちにくい要因の一つは、文在寅政権による巧みな国内マスコミの操作である言う。それは「裁判所、検察、警察といった司法・法執行機関に加え、新たに捜査権力を持つ機関を作り出し、長年政争の『先兵』として使われてきた公権力を手中に収める」と共に、「もともと革新系の強い教育界だけでなく、マスコミにも人事や労働組合の突き上げを使って事実上の『統制』を行う」ことで「政権のミスを最小化し、スキャンダルを葬り去るかわりに、野党勢力のミスやスキャンダルを大きく取り上げる」ことに成功してきたとされる。各種政府機関の幹部に、その分野のプロではなく、「政権奪取への論功」を基準に選んだ腹心を送り込むことで、政治的な基盤は強化されるが、実務上の能力は低下することになる。その意味で、著者は、この政権は、それまでの保守政権に比較しても「非民主主義」且つ「独裁」的な方向に動いているとまで主張している。著者は、「ネロナムブル」という韓国語を紹介しているが、これは「身内に甘く、ライバルに厳しい」姿勢を意味し、文在寅政権はその典型であるとするのである。

 こうして文在寅政権を徹底的に批判してきた著者は、最後に、こうした政権に向き合い、「建設的な」日韓関係を作るために必要なのは、日本文化に対する関心も強い韓国の「一般民衆」と国際社会への地道で継続的なアピールを通じて政権交代と政策転換を促すことであるとして本書を結ぶことになる。不必要な「嫌韓感情」は、むしろ文在寅政権を利するだけで、むしろ合理的、冷静な議論を進めることがそうした日韓関係の将来を明るくすることになると繰り返し述べることになる。著者の、過剰な文在寅政権批判にはややうんざりする部分もあるが、この将来に向けた基本姿勢は十分納得させられる。

 この著作で感じるのは、まず、韓国の革新政権が、何故これほどまでに「極端な対決姿勢」を取るのかという点であるが、これはもちろんかつての軍事政権で徹底的に弾圧された経験と、その後成立した革新政権の末路に対する記憶の合成されたものであると容易に想像できる。そしてその政権がそれなりの高い支持率を維持してきた、ということは、国民の中にも、こうした意識があることを物語っている。その意味では、文在寅政権は、それまでの革新政権の蹉跌経験を踏まえたより強い姿勢を貫こうとしているのだと個人的にも理解できる。しかし、それが戦後最悪と言われる日韓関係の悪化となっていることを考えると、もう少し何とかならないものか、という気持ちは抑えることはできない。今回、保守系のユン・ソギョルが次期大統領に選ばれ、早速日韓関係改善を目的とする代表団を送り込んできたことで、こうした日建関係に変化が出ることを期待しているが、他方で、大統領選挙も僅差での勝利、議会は引続き革新系が過半数を確保している状況では、新政権もまずは慎重に動かざるを得ないだろう。引続き、この新政権が、日韓関係を含め、著者がこの本で指摘した文在寅政権への懸念にどのように対応していくかはしっかり見ていきたい。

 またもともと外務省の韓国語研修から始まり、参事官、公使、そして大使と何度もこの国に駐在した外交官が、これほどまでの政権批判を行わざるを得なかったのかも、改めて考えてみる必要がありそうだ。繰り返しになるが、文在寅政権の諸政策は、それなりにそれまでの革新政権が越えられなかった一線の打破を目指したものであったと思うし、それはそれなりに理解できる。そしてそれを元大使が、ここまで執拗に批判するとうことは、特に日韓関係が悪化した時期の大使として、個人的にも相当苦い思いを抱いたのだろうと想像される。そう考えると、あえて徹底的な政権批判の後に、「建設的な日韓関係」再建の方策を提案する著者の姿勢は十分評価できる。著者が指摘しているように、極端な「嫌韓感情」を抑えつつ、韓国一般市民と国際社会に、地道に日本の主張を伝え、新政権がその方向に進めるよう最大限の支援を行うことが、中長期的な日韓関係の改善に向かう唯一の方法であることを改めて確認させてくれる作品であった。

読了:2022年4月28日