「個人主義」大国イラン
著者:岩崎 葉子
(イランについての著作を「アジア」に入れるかどうか議論があるところだろうが、先に観たイラン映画を「アジア」映画として掲載したので、それに関連して読んだこれも「アジア読書日記」に掲載することにする)
1966年生まれ、東京外大でペルシア語を専攻し、経済学博士取得後は、JETROのアジア経済研究所でイラン研究を続けている著者による2015年9月の著作である。
先日生涯初めてのイラン映画、「英雄の証明」を観た後、この国に関連するこの新書が偶々図書館で目についたのが、これを読むきっかけである。その映画評で書いた通り、イランというと、私にとってはホメイニ革命から始まり、イラン・イラク戦争、そして現在では核開発を巡る欧米との軋轢やサウジアラビアとの対立といった中東での政治紛争の一つの大きな要因を作っている国であるという連想が働くが、この映画では、そうしたこの国を取り巻く政治状況は一切映されていない。代わりに取り上げられるのは、この国の民衆の日常生活で、物語もその中で繰り広げられていた。そしてこの新書でも、国内・国際政治状況は、あとがきで僅かに触れられているだけで、大半は、著者の2009年初夏から2011年6月までの2回目のテヘラン駐在時代の研究活動や日常生活を通じて触れた、この国の人々の「普通」の生活の観察に費やされている。その意味では、先に観た映画の世界を、日本人の眼を通して改めて再現した著作といえそうである。
著者は、1989年の最初の訪問以降、この国のアパレル産業の研究で、上記の最近の滞在を含め、2回の長期滞在と数多くの短期滞在を繰り返しているという。その意味で著者は、日本人としては、この国を最も知っている一人である。そして、この本では、自身の経験を通して見たこの国の特徴を、「組織に縛られない」、しかし、信頼関係に基づいた個人個人の濃密なネットワークが強固な社会関係を構築するという徹底した「個人主義」社会と表現し、それを日常生活の中で説明していくことになる。そこには、先に観た映画と同様、政治・国際関係からの緊張感は全くなく、気楽に読み進めることができる。
入居した「新築」マンションを巡るトラブル(それは後ほど、別の例が語られることになる)とそれを通して感じた「組織に縛られない」職人たちの「身勝手」な行動様式から始まるが、日常生活はそれほど厳しいものではない。子供連れで赴任した著者は、滞在ヴィザ取得といった、面倒な役所関係の手続きでも、子供の存在が、当局関係者の親近感をもたらしたことを伝えている。そうしたプライベートな話題は、著者の本業であるアパレル関係の調査でも大いに役立つことになる。そしてそうして個人的な信頼感を得ることができると、その相手が別の関係者を紹介、それの連鎖で、広い人間関係が築かれていったことが語られている。どの社会でも、こうした個人的信頼関係の連鎖というのは、人間関係の基本であるが、イラン社会では、組織的な動きが限られていることから、これがより重要となる。
著者の専門領域であるアパレル関係では、2000年代に入り、政府の貿易規制が緩和され、粗悪だけれども安い中国製品が大量に流れ込んだこと、そしてそれが国内流通網の変化や零細業者の淘汰、そして新たな個人での輸入業者(その多くは若者であった)の増大を生んだこと等が詳細に説明されているが、それも、こうした「個人主義的」行動様式が拍車をかけたということになる。ただこの辺りは、途上国へのグローバル化の影響の一般的な姿と見ることもできる。興味深いのは、国際的な緊張の中でも、この国がそれなりの貿易自由化を行ってきた、ということである。そして、欧米との対立が顕著となる中、ロシアや中国との関係を強化してきた訳であるが、就中経済的には中国との結びつきが顕著になっていることは重要である。
エスファハーン等の観光地への物見遊山の旅行や、サモワールを囲む憩いのひととき、あるいはテヘラン郊外の知合いの果樹園付別荘(バーグ)への滞在といったその他の日常生活の一コマも、この国の人々も、日常生活をそれなりに楽しんでいることが伺われ、微笑ましい気分を感じさせる。
ということで、著者がこの国を限りなく愛していることは、節々に感じられる著作になっている。そして先に観た映画との関係で言えば、国際関係では様々な緊張が伝えられるこの国でも、人々の日常生活は「普通」に営まれており、そうした中で、映画で描かれたような、些細な出来事が社会的な関心を呼び、そこでの「個人主義的」な人々の思惑を巻き込みながら展開していくということも起こることになるのだろう。ただ、やはりこの国を巡る国内政治状況や国際関係を含めた最新の分析についても触れる機会は持ちたいと感じさせられたのであった。
読了:2022年5月12日