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チベット問題 ダライ・ラマ十四世と亡命者の証言
著者:山際 素男 
 1929年生まれの仏教学者によるチベット問題についての著作で、2008年6月の出版である。チベットについては、10年ほど前に、女性研究者の、この地域への旅行記を核にした新書を読んだ(別掲)が、本書は、よりこの問題に、仏教学者専門家として踏み込んでいる。そしてまずは、チベット仏教の総帥ダライ・ラマ14世法王を始めとする関係者へのインタビューを通した、チベット問題や法王の思想の解説、続けて中国による弾圧が続く中で、それに抵抗した僧侶や尼僧を襲った過酷な運命についての多くの証言、そして最後は、このチベット解放のための広報誌として、法王の日本代表部が刊行している「チベット通信」の抜粋という3部構成になっている。そして特に第二部と第三部は、このチベット問題の厳しさを突き付ける報告になっており、正直、読了後暗澹たる気持ちにさせられるのである。

 第一部のダライ・ラマとの面談(1991年暮れから1992年1月にかけて、チベット亡命政府行政府、法王庁のある、インド北部のダラムサラという町等で5回行われた)を基にした記述は、法王の豪胆であるが、ユーモアも備えた非常に人間的な性格を描いている。そこで語られる中国のチベット政策への批判や、彼が出会った人々についての評価や印象は分かり易いが、他方で輪廻思想に基づくチベット仏教の解説は、たいへん難解である。

 前者については、1959年のチベット騒乱で、9万人以上が虐殺され、身の危険を感じた法王がインドに亡命した後、チベットでは様々な解放運動が繰り広げられたが、それが厳しく弾圧されてきたこと、そして法王自ら欧米諸国に実情を訴え、米国の議会が、チベットを明確に「被占領国」と認める決議などを行ってきたが、中国政府はそれを無視し、大量の中国人移民の流入などによるチベットの「中国化」を推し進めていること等が語られている。しかし、既にこの面談の時点で、欧米諸国に比べて、アジア諸国、近隣諸国の支援は欠けていると指摘されている。チベットを巡る中国からの様々な圧力は、近年の周辺諸国の中国への経済依存の深まりとともに、益々効果を増しているということであろう。これは、第二部以降で亡命者の口から語られる、中国支配の過酷な現状についての証言を受けても、現在に至るまでほとんど進展はない。むしろ最近では、香港やミャンマー、そして現在はウクライナ問題等で、チベットに対する関心はほとんど表面化することはない。その間も中国政府は着々とこの地域の「中国化」を進めているというのが実態なのだろう。因みに、日本政府も、中国への配慮なのであろうか、著者によると、「政府首脳のだれ一人としてダライ・ラマに会おうとしないばかりか、法王の代表、代表部事務局の職員たちに永住ビザ、長期滞在ビザはおろか、短期ビザさえも与えず、いつまでたっても”観光客”扱いしかしようとしていない」という。香港問題も同様であろうが、日本政府は「中国の内政問題」には、ひたすら関与することを避けるという傍観者的態度を決め込んであるようである。

 他方、ダライ・ラマが語るチベット仏教の説明では、「霊媒に憑依する神霊の意識」、「前世のカルマ(行為、業)」、「物質的現象の本質としての空性」、「トゥルク(化身、生まれ変わり)」といったキーワードが示されるが、こうした発想は、かつてのサイケデリック時代の瞑想ブームを思い出させる。また現代心理学や宇宙論との関係にも言及されているが、現在これに深入りする必要はないだろう。

 このあたりでは読書スピードが極度に低下することになったが、その後の第二部以降は、まさにチベットの仏教関係者の受難物語として、一気に読み進めることになる。反中国的な言動に対する、中国治安当局の拷問を含む熾烈な弾圧は目を覆う程悲惨であり、暗澹たる気分になる。体験を経て亡命した僧侶や尼僧たちがその後も、闘いを止めないことについてはもちろん敬意を払うが、ただその政治的効果は、上記のとおり現状では中々悲観的である。また第三部の「チベット通信」(ここでは1993年―94年にかけての物)で紹介されるチベット解放に向けた戦略や人権侵害の実態についてのダライ・ラマの声明、そして中国政府との交渉報告等は、非常に理性的で共感できるが、その実現可能性については、同様に相当厳しいのが実態であろう。そしてそうこうしている内に進められるチベットの「中国化」や環境破壊、ひいてはそこでのウラン採掘や核開発での人々の放射能被害等々といった事態が引き起こされることになる。因みに、この「チベット通信」は、国会図書館や、京大を含めた多くの大学関係の図書館に所蔵され、閲覧できるということであるが、ネットで簡単に見ることはできないようである。ネット全盛のこの時代に図書館でしか手に入れることができないというのは、少し考えるべきであろう。
 
 ダライ・ラマは、1935年7月生まれなので、現在87歳。彼の生涯が終わる時に、また改めて彼の「生まれ変わり」が誕生し、その際には間違いなく、このチベット問題に改めて光が当たることになるのだろう。しかし、それがチベットの解放に繋がる見通しは、現状の中国の体制が続く限りは難しいと言わざるを得ない。この地を巡る紛争は、時折世間の関心を引いたり、また忘れられたりしながら、今後も長い将来にわたり未解決のまま続いていくことになるのだろう。

読了:2020年5月14日