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日本統治下の朝鮮
著者:木村 光彦 
 1951年生まれの東アジア経済研究者による、日本統治期を中心とした朝鮮の経済発展についての実証研究で、2018年4月出版の新書。1910年の日本による併合以降、朝鮮の植民地支配は、もちろん韓国、北朝鮮夫々より、日本による収奪が行われ、その過程で発生した、労働者の強制徴用や従軍慰安婦といった「歴史問題」が常に議論となってきた。特に文在寅政権となってからは、新型コロナによる人流の停滞とも相まって、日韓関係は戦後最悪という状態が続いている。本年(2022年)5月、新大統領として尹錫悦(ユン・ソンニョル)が就任し、停止中の軍事情報包括保護協定(GSOMNIA)正常化を含め、日本との関係を見直そうという動きは出ているが、それがどのような道を辿ることになるかは、まだ見えていない。そうした状況で、日韓関係については、改めて冷静に見直す必要があることは言うまでもない。

 そうした中で、この新書は、「日本の朝鮮統治は、収奪だけであった訳ではなく、朝鮮のインフラ整備を進めたのみならず、地域の経済成長を大きく促すことになり、戦後の発展の基礎を築いた」と主張する本書は、政治的には微妙な立場にある。もちろん著者は、経済学者として、あくまでこうした論点を「実証的」に裏付けるという意図で書き進めており、それなりに納得できる点は多い。また日本統治期のみならず、戦後の韓国・北朝鮮経済との連続性・非連続性についても議論を展開しており、その部分も中々説得力がある。こうした研究が、今後の特に日韓の政治関係でどのように双方で受け止められていくかは興味深いところである。ここでは、そうした点を中心に、特に個人的に印象に残った議論を残しておく。

 冒頭、日本による併合が行われた1910年前後の韓国の農耕社会と、工業、都市商業の未発達状態、あるいは民衆の食糧事情や未発達の教育制度が説明され、そしてそれを受けた日本支配の政府機構である総督府の予算推移を基に、鉄道網の整備等インフラ整備や、(当然ながら)治安対策の支出が増加していった様子が示されている。また米を核にした農業増産のための諸策や、工業化政策の端緒も手掛けられたということであるが、正直この辺りは、あまり斬新な指摘もなく退屈である。ただ既に1910年代から、総督府は、この地域に(無煙炭、有煙炭双方を含めた)石炭や鉄鉱石、その他非鉄金属の資源があることに気づき、その開発投資を進めたという。そして重要な点として、こうした豊富な鉱物資源が、主として現在の北朝鮮地域にあったことから、その工場設備も北を中心に進められたということである。またそのためのインフラとして大規模な電源開発を模索したが、その開発は北朝鮮の鴨緑江・豆満江の水力発電が核となったことから、そうした電力を大量に使用する化学関係の工場の北朝鮮地域に設立されることを促すことになったということで、著者は多くの例を挙げている。そして化学工業程成長は顕著ではないが、化学工場に付随する形で機械工業もそれなりに成長。また面白い例としては、農産加工業として、1931年に平城近くに設立されたトウモロコシ加工工場で、これは当時「東洋一のアグロ・プラント」と言われたという。こうして日本統治下の朝鮮では、「農業主体から非農業主体の経済への急速な移行」が行われるが、特に「本国にも存在しない巨大水力発電所やそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本の朝鮮統治と欧米の植民地統治の違いを際立たせた」という。更に、こうした発展の主導者は統治側の総督府・内地人(企業・個人)であったが、「朝鮮人の側に、外部刺激にたいする前向きな反応、自発的な模倣・学習、さらには創発性・起業家精神も見られた」ことから、「統治側・非統治側の双方の力が結合して起こった」として、いわゆる「植民地従属論」を批判している。しかし、前者の「本国でも見られない」発展は兎も角、そこで、現地の人々が大きく貢献していた、というのは、ここでは十分に論証されている訳ではない(他の東南アジアと「異なり華人の存在が目立たなかったというのはその通りであろうが・・)。

 著者は続けて、「植民地従属論」の別の論点である、植民地時代の「貧困化」を、日本支配時期の人々の平均身長のデータから批判しようとしているが、これは余り説得的でないので省略し、日本支配時期後半の日中戦争激化から第二次大戦に至る、戦争経済(総力戦体制)を見ることにする。

 この時期、農業分野でも、統制強化による食糧増産計画の推進、地主制の解体と集団化、といった諸策が実行されるが、鉱工業分野では、軍需産業向けの新資源開発を中心としたそれ以上の統制強化が行われることになる。「それまで統制外であった女子労働を含む全労働の徹底動員と労働意欲・効率向上が図られた」ことも言うまでもない。そうした中で特徴的な動きは以下の通りである。

 まず更なる電源資源として鴨緑江本流の水豊他に、空爆に耐えられるよう山腹の岩盤に巨大ダムを建設する計画が進められたが、全て完工直前に敗戦となり、「膨大な機械装置はすべて現地(北朝鮮)に残されることになった」という。

 また軍需関係の新資源開拓も一層広範囲に進められ、北朝鮮地域で多種の希少鉱物の存在が判明したが、それらにはコバルト、ジルコンといった「大東亜共栄圏の他地域では得がたいものもあった」という。著者は、こうした希少資源の詳細なリストを整理しているが、特に重要なのは、この地域で見つかったモザナイトという鉱物がウランの化合物を含んでおり、当時政府から原爆製造研究を委託されていた理研の仁科芳雄博士がこれに注目し、理研中心にこの物質からウランを抽出する技術研究が進められたという。しかし、この陸軍の原爆製造計画は、1945年6月に「技術的問題」から打ち切りとなり、日本の核開発は挫折することになった。また戦時末期には、その他製鉄、冶金、軽金属、化学、繊維など多くの分野でも生産拡張が行われ、内地の主要財閥を中心に、朝鮮での工場建設に積極的な投資が行われることになる。著者は、1944年の基礎資材生産能力における帝国日本全体と朝鮮の比率を整理しているが、この時期、基礎資材生産で朝鮮への依存が顕著になったというのは重要である。また朝鮮では米軍は空爆を実施しなかった。そのため、内地と異なり、朝鮮の工場群は敗戦時まで無傷であった。またこうした工業成長により朝鮮の自給度が高まることになる(戦時期、内地経済に一層従属するようになったという見解は誤り)。むしろそこでは「鮮満一如」と謳われた、朝鮮と満州の結びつきが強まったとされる。

 こうした朝鮮における膨大な電力、鉄道、港湾などのインフラ、鉱工業の生産設備等が戦後そのまま残されることになる。そして繰り返しになるが、そうした資源の多くが北朝鮮に存在したのである。戦後、朝鮮が南北に分裂、南はそれなりに新日派が残ったのに対し、北では共産党支配下で富裕層への弾圧が行われることになる。しかし、経済システムの連続性という点では、戦争末期の統制経済が、南では、自由主義への転換に時間と費用を要したのに対し、北では共産党による統制経済へのスムーズな移行を促したという。そして北ではソ連占領軍による工業設備の解体・本国移送も行われたが、「それは初期にとどまり規模も限定的であった(この点で満州、東ドイツと異なる)」という。分裂による南北の軍事的緊張が強まる中、金日成は、この地域に日本軍が残した軍需産業をそのまま維持・強化することができたのである。現在何かと話題になる北朝鮮の核開発も、こうした日本軍が残したウラン鉱開発を念頭に、既に1950年代から構想されていたというのも興味深い議論である。しかし、朝鮮戦争を経てた後、北では「軍事に偏重した非生産的投資と、統制にともなう非効率が、経済を長期停滞に陥れた」のに対し、南では、北程大きくはなかったが、日本統治から引き継いだ交通・通信、軽工業、農業等を、市場経済を通じフルに活用することで、その後の経済成長を遂げることになったとされるのである。そして最後に、著者は、日本にとっての朝鮮統治を総括しているが、それは「日本は朝鮮を、比較的低コストで巧みに統治した」が、敗戦により財産を全て喪失すると共に、「従軍」慰安婦や労働者徴用問題等の日韓の歴史問題を現在に至るまで残すことになったと総括されることになる。

 日本が、朝鮮支配を通じ、多額の資本投下を行い、それがこの地域のインフラ整備と経済成長を促すと共に、戦後の発展の基盤となったというのは、実証的には恐らく間違いないところであろう。しかし、その議論は、政治的文脈の中では、日本による侵略正当化の議論として批判的に受け止められてしまう、というのが、日本と朝鮮との歴史問題の根源である。例えば、本来は、英国が、インドの重要インフラは英国植民地化での英国の投資の結果である、というのと同じ議論ができるのにも関わらず、それができないという問題。それは、インドが独立後も英連邦に留まったことも考えると、日本の植民地支配とその清算が、(台湾等は兎も角)この地域では特に稚拙だったことを物語っている。上記のとおり、韓国での親政権発足の機会に、今後の日韓関係を考える上で、改めてこの問題についての政治的文脈の中での議論の仕方を考える必要があることを痛感させられた著作である。

読了:2022年6月19日