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韓国併合
著者:海野 福寿 
 1931年生まれの日本近代史研究者による、1910年の韓国併合に至る政治過程を克明に辿った1995年出版の新書である。韓国併合は、いうまでもなく、戦後の日本と韓国・北朝鮮関係の原点で、特に韓国との従軍慰安婦や徴用工問題という形で未だに両国関係で尾を引いているが、それについては、「日本の朝鮮統治は、収奪だけであった訳ではなく、朝鮮のインフラ整備を進めたのみならず、地域の経済成長を大きく促すことになり、戦後の発展の基礎を築いた」と主張する「日本統治下の朝鮮」という新書(別掲)を昨年読んだくらいであった。今回、一般的な常識として認識しているその併合に至る過程について、改めて立ち入った分析に接することになった。そしてもちろん立場により様々な意見はあると思うが、併合に至る過程で、当時の政権がそれなりの熟慮を重ねながら、併合という結論に至ったことが理解できたのである。一言で言ってしまえば、明治維新後西欧列強に並ぶことを目的として富国強兵策をとってきた日本の近代化と帝国主義列強への仲間入りを宣言することになった里程標がこの韓国併合であった、ということである。そこに至る幾つかの重要な事実をここでは記しておきたい。

 明治維新を迎えた日本では、その直後から既に朝鮮侵略の志向が見えていたとして、明治元年以来の木戸孝允の征韓論が紹介されている。他方、朝鮮は実権を把握していた大院君の下での鎖国攘夷政策をとっており、フランスやアメリカの侵略を退けていたという。そうした朝鮮の体制は、清国を宗主国、朝鮮を藩属国とする「朝貢」であり、その後の歴史は日本を始めとする列強がそれを崩し、朝鮮を清国の藩属国から「独立」させることを目指して進むことになる。

 細かな日朝の外交史が記されることになる。初期の主要な転機としては、1873年、大院君が失脚し、高宗と王妃一族による閔(ミン)政権が発足し、強烈な鎖国攘夷政策が改められ、対日外交が始まったこと、また1875年に、江華島事件と呼ばれる日本軍による挑発行動を契機とする日朝間での小規模戦闘が発生し、それを契機に日本が開国を迫る動きを強めていったことが挙げられる。そして日本は朝鮮を巡る清国との交渉も開始し、代表であった李鴻章の暗黙の了解を取り付け、翌1976年の日朝修好条規の締結により、事実上朝鮮の開国をもたらすことになる。日本が、欧米列強から開国を強要され、それを受入れざるを得なかった明治維新直後から、日本が同じ行動を朝鮮に対して取っていたということは改めて確認しておく必要があろう。

 この日朝間の条約は明らかな不平等条約であったが、これにより朝鮮の清国に対する朝貢体制が崩れたものではなかった。そしてその後、李鴻章の了解のもとで、朝鮮とアメリカ、ドイツ、英国を始めとする同様の不平等条約が締結されるが、それらも同じ位置付けであった。日本はその後、そうした朝貢体制を突き崩す動きの先頭に立っていくことになるのである。

 朝鮮の政権内部では、開国を巡る対立が激化。1882年には、漢城(ソウルの当時の呼び名)での兵士・市民による抗日暴動が発生し、日本公使館も襲われ、館員が避難する壬午軍乱等も発生。それを受けて日本も賠償等を要求すると共に、1883年には、洋務開化論を唱える親日派が起こしたクーデターである甲申政変を支援する(クーデターは失敗する)といった動きになる。そうした朝鮮での混乱を巡る日本と清国の間の軋轢が、その後の日清戦争へと繋がっていくことになる。

 1994年、東学という民衆宗教による改革要請から始まった農民反乱を契機に、朝鮮政府の要請を受け、袁世凱率いる清国軍が朝鮮に進駐。それに対抗するべく動いた日本と清国の緊張が高まり、日清の開戦に向かっていく。この出兵に当たり、日本はあくまで朝鮮の「独立自主(あくまで親日独立であったが)」を扶助するという名目を掲げたことと、一旦失脚していた大院君を日本の傀儡として担ぎ出し、彼を脅した上で、朝鮮が日本側に立つことと、「親清行動はもちろん、第三国への調停要請もできない」形を整えた上で、清国との戦闘を開始したという点が重要である。列強の干渉を排除した上で、朝鮮に大兵を送る正当性を必死で取り繕ったのである。そして大方の予想に反して日本が戦争で勝利を収めることになる。こうして朝鮮を巡る日本と清国という「両国とも(欧米列強との間で)不平等条約をかかえる従属国であった」両国の戦いは、日本の勝利に終わり、その結果「勝者日本が帝国主義へ転化し、敗者清国と戦争の犠牲となった朝鮮が半植民地に転落する」ことになる。まさに日清戦争は、日本の欧米帝国主義列強への参加を宣言することになったのである。

 しかし、日清戦争終結後、日本の支配力が強まった朝鮮の内政は安定しなかった。日本の支援を受けた「開明派」政権は、断髪令などの政策が民衆の怒りを買い、王妃殺害事件を契機に守旧派が政権を握る。彼らは、帝国主義列強相互の対立・牽制を利用し、日本等からの侵略を抑える方針を取り、イギリス等が提唱した「永世中立国化」を目指したが、結局朝鮮を巡る次の対立軸となった日露のせめぎ合いの中で、韓国の局外中立を承認した欧州諸国は、「日露開戦に伴う日本の韓国中立侵犯を黙認」。唯一それを非難した日露の開戦となるのである。

 日露開戦に当たっての注目点は、開戦前の時点で、日本の政権内部に、朝鮮の「中立化」では不十分で、「保護国化」が必要という議論が勢いを増したことである。そしてロシアとの間で、「満州におけるロシアの権益承認とひきかえに韓国における日本の優位」を認めるという「満韓交換案」が失敗したことで、日露間の軍事決着が必至となったとされている。日清戦争に続き、日露戦争も、朝鮮への支配権を巡るものであったことが、ここでも明確に示されている。日本からロシアに対する戦線布告と同時に、旅順島、清国内のロシア拠点と併せて、韓国近辺でもロシアとの戦闘が開始されることになる。そして何よりも、それにより、「韓国の局外中立宣言はひとたまりもなく蹂躙された」のであった。日本軍の軍事制圧下で、日韓議定書が締結されるが、それは「形式的には相互援助協定であった前案とは異なり(中略)日本が韓国にたいして保護・指導の立場にあることを明文化」するものであった。それは、枢密院議長だった伊藤博文が特派大使として漢城に乗り込み調印されることになる。また日露の戦局が満州に移る中、韓国においては日本による植民地化が着々と侵攻し、もちろん韓国内でも激しい抵抗が繰り広げられたが、日本軍により過酷に弾圧されることになる。

 興味深いのは、1902年の調印の日英同盟により結ばれていた英国が、当初は日本の韓国における「自由行動」に懐疑的であったが、日露戦争中の1905年に改定されたこの条約で、「イギリスのインド領有と国境防衛措置を日本が承認することとひきかえに、日本の韓国支配をイギリスが承認する」ことを明確に規定したという点。また米国との間でも、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国支配を認めることで合意(1905年7月調印の「桂―タフト協定」)し、そして日露戦争の終結に伴う日露講和で、ロシアも日本の韓国支配を認めることで、英米露3国から、韓国支配の正当性を受けることになる。それが日露戦争後の日本による一層の韓国支配に向けての自信を強めることになるのである。この辺りを見ていると、この時期、まだ英米といった列強は日本の力を見くびっていたと思われ、また日本もそれを最大限利用したということが分かる。現在の中国に対する欧米列強の反応もそうであるが、結局のところ国際関係には、時の支配国家による騙し合いという赤裸々な現実が示されていると思わざるを得ない。

 いずれにしろ、日露戦争後、韓国を保護領化した日本は、引続き激しい韓国内の反日運動を弾圧し、1910年の併合に向け突き進んでいくことになる。皇帝(高宗)による、列強からの反日支援を求める孤独な闘い(1907年の「ハーグ密使事件」等)や、その他の抵抗運動等も紹介されているが、それらも結果的には虚しく葬られ、日露戦争終結直後の1906年、「第二次日韓協約」により「韓国内政全般にわたる監督と支配のための植民地機構として、統監制」が成立し、初代統監として伊藤博文が任命される。

 但し、その伊藤は、反日運動を徹底的に弾圧しながらも、韓国支配はあくまで傀儡政権を通じた「保護国」として行う方針をとり、日本国内の強硬派による「併合」には距離を置いていたという。その上で、イギリスのエジプト占領下の経営を真似た「かたちだけは「近代」に似せた国家改造計画(司法制度整備、中央銀行設立、教育振興、殖産事業等々)をつぎつぎに打ち出していく」ことになる。しかし、こうした政策にも関わらず、韓国内の反日闘争は収まらず、他方日本国内の「併合論」との板挟みとなった伊藤は、特に「ハーグ密使事件」等を契機に「併合」に傾斜していくことになる。「栄達の頂点に立った男の自負と自信が音を立てて崩れていく」ことになり、1909年、桂首相と古村外相の併合論を了承、3年半に及んだ統監を辞任することになる。そして伊藤を次いで新たに統監に任じられた寺内正毅の下で、皇帝が退位する形での「併合」が完成される。日本政府は、国際的な根回しも行い、日英同盟下にある英国に加え、あのロシアさえも「満蒙地域での利権拡大」の期待からこれを早々に了承することになったという。こうして「日本が韓国「扶翼」のために保護してきたが、それでは施策改善の目的を達成できないので韓国皇帝と韓国民のために韓国を併合する」という「虚言」に基づく韓国併合が完成する。近代国家がみずから併合を願い出て併合されるという「世界史上まれ」な例となったが、アメリカの「ハワイ併合」もこれに類するものである。その意味では、決して特殊な例ではなく、この時代の帝国主義列強の手法をまねたものに過ぎないという見方もできるだろう。もちろん日本人の中からは、これに対する反対や異論は、社会主義者からを含めいっさい上がらなかったという。

 現在から考えると、全く「帝国主義的」発想に基づく、身勝手な論理を駆使しての「併合」であったことは明らかであるが、当時の国際情勢の中で観ると決して特殊な行動ではなく、また夫々の段階で、日本政府も国際的な世論を敵に回さないよう細心の注意を払いながらこの韓国支配を進めていったことが理解される。しかし、それでも韓国内部の反日活動を抑えることはできず、その弾圧が更なる闘争激化を生むという泥沼に入っていくことになる。伊藤暗殺を成功させた安重根が、韓国内で「英雄」となったのも当然である。そしてこの日本による韓国支配が、戦後の日韓関係の中でも消え去ることにできない歴史問題を残してしまったことは言うまでもない。それは、英国のインド支配などが、戦後に大きな問題を残さなかったのとは大きく異なることになる。そこには、ある意味、同じアジアの後進国家間での支配・被支配関係や、日本から見た朝鮮への中世以来の「蔑視」が影を落としていることは確かである。それを念頭に置きながら、従軍慰安婦や徴用工問題で戦後最悪な状態にある足元の日韓関係改善に向
けた努力を行う必要があることを改めて強く感じたのであった。

読了:2023年1月9日