中央アジア歴史群像
著者:加藤 九祚
1922年生まれの北・中央アジア(シルクロード)民族文化史研究者による、中央アジアの歴史に登場した特徴ある人々を紹介した1995年11月出版の新書である。著者は、この地域の壢遺産発掘などの作業に長年携わり、それに関する著作もあるようであるが、これはその地域での人物に焦点をあてている。そしてこの作品は、旧ソ連の崩壊後、現在もロシアやと中国、あるいはトルコや欧米諸国、そしてインド等も絡みながら、ある種のパワーゲームが繰り広げられているこの地域の歴史を改めて顧みる機会となる。特に、かつて私も旅行で訪れたウズベキスタンのタシケントやサマルカンドが頻繁に登場することで、ある種の懐かしさも感じながら読み進めることになった。
紀元前4世紀のアレキサンドロスの東方遠征が、この地域が歴史に登場する黎明期となる。このアレキサンドロスの軍勢に果敢に抵抗した、現在のアフガニスタン地域のスピタメネスという武将の話が、ローマの歴史家が著した「アレキサンドロス大王伝」といった資料に登場しているという。この抵抗は平定されるが、アレキサンドロスの遠征はこの地域へヘレニズムの影響をもたらし、それを物語る遺跡も発掘されているという。
そして歴史は下り8世紀、アラブーイスラム勢力による中央アジア征服活動が始まる。この時期、サマルカンド等が、アラブ勢力と地域部族との争いの中心になったことや、現在のイラン地域で発生したムカンナ反乱といった騒乱が伝えられている。ムカンナ反乱については10世紀にアラブ語で書かれた「ブハラの歴史」という書物に記載されているとのことであるが、この地域でもこうした「歴史」が書かれていたというのはたいへん興味深い。
結局イスラムの支配に屈したこの地域であるが、9−10世紀にはイスラムとペルシャ文明などが結びついた文化が花咲いたという。これはタジク人が築いたサマン朝という王朝が、ブハラやサマルカンド中心に起こった動きであるが、タジク人の中には、そのブハラやサマルカンドが現在はウズベキスタンに入っていることを残念に思っている人々がいる、というのも、この地域に現在も残る民族感情の複雑さを示している。ここでは、そのサマン朝の宮廷詩人として名前が残るルダキーという人物が取り上げられているが、彼は現在でも「タジク人の誇り」的な存在であるという。またブハラ近郊の生まれで10−11世紀に医学、哲学、文学に跨る著作を残した百科事典的大学者であるイブン・シーナという人物も、かつてのギリシア文化がこの地に引き継がれていたことを物語っている。
13世紀になると、この地域は、今度は東方から来襲したチンギス・ハンの支配下に入ることになる。ここでも、チンギス・ハンの侵入に抵抗したオラトル(サマルカンドの北東に位置するシルクロードの要衝)の軍事指導者イナルチクといった人物が紹介されている。
そして次は、現在タシケントの中央公園に、かつてのスターリンやマルクスに替わり銅像が建てられているという「新生ウズベキスタンの民族的団結のシンボル」で、「中世中央アジアの生んだ大征服者」チムールである。このチムールについては、私は彼が現在のインドを中心にした帝国を築いたと誤解していたが、実際にはサマルカンドを拠点とする王朝であったということである。そのチムールは、14世紀半ばに、サマルカンドの南の村で生まれたというが、当時のこの地域はモンゴルの支配下で、チンギス・ハンの末裔たちが繰り広げる権力闘争の舞台になっていた。そうした中で、チムールは、サマルカンドを拠点に、その天才的な軍事能力を発揮し、東は中国、西はアゼルバイジャンからトルコまで遠征し、そうした地域の一部を含む大帝国を築き上げることになる。そしてそのチムールの5代の孫にあたるバープルという男が、自分が生まれた中央アジアではなくインドにチムール朝の帝国を創設することになる。これがムガール帝国(「ムガール」は、中央アジアで言う「モンゴル」の意味だという)で、私が誤解していたのは、こちらの帝国が、チムールが創設した帝国であると思い込んでいたせいである。ただ、チムール帝国もムガール帝国も、イスラム化したモンゴル族の末裔が作った王朝ということになる。モンゴルとイスラムは、現代的な発想ではあまり結びつかないが、こうした歴史は、中央アジアではそうした多文化が混交していったことを示している。なかなかダイナミックな歴史である。またバープルは、優秀な軍人であると共に文芸にも優れており、多くの詩編を残しているという。他方、チムールの死後、その末裔たちの軍事指導者が支配したサマルカンドでも文芸が栄え、15世紀後半には「ウズベク文学の祖」と言われるアリシェール・ナワイーという大詩人も活躍したということである。彼は詩作のみならず、学者、音楽家、書家でもあり、「古ウズベク語の文学的表現に新境地を開いた」とされている。更に時代は下るが、18世紀半ばに、現在のトルクメニスタン地域の伝統音楽の作者として名を成したマハトゥム・クリといった人物のことも語られている。そしてこの著作の最後は、19世紀に入り、この中央アジアがロシア帝国の南下政策の影響を受け、新たな戦乱の時代に入っていくことが説明されることになる。当時、封建的な小ハン国、小所領に分かれていたこの地域は、天然資源が豊かであることを知ったロシアの野望の対象となり、1965年にはタシケントが、1968年にはサマルカンドやブハラがロシアの軍門に下ることになる。以降は、ロシアの南下を懸念するトルコや英国も参戦した「国際政治」の舞台となり、ロシア移民も増加。そうしてこの地域は現代史の世界に入っていくことになるのである。
冒頭の私的旅行で、当時ロンドンにいた私がサマルカンドとタシケントを訪れたのは、確か1987年の夏であったと記憶している。当時、夕暮れに沈んでいくサマルカンドの素晴らしいモザイクで飾られたレギスタン寺院の前の広場に作られた座敷に上がりチャイ(お茶)を飲みながらその景観を楽しんでいたことを覚えている。しかし、その時、この街に、アラブ系、ロシア系に加え、東洋系の人々が数多くいることに強い印象を持ったものであった。その後彼らは、日本軍と連携することを恐れたスターリンが、沿海州から強制移動させた朝鮮系の人々であることが分かり、そしてソ連崩壊後、その3民族が三つ巴の内戦を行ったことを知った時には心を痛めたものであった。しかし、この新書により、そうした悲惨な現代史の前にも、この地域は古代からの交易路であるシルクロードの要衝として、多くの侵略者の歴史と、そうした侵略にも関わらず栄えた文明があったということに深い感慨を覚えさせられたのである。もちろん、ここで紹介されている詩人たちの原本を読もうという気にはならないし、こうした地域を再訪することも恐らくないと思われる。しかし、再びロシアや中国の権威主義化が進んでいる現在、こうした地域が改めて国際政治の重要な舞台となることも十分あり得る。そうした関心に加え、著者の様にシルクロードでの遺跡発掘等を続けながら、この地域の歴史研究を深めている人々がいる、というのは、確かにある種の歴史ロマンへの憧れも感じさせてくれたのであった。
読了:2023年1月19日