北の詩人
著者:松本 清張
「小説帝銀事件」と同じ、全集17巻に収められている長編小説で、1962年1月から1963年3月にかけて中央公論に発表されているが、第二次大戦直後の韓国を舞台に、米ソ対立に翻弄されていくある詩人の過酷な運命を描いた作品である。ある意味、ついでに読んだ作品であるが、「小説帝銀事件」以上に素晴らしい出来になっている。
日本支配下の朝鮮で名を成した文学評論家で詩人の林和は、朝鮮人民の解放を訴えた文学運動を主導したこともあり、日本の憲兵に拘束、拷問され、自身も病弱であったこともあり転向した過去がある。しかし日本が降伏し、朝鮮が解放されたことから、新たな時代に向けた文筆活動を始めている。しかしその朝鮮では、米ソの占領政策の対立が顕在化しつつあり、林和は、ソ連寄りの立場から文筆活動を行うが、次第に米国情報部隊に取り込まれていくことになる。そしてついには、南での活動に苦しさを感じ、37度線を越えて北に逃亡するのであるが、そこでは悲劇的な最後が待っていたのである。
日本支配下での民族運動弾圧のリアルな描写に始まり、大戦終了後の朝鮮での民族運動の高まりやそれに関与する様々な人々の姿、そしてそうした人々からの接触を受けつつ、自らの文学的成果も目指しながら、病弱な体に鞭打って奔走する林和。しかし、その彼を巧みに操りながら、自らのスパイとして抱き込もうとする米軍情報部の面々。林和の微妙な心の動きも追いかけながら、米ソ対立や米国から帰国した李承晩一派の権力拡大、あるいは数々の暴動やストといった当時の南での政治的事件も挿入しながら、そこでの左翼運動が圧殺されていく様子等も詳細に描かれることになる。それは小説というよりも、戦後の朝鮮の現代史を克明に追いかけていく歴史ドラマである。そうした戦後朝鮮に関する歴史的資料をふんだんに駆使しながら、一人の民族的詩人の運命を追いかけていく著者の筆致は素晴らしい。そして最後は、北で米国の陰謀に加担したとの罪名で、仲間の共産党指導者たちと共に粛清される部分は、実際の北朝鮮での裁判記録を使って締めくくられることになるのである。
韓国のこうした時代について取り上げた映画を今までも結構多く観てきた。ただ、終戦直後の朝鮮の状況をここまで克明に描いた映画は作られていないように思われる。それこそ、韓国でこれを原作とする映画が作られてもおかしくない気もするが、他方で、民族派で左翼系の詩人が米国のスパイ的な活動を行い、最後は移り住んだ北朝鮮で粛清されるというテーマは、現在の韓国にとっても余りに重いことも確かである。韓国人の名前を的確に使うだけでもたいへんな労力を要する中、ここまでの作品に仕上げた著者の力量に改めて感服する。
読了:2023年2月3日