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内モンゴル紛争 危機の民族地政学
著者:楊 海英 
 先日、その歴史過程で傑出していた女性を主人公に据えた「モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち」を読んだ同じ著者による2021年1月出版の新書で、こちらはより現代的な課題について、著者の政治的立場をより鮮明に示した新書である。現在はモンゴル国と、中国領の内モンゴルに別れているこの地域が、かつては一体であったものの、近代の歴史過程で分割された経緯を明らかにしつつ、内モンゴルにおける中国共産党の同化政策を強く批判する著作である。

 冒頭で取り上げられるのは、2020年8月末、中国内モンゴル自治区で「中国政府が導入しようとした言語政策(学校でのモンゴル語教育の廃止と中国語一辺倒の公用語導入)が、現地のモンゴル人たちの強い反発を招き、抗議デモが各地で発生した」という事案である。直前まで世界が注目していたのは香港情勢と新疆ウイグル自治区の問題であったが、それとある意味同じ問題として、この内モンゴルでの中国政府の対応とそれへの反発が世界に知らされることになったということである。それに象徴される内モンゴル地域の歴史を明らかにすると共に、この問題に象徴されるこの地域での中国政府による民族主義への弾圧に対するより強い関心を読者に促すことが、この作品の主目的である。

 この内モンゴルにおける中国語強制問題は、正直私自身はほとんど記憶がなく、その意味で著者が指摘しているように、この事案を「世界が広く認識」したかどうかは疑問である。しかし、チベットや新疆ウイグル地区での中国共産党政権による同化政策と同様、これが大きな問題であることは確かである。特に、著者がその後詳細に議論しているように、これは中国の内政問題に留まらず、「中国対中央アジア問題、中ロ問題」に関わると共に、かつてこの内モンゴルの一部を満州国という形で植民地支配した日本にとっても、対中国、対モンゴル関係等を考える上で考慮しなければならない点であるとする。

 こうして著者は、これらの論点を説明していく。まずは地勢学的な観点から、「盆地型農耕社会」である中国文化圏と、「草原型遊牧社会」であるモンゴル、ユーラシア世界を対置。その上で、歴史的に常に後者による脅威に晒されてきた前者が「中華思想」のもとに、後者を「野蛮な匈奴」として文明的に卑下する発想が強調されてきた。しかし、それは全く根拠のない幻想であると指摘する。まさにその通りである。他方チンギス・ハーンの広大な帝国以降、この地域の遊牧民の間での交流が活発化し、その過程で西方から宗教としてモスレムが流入し、中央アジアがその影響下に入ると共に、モンゴルでは15世紀以降チベット仏教が広まっていったことが示される。これもその後の「無宗教」である中国共産党政権とその他地域との軋轢の主因になる歴史的事象である。また北方からはロシアが政治的な力を増して、この草原地域に影響を及ぼすことになるが、それはその後のこの地域での中ロの駆引きの始まりとなる。この著作の出版は、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻前であることもあり、この侵攻後の中ロ接近はまだ予想されていない。しかし足元のそうした接近があったとしても、長い歴史の中では、両国の微妙な関係は続くことになるのだろう。ただ内モンゴルが、1944年のヤルタ会談で、(当事者であるモンゴル国不在の中)スターリンの主張により中国に編入されたという事実は、中国も、あるいはそれを認めた米英も、常に念頭に置いているのだろう。

 この前に読んだ「モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち」でも説明されていた、ユーラシア大陸全般に渡る姻戚関係なども含め、この広大な地域支配を支配した政治勢力のダイナミズムが詳細に記載されているが、中国地域に限れば、明王朝までは、中国を支配した王朝は、限られた地域支配に留まる「盆地型国家」であるというのが著者の見方である。そして清王朝になり、そこでの「蒙満連合」によりその支配地域が、北西に広がった。しかし、この時も、モンゴルと内モンゴルは地域的に分かれていた訳ではないとする。しかし、19世紀後半、清の力が衰えてきた時に発生した二つの大きな反乱が、その後のこの地域の分断を産んだと見る。それは「(1862年の)モンゴル高原南西部を襲った回民蜂起と、(1891年の)東部大興安嶺南麓になだれ込んだ金丹道の反乱であった」という。前者は、清朝のもとで「平和に安住」していたモンゴル人の「中国化」を促し、後者は、そのモンゴル人を抑圧しようという漢民族側からの圧力として結実した、というのが著者の見方である。更に、別の「外患」として、西欧キリスト教の普及がこの時期に始まり、清朝が、特に内モンゴル地域での布教活動を許容し、それを利用しカトリックに改宗した漢民族が、教会側の支援を受けて内モンゴル人の草原を農耕地に替える進出を強めたことも語られている。この二つの騒乱は初めて聞く話であったが、カトリックの普及活動を含め、清朝末期のこうした混乱が、その後のモンゴルと内モンゴルの分離を促したという議論(即ちこの両地域の分断は19世紀末に始まったという見方)は念頭においておこう。著者の父親を含め、この騒乱の中で統一モンゴル国家樹立を模索しながら、ヤルタ合意と、その後の毛沢東の共産中国(とそこでの文化大革命による大民族粛清)に裏切られて挫折した過程が、この著者の私的な原点になっていることも十分読み取れる。そして遊牧民の草原が、農耕により砂漠化すると共に、そこでの鉱物資源開発が深刻な環境汚染を引き起こしていったことが批判されることになる。1989年のソ連崩壊後、そうしたユーラシアの遊牧民国家がそれなりの主権を取り戻すことになったが、それが未だに実現していないのが、「内モンゴルのモンゴル人と東トルキスタン(新疆ウイグル)のウイグル人、それに世界の屋根に暮らすチベット人だけとなったのである」。

 その過程で、中国共産党が内モンゴルを新疆ウイグルやチベットの「解放」のために上手く利用したことも説明されている。スターリンにより中国に任された内モンゴルは、「自治政府」として穏健な民族主義的共産主義を目指していた。そしてより独立志向が強かった新疆ウイグルやチベットを制圧するためにその騎馬兵が使われることになる。しかし、一旦中国共産党による新疆ウイグルやチベット支配が完了すると、今度は戦時中の「対日協力」やモンゴル国との統一志向を理由に内モンゴルの「民族主義者」を粛清し、漢人支配を強化したという。そこでの漢人支配や環境汚染に対する抗議等が圧殺されていった事例の数々が語られている。そして大規模な漢人植民により、人口面で漢人の力を強めていったことも、新疆ウイグルやチベットと同じである。内モンゴルは中国共産党に利用され、そして草原の砂漠化をもたらす漢人支配を強化されたというのが著者の見解である。

 冒頭で取り上げられていた、2020年8月末の、内モンゴル自治区での中国語強制問題も改めて一章割かれて説明されるが、ここで興味深いのは、モンゴル語自体の問題以上に、その表記文字に関わる歴史的経緯とその民族問題との関係である。即ち、戦後の社会主義化以降、モンゴルも内モンゴルも、ソ連の「キリル文字」を使う方向で進んできたが、それは元々のモンゴル文字や中央アジアの「テュルク」文字が、「キリル文字」に近いものであったことが理由であった。しかし、内モンゴルや新疆ウイグル問題が顕在化するに至り、中国共産党政権はこうした言語・文字の共通性から、これらの地域が接近し、連携することを危惧することになり、それが言語・文字の中国化を進める要因になったと見る。実際、先日訪れたモンゴル国内では、そのロシア語のキリル文字が一般的であった。ただそのキリル文字を伝統的に使ってきた中央アジア諸国でも近年は、表記のローマ字化も進んでいるという。この辺りはシンガポールのような複数言語の公用語化というのが現実的な解決であろうが、共産中国の場合は、そう簡単に受け入れることは出来ないのであろう。

 こうして内モンゴル問題を中心に、地域問題を提起してきた著者は、最後の数章を割いて、かつてチンギス・ハーンの大帝国があったユーラシア全域を見渡した「国際問題」の現状を議論することで、この新書を終えることになる。そこで取り上げられているのは、ダライ・ラマ問題を含めた中印関係や中ロ関係と、そこでの中国の「一帯一路」政策の課題と展望、更にはカザフスタンやウズベキスタン等中央アジア諸国の現状とロシアや欧米日本との関係等広範囲に及び、夫々なかなか面白い。ただここでは立ち入るのは省略する。またこうした内モンゴルを巡る紛争に日本が「旧宗主国」としてもっと関与すべきであるという主張も行っているが、正直、この問題が日本政府により正式に取り上げられるのは、現在の中国との関係や、そこでのその他の喫緊の課題を考えるとなかなか難しいのが現状であろう。しかし、それは別にしても、著者のこの地域に対する深い理解とそれを日本語で提示し続ける力には大きな敬意を払いたい。著者には、この著作の前にも「モンゴル人の中国革命」という作品もあるが、こちらも是非手に入れて読んでみようと思う。そんな気持ちにさせられる、なかなかの著作であった。

読了:2024年10月15日