序文
1991年夏、勤務先の会社からドイツ、フランクフルトに赴任という人事異動を内示された時、私は二つの相反する感覚を抱いたものだった。その時、かつて勤務したロンドンから帰国し、僅か3年半しか経っていなかったが、欧州の状況は私がロンドンを出た時と大きく変動していた。1989年11年のベルリンの壁崩壊から1年もしないうちに、あれよあれよという間に、恐らく数年前までは誰一人として、今世紀中には実現するなどとは予想もしなかった東西ドイツの統一が為し遂げられていた。統一に至るこの激動の1年は疑いなく、20世紀の二つの大戦とその戦後に新たな欧州秩序が成立したのに匹敵する歴史的時間であった。
1982年3月から1988年1月までロンドンに滞在していた頃、以前から注意深く見ていたソ連・東欧情勢が、1985年のゴルバチョフの登場と共に大きく流動化していくのを感じていた。そしてロンドンからの帰国後、このベルリンの壁の崩壊からドイツ統一に至る報道を日本で追いかけつつ、直前までロンドンに6年近くも居ながら、何故この歴史的瞬間に欧州に滞在し、これを間近で目撃することができなかったのか、という悔しさにとらわれていた。ドイツヘの赴任内示が出たのは、そうした気持ちが冷めやらない中であった。「赴任の時期がほんの少し遅すぎた。」新たな勤務に備え、仕事の合間にドイツ語学校に通いながらも、こうした気持ちを抑えることができなかったのである。
しかしいずれにしろドイツへの転勤は既に指示された。そうであれば、統一直後のドイツとその変貌を観察していこう。確かに壁の崩壊とドイツ統一は、ジャ−ナリスティックな観点から言えば歴史的事件である。そこでは多くの革命がそうであるように、旧秩序の破壊的側面が現れたが、実はフランス革命でもロシア革命でも、破壊の後の建設過程に本当の困難が控えていた。今世紀の二つの大戦後の日本や欧州も、全てが破壊された後に、まさに建設の苦難を味わってきたのである。それならば、統一後の建設過程をつぶさに眺めていこう。何故ならば、その建設過程は、私が目撃することのできなかった革命の破壊過程よりも、より困難な、しかも場合によってはその後の歴史を規定する実質的且つ決定的な過程となるであろうから。そしてフランス革命やロシア革命がそうであったように、そこには更なるドラマが控えていることもありうるのである。
実際、1970年代に始まった欧州統合に向けての具体的施策は、ドイツ統一により大きくその戦略を修正せざるを得なくなっていた。それは何よりも、EU加盟15カ国のGDP総額の約25%を占めるドイツの経済力という牽引車を前提にしていた。日本と同様に敗戦の瓦礫の中から復活し、競争力のある輸出産業の主導により、欧州最強の経済力を蓄積したドイツは、安定した財政収支と輸出により確保した黒字を資本輪出に振り向ける余裕を有するに至っていた。そしてそこには何よりも、ドイツ連銀のかたくなまでの反インフレ的金融政策に裏づけられた安定通貨としてのドイツ・マルクが実質的な欧州の機軸通貨として君臨していた。しかしこうした欧州統合の背後の牽引力として想定されたドイツの経済的強さが、突然のドイツ統一とその後のドイツの統合処理の過程で、大きく変質していったのである。健全であった財政は、年間約1000億マルク(約8兆円)に及ぶ東独支援のための赤字国債の大量発行により変貌し、その後ドイツの、マ−ストリヒト条約上の財務基準達成を危うくすることになる。そして東独に流れた資金は、インフラ整備等の設備投資に回るのではなく、コメコンの閉鎖市場から解き放された時に競争力を喪失した国営企業が次々に倒産する中、増大する失業給付を経て最終的には消費に振り向けられ過剰流動性を惹起させた。そもそもコ−ル首相(当時)の性急な統一に懸念を示していたインフレ・ファイタ−たる連銀は、ペ−ル総裁(当時)の指導下、この過剰流動性に、金融引締めで立ち向かい、その結果として、1991年以降ドイツの景気は、復興特需のバブルが弾け、長期的リセッションに突入していくのである。
更に、欧州統合は政治的には欧州での戦勝国フランスが主導し、戦敗国であり、加えてナチスの蛮行という汚点を持つドイツの政治的指導力は表に出してはならなかった。しかし、統一により政治的には自信を回復したドイツは、EU公用語問題、国連安保理事会常任理事国問題、欧州中銀招聘問題、そしてなかんずく旧ユ−ゴ分裂時のスロベニアやクロアチアの独立承認での独走等、統−前にミッテランやサッチャ−が懸念したような大国意識の一端を見せ始めていた。欧州統合で本来期待されたドイツの経済力には陰りが生じ、他方本来は控えるべき政治的リ−ダ−シップが前面に現れるという懸念される状況が顕れんとしていた。私がフランクフルトに赴任した直後の1991年12月に調印されたマーストリヒト条約は、まさにこうした困難な統一欧州の建設過程をタイミング的にも象徴するものとなったのである。
それから7年。私がフランクフルトを離れる直前の1998年6月、フランクフルトに設置された欧州中銀がその公式の活動を開始し、そして帰国後の1999年1月、新たな統一通貨たるユ−ロが、数値基準を満たした11カ国で導入された。ドイツそして欧州は、90年代の幾多の試練を乗り越えて21世紀の新秩序の枠組みを整えるところまで到達したのである。その7年は、当初私が想像したよりもはるかに刺激的な時間であった。そしてその間、ドイツ・マルクを主要通貨とする金融・資本市場に身を置きながらも、私の職業的な日常世界に現れる種々の現象が、実は歴史的・政治的なドイツ現象全般の表現であることを常に感じていた。多忙な日常生活の中で、ジャ−ナリスティックな独自の取材を行う余裕はなかったものの、この自分が身を置き、限界付けられているとはいえ現実に体験している世界の背後にあるものを求める衝動は抑えることができなかった。幸いにしてドイツ統一から欧州統一に向けてのジャ−ナリスティックな物から、学問的、趣味的な物まで、ドイツに関する日本語の文献は世の中に溢れていた。仕事の合間にそうした読書を続ける中から、自分がまさにこの瞬間生きているドイツの日常世界を理解するための材料を数多く見つけることができた。この記録は、ドイツ滞在中に私が試みたドイツ理解の方法の一端を整理しつつ、今後も変化してやまない欧州情勢についての私の理解を、ドイツに関する書物を通じて示してみようとするものである。
振り返って見れば、私のドイツとの関わりは、何よりも学生時代のフランクフルト学派と呼ばれる社会思想家・哲学者との出会いに始まっていた。当時私は60年代米国のポップ音楽への関心から、その時代の米国社会思想へと進み、それが実は、30年代から40年代にかけて、ヒトラ−の弾圧からアメリカに逃れた人々の影響下にあったことを知ったのだった。彼らの多くはユダヤ人であり、20年代から30年代にかけての所謂ワイマ−ル文化を担った人々であった。彼らの思想や社会哲学を学ぶ中から、私自身の社会現象の見方のみならず、物事の考え方あるいは人生哲学そのものが形成されていったと言っても過言ではない。更にそうした思想が成立していった社会的・歴史的背景に対する関心が私をワイマ−ル期、あるいはそれに前後するドイツ近代史の世界へ誘うことになった。
そうした個人的体験の結果として、私のドイツ理解の試みは、私が職業としている金融・資本市場に限定されるものではなかった。むしろ、日常的にはそうした限られた分野で生きているとしても、政治的・社会的・歴史的・文化的総体感は常に必要であるというのが私の確信である。その結果、このドイツを読み解く試みは、分野としてはこうした広い世界を逍遥することになった。もちろん書店の欧州政治・歴史コ−ナ−に立ってみれば、私が接した世界は、日本語文献に限ってみてもそのごく一部に触れたに過ぎないことは一目瞭然であり、また、それぞれの分野でまだ多く残る専門書や原書を読破する気力も時間もなく、その意味でそれぞれの分野については、私が唯の素人であることは十分認識せざるを得ない。しかし、それを十分承知した上で、90年代の7年、ドイツで生活していた人間が、ドイツという共通項のみを有する幾つかのカテゴリーにまたがる書物の中から何を学び取ったか、を報告していきたいと考えるのである。
私が逍遥した世界は、決して稀な資料の世界ではなく、どこの書店でも見つけられるような書物の世界である。その意味ではこの本の価値は、そうした書物の紹介にあるのではない。むしろ私が意図しているのは、そうしたある国についてのありふれた書物を、歴史のある時期に、実際にその国に滞在していた人間がどのような意識をもって読み込み、何を学んでいったかという記録を残すことにある。その意味で、このノ−トは、書物を通じた私のドイツ学習記録であり、反面で言えば私自身の主観的観察はむしろ意識的に限定し、またそうした主観的思い込みの激しい滞在記や生活本などは、実際に目にはしていてもここでは一切取り上げなかった。またそうした目的からここで取り上げる書物は、僅かな例外を除き、私のドイツ滞在期間に読んだものであり、学生時代から始まった私の読書体験の限られた一時期をカバ−しているに過ぎない。それにもかかわらず、これからこの国に滞在するチャンスをもつ人々やこの国や欧州全体に関心を寄せる人々が、これらの本とそこで示された事実や解釈を参考に、日常生活の背後に広がる、ドイツの大きな政治・経済・社会・文化環境を多少なりとも感じることができればというのが、ささやかな現在の私の願いである。
1999年4月 記
(追記)
今回のHPの改訂に合せて、ドイツから帰国後に、日本でも読み進めたドイツ関連本の評を加えることにした。既にドイツから離れ、日本に帰国して10年を越える年月が経過した。その間に、欧州統合は政治・経済面で更に進み、もはや欧州を見る際に、ドイツやフランスなど、中世以来の国民国家の枠組みで見るのではなく、統合欧州という単位で語られることが益々多くなってきた。金融政策の世界でも、欧州中銀は、今回の米国発の金融危機においても、欧州を代表する組織であり、かつて世界に名を轟かしたドイツ連邦銀行が話題となることはほとんどなくなっている。その意味で、欧州を見る際に、単にドイツだけを見るのは不十分であり、統合体としての欧州を総体的に捉える必要が、益々高まっているのである。
しかし、壮年期の7年をその地で過ごしたドイツは、依然私の中では、欧州の中でも固有の文化とダイナミズムをもった社会として、決して忘れることのできない存在である。国内政治情勢といった短期的な変動は、もはや仔細に追いかる立場にはないが、それでもこの国民国家を、更に追いかけていこうという気持ちにはいささかも変化はない。
日常生活面では、2008年6月から、ドイツから遠く離れたシンガポールに生活拠点を移すことになった。その結果、今回このHP内に別に設定した「アジア読書日誌」や「シンガポール通信」が私の情報発信の中心になり、またドイツ関係の読書量も次第に減少しているのが実態であるが、それでもこのドイツ読書逍遥は続けていきたいと考えている。それはまさに変貌する欧州を、引続きドイツに視点をおいて見ていこうという試みであり続けている。そこに、時間を越えたドイツという国の理解を、私なりに継続していく姿を読み取って頂ければ、たいへんうれしい限りである。
尚、今回のHP改訂に合わせて、1995年のポーランドーアウシュヴィッツ旅行記を「ナチス」欄に加えた。アジアでの旅行記は既に「シンガポール通信」に掲載しているが、この90年代半ばのドイツからの旅行は、まさに読書と合わせた私の大きな歴史への旅であったからである。また今後、まだデータ化が終わっていないその他周辺地域への旅行記も、準備が出来次第掲載できればと考えている。アジアの熱帯の地から、極寒の冬を過ごしたドイツや欧州全般について語るのはやや違和感もあるが、そうした無理を承知の上、続けていきたいと考えている。
2009年9月 記