アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第一節 統一ヨ−ロッパの諸問題 
統合と分裂のヨ−ロッパ
著者:梶田 孝道 
第八章で民族問題から欧州の現在を捉えた著者が、それに先立って、欧州統合の現実と問題を取り上げたのが本書である。アプロ−チの方法から言えば、ヨ−ロッパ社会構造の動態分析と言えるが、内容的には、私が欧州に滞在し、日々の生活の中でたえず実感し、その思考のフレ−ムワ−クを探っていた欧州の分裂と統合の諸層を見事に整理してくれたのである。その意味で、彼の理論は、もちろん今後の欧州の歴史展開において常に試されると共に、私自身の見方を形作る上で、大きな準拠枠を与えてくれたのである。まず、著者の問題意識、準拠枠、及びその検証の方法を見てみよう。

 まず、現代欧州の民族と国家を見る際に、一国単位の分析では不十分なことは言うまでもないが、さりとて、「『国民国家の相対化』という一言とともに国家を越える水準に分析を移行させることも難しい。」著者の見るところでは現代の欧州には3つの問題群が存在する。第一に、EC、国家、民族という3つの水準の関係性、第二に、EC諸国における多文化状況、そして第三にナショナリズムの台頭という問題。こうした観点からECを分析対象にする場合、従来の経済ないしは国際政治の視点からだけでは不十分で、むしろ民族や文化に着目する「国際社会学」的アプロ−チが必要になる、と著者は主張する。

 このためのコンセプトとして著者が提示するのは「EC、国家、地域」モデル、より一般化すると「超国家(連邦)、国家、民族」モデル、あるいは「三空間並存モデル」。そのモデルを検証するための対象は、ECによる統合過程にある西欧のみならず、むしろ西欧の統合に反比例して分裂の危機にある東欧と旧ソ連地域、そして空間的、時間的に異なった例としてのイギリスの民族問題である。

 まずEC地城におけるこの議論の有効性を検証してみよう。EC地域では1970年代に幾つかの民族運動が勃発した。フランスにおけるブルタ−ニュ、オクシタニ−、コルシカ、スベインにおけるバスクやカタル−ニャ、そして英国におけるスコットランドやウエ−ルズ、そして今日でも全く解決の目処が立っていない北アイルランド。これらのケ−スは北アイルランドのケ−スを除けば、分離・独立を目指すというよりも、「既存の国家の枠内での社会、経済的状況の改善に重点を置いた民族的左派」の運動であった。そして、こうした運動は、自分達とは言語や文化を異にする中心部や中心政府を相手に自己主張を行ってきたが、EC統合の進捗による超国家の成立と共に、運動を取り巻く環境が異なってきている、という。EC統合の過程で相変わらず国家主権の制約を巡る議論が続く中、これらの地域は、一方でボ−ダ−レスとなった経済により、一層厳しい競争の波に曝されると共に、他方では超国家の理念の浸透によるメリットを享受する機会も出てきているのである。例えば、アルザス・ロレ−ヌでは、今後ドイツから強力な産業が参入してくることになるが、他方ではドイツやルクセンブルクの隣接地域との、より柔軟で国家から自由な協力関係を作ることも可能になるのである。著者はこうした西欧の地域運動が変貌していく方向性を以下の6つに整理している。

@国家が主権の一部を喪失することにより、これまで国家を標的にしてきた運動が次第に有効性を失う(国家とECの双方を標的にするような、「運動のトランスナショナル化」)。
A自らの経済的周辺化を問題にする地域主義運動はその正統性を部分的に喪失(新たな後進性の参入)。
B敵手の告発から自助努力による地域発展への地域主義の変貌(激突型の政治から経済・社会レベルでの地域振興への重点の移行)。
C「国境なきヨ−ロッパ」の誕生による分離・独立の動きの滅少(国境の相対化)。
DECというトランスナショナルな空間が形成される中での民族対立の緩和(対立する両地域の相手との関係における比重の低下)。
E「国境なきヨ−ロッパ」の実現により、テロリズムや麻薬の拡散というマイナス面も。

 こうして、著者によると、EC域内の地域、民族問題は、概して、その破壊的性格を減じていくことになる。移民、難民問題といった新たな民族問題を除けば、「地域や少数民族は、EC統合の中に自らを位置付けることによって、『遠心力』ではなく、『求心力』として働く」ことになる。そしてこうした求心カは、言語、文化の面でも、「リングア計画(各国言語の普及、定着と域内での多言語使用)、「エラスムス計画」(域内留学制度)といった政策により強化されていくことになる(フレクシブル・アイデンティティの発生:J.ハ−バ−マス)。また興味深いのはこうした域内での求心カによる「国境を越えた広域圏」−例えばカタル−ニャと南仏−とは別に、EC域外にまで広がる地域べ−スでの広域圏−例えば「アルプス・アドリア」、「ヘキサゴナ−レ」「バルト海港市協力」−をも促していくのである。こうした動きは「ECという強固で安定した枠組みが存在するが故に可能になった」と著者は主張している。

 これに対し、「ECに相当する超国家機関が存在しないために、国境隣接地域の統合が、国土回復運動や国境線の変更という紛争につながる」のが旧ソ連、東欧圏である(モルドバとル−マニア、トランシルバニアとハンガリ−、ナゴルノ=カラバフとアルメニア、アゼルバイジャンとイラン等)。そもそも欧州を西から東へ進むと、西欧的な「国民国家」が少なくなり、民族的交錯の度合いがより複雑な多民族国家が現れてくる。旧ソ連とその勢カ圏が崩壊し、社会主義イデオロギ−と軍事力を基盤に維持されてきた超国家ベ−スが消滅したことから、一度この複雑に交錯した民族が、共和国に対して強力な自己主張を始めるや否や、それを相対化する要因が何もない(例えば旧ソ連の少数民族が、連邦の後ろ楯を失い直接共和国に対峙する)、というのが、これらの国々が現在直面している問題なのである。しかも、民族的分離、独立が、その地域からの他民族の物理的排斥(エスニック・クレンジング)を前提とすることから、紛争はユ−ゴの内戦に見られる悲惨な様相を呈することになる。その意味で、「はるかに『国民国家』の理念に近いEC諸国において、今日多民族の共存や少数民族の保護という考え方が受け入れられ、「国民国家」モデルが後退しつつあるのに対し、旧ユ−ゴ・ソ連では「国民国家」としての客観的条件を欠く共和国が『国民国家』化しつつある」という著者の指摘は、問題の本質を的確に捉えている。

 もとより、旧ソ連圏の今後の再編につき、「ユ−ラシア共同体」や「EC型国家連合」といった提案がなされてきた。広域経済の成立の諸段階として、@自由貿易地域、A関税同盟、B共同市場、C経済・通貨同盟があるとすれば、北米圏は@の段階、ECはBの段階にあるといえるが、旧ソ連圏の場合は、政治面での民族排外主義と、経済的後進性が、こうした広域経済圏志向を妨げ、依然@の段階にも至らない状況になっているのである。あるいは、経済圏を目指す場合にも、各共和国毎に目指すレベルが異なっている。このように共和国間の不均質性があまりに大きいこれらの地域では、「長期的には資格の異なる共和国の重層的な連合」を目指すしかない、ということになる。更に短期的にはECを中核とした「ヨ−ロッパの拡大」はユ−ゴ.ソ連の分裂を加速せざるを得ない、という側面も重要である。即ち、これらの地域の「ヨ−ロッパ系」共和国(ユ−ゴであれば、スロベニア、クロアチア、旧ソ連ではバルト三国、ベラル−シ、ウクライナ、モルドバ)と「ムスリム系」共和国(前記以外の多くの地域)で民主化、自由化の浸透度がおのずと異なることから、EC諸国の対応も異なり、その結果として格差も開いていかざるを得ないのである。これは、既に、アルバニアからの難民問題やバルト三国の承認問題、あるいはユ−ゴ内戦の反セルビア寄りとも受け取られかねない調整に際して現れており、また将来の拡大ECの境界を設定する場合の大きなテ−マとなるものである。

 著者が最後に、この「三空間並存モデル」の有効性を検証するために使用するのは、1970年代に高揚した、英国スコットランドの民族主義のケ−スであるが、これは西欧先進国における事例としてもう一つの論点を提出する。即ち、1707年、イングランドとスコットランドが連合王国を形成し、議会主権のもとでスコットランドがその政治的主権を喪失し、今日に至る政治体制が出来上がった英国は、18、19世紀の大陸における民族主義の高揚の影響をほとんど受けなかったにも係わらず、むしろ1970年代に遅れてスコットランド民族主義の高まりに直面する。言うまでもなく、18、19世紀は、英国植民地主義の最盛期であり、スコットランド人もイギリス人としてこの植民地からの収奪とそれに基づく繁栄を共有することができた。その意味でイングランド人とスコットランド人の差異は消滅し、英帝国からの分離、独立は問題にならなかった。それに対し、第一次大戦後からの、英国産業社会の衰退と共に、1970年代の北海油田の発見、開発が突然スコットランド民族主義を刺激することになる。即ち、経済的、社会的停滞の中で、英国内に留まる意味が薄れると共に、他方で新たな資源の領有、それからの利益還元を巡る論議がこうした民族意識の覚醒を促すことになった、と言えるのである。別の言い方をすれば、このスコットランド・ナショナリズムは、「経済的利害の実現のためのレトリック」という側面を有していたのであり、その意味では、先進諸国における民族主義は、今後個々の局面で、「人為的・可変的」な形をとることもありうる、ということをこの事例は示している。

 こうして「三空間並存モデル」を使い三地域の民族問題を見てみると、結局言えるのは次のことではないだろうか。即ち、超国家の存在により、生産力が相対的に高い地域の民族運動はより「人為的・可変的」、従って合理的、調整可能なものになっていく。それに対し、生産力が低く、また宗教の絡む民族的交錯状況の存在する地域は、結局民族アイデンティティ−の相対化ができず、その結果超国家権力の消滅が、民族的排外主義の高揚をもたらすことになるのである。後者の民族問題は結局のところ、この「三空間並存モデル」を適用する以前の問題である。その意味で、この地域の問題は、構造的に、各民族のアイデンティティ−を包括する超国家の形成が困難な点にあるといっても過言ではない。

 この書物の後半で著者は、まずフランスとベルギ−の例を参考にEC統合による国家の変容を、次にカナダの「二言語・二国家主義」、オ−ストラリアの「白豪主義」放棄とアジアヘの接近、アメリカにおける文化的多元主義の下での相互隔離等を参考に、西欧、特にフランスにおけるイスラム移民の統合の問題を、そして最後に「相対的剥奪感」なる概念を基にしたフランスやドイツにおける右翼台頭問題を取り上げているが、これらの論点には前半のような斬新さはないので、ここで取り上げるのは省略する。しかし、著者が最終章で整理しているとおり、現在の西欧においては、「三空間並存時代」の到来は「調和」を、「多文化主義」を巡る論争は「緊張」ないし「ジレンマ」を、そしてナショナリズムの問題は「反発」という社会要因を示していると言える。その意味で、「調和」という楽観主義と「緊張」または「反発」の悲観主義が拮抗しながら存在しているのが現代の西欧である。今後こうした要因のどれが支配力を強めていくかは、一つにはEC圏の経済的競争力が維持されるかどうか、そして次には旧ソ連、東欧圏をうまく西欧的システムの中に取り込んでいけるかどうかにかかっていると思われる。これに失敗すると、結局西欧も求心力を喪失し、徒来の民族主義的国民国家に逆戻りしかねないであろう。

読了:1994年1月2日