プラハを歩く
著者:田中 充子
ここのところ、アジア関係の本が続いたので、年末に向け、少しリラックスしておこうという気持ちを込め、欧州関係の軽い読み物を流し読むことになった。実は、この後に、今年の欧州での信用不安とユーロの危機を受けて、それと直接関係するやや重めの本が控えているのであるが、それに向けての頭の切り替え、という趣旨も兼ねたものである。著者は、大学は東洋史学科の卒業であるが、その後建築史、なかんずく欧州の建築史を研究に移り、その過程で、欧州で最も中世の面影が残る町であるプラハに魅了され、この町の建築史や都市開発の歴史等を専門に追いかけてきた学者である。そうした著者である故に、本自体は軽いプラハの都市案内であるが、個々の説明は、歴史と欧州文化・建築等の知識を踏まえた深いものになっている。私がこの町を訪れたのは、90年代のドイツ時代であるが、その時は友人たちとドイツから車で行った3泊4日の短い滞在であったために、余り町の中をゆっくり歩く時間はなく、幾つかの有名な観光スポットを除けば、ボヘミアン・グラスを買ったことくらいしか記憶が残っていない。その意味では、またゆっくり訪れてみたい場所であり、またその時はこうした人の案内で町を散策すると、とても面白い旅行ができるだろうなあ、と思わせる本であった。しかし、内容自体は、上記のように基本的は都市案内であるので、ここではあまり深入りをせず、幾つかの興味深い点だけを記載しておく。
ユネスコの世界遺産にも登録されているプラハの街は、ロマネスクから、ゴシックからアール・ヌーヴォーや機能主義等の近代建築まで、各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館」である。著者はプラハ城の歴史などから始めているが、まず面白かったのは、ゴシック様式での聖ヴィート大聖堂である。そもそも「ゴシック」とは、ローマ時代に東方から移住してきたゴート人を意味する言葉で、「ゲルマン人の原始的なスタイルに対する蔑称だった」という指摘。そしてゴート人が一室居住で、その中央で火を焚いたことから、火が屋根に燃え移らないように天井を高くしたことが、ゴシック建設の原型となったという。それは、それ以前のロマネスク様式が壁に依存したのに対し、柱を中心とした新しい工法を生むが、このプラハのゴシック教会も、ケルン大聖堂などの影響を受けたドイツ人工匠ペトル・パルレーシュが1367年に主要部分を完成させたものであるという。「主要部分」と書いたのは、これが現在の姿になったのは1929年であったからである。バルセロナの聖家族教会ではないが、欧州の教会建築は、何とも長い歴史をかけて作られて来ているのである。
1348年に、中央では初めての大学としてカレル4世により創設されたカレル大学。当時大学の設立は教皇の許可が必要であったが、カレルが神聖ローマ帝国の皇帝になり、プラハに都をおいたことが有利に働き教皇の許可が下りたと言う。1415年、コンスタンツ公会議で異端宣告を受け火刑に処せられたフスは、貧しい家庭に生まれた後、この大学で学び、教授を経て総長となった人間である。フスがカトリック教会批判を行った聖ベツレヘム教会堂も現存しているとのことである。町の最大のインテリが、教皇により殺されたのだから、その後フス戦争が長きにわたって続いたことや、これがこの国も独立に関わる伝説となったことも頷ける。
カレル橋は、その30体のバロック石像彫刻で有名で、私もこの町を訪れた時には早速観光をした記憶がある。しかし、14世紀後半に橋が完成した時は、欄干の上には木造の十字架が一つあっただけで、カレルの死後360年経ってようやくこの30体の彫刻が完成したという。チェコ的、あるいは欧州的な時間と著者はコメントしているが、教会建築を含めて、その完成に向けての執念は凄まじい。その他、だまし絵の天井画のあるスタルホフ修道院、16世紀の完成当時「アルプス以北でもっとも美しい本格的ルネサンス宮殿」と謂われたベルヴェデーレ離宮、側面の壁にだまし絵のあるシュヴァルツェンベルグ宮殿、「プラハの春」国際音楽祭の会場にもなる広大なヴァルトシュテイン宮殿、プラハのバロック建築を代表する聖ミクラーシュ教会、1968年8月と1989年11月の2回、現代のこの国の最大の政治的事件を目撃したヴァーツラフ広場など。現代の建築物としては、アール・ヌーヴォーを代表する「工業宮殿」、キュービズム建築を代表する「黒い聖母の家」、そして社会主義の遺物としての「インターナショナル・ホテル」や究極の機能主義としての「ミューラー・ハウス」等、冒頭に述べられたとおり、「ヨーロッパの建築博物館」の面目躍如という感じである。著者は其々歴史と建築史上の意味合いをコメントしているが、それらは省略する。
ただ考えてみると、こうした各時代の建築様式が混在しているのは欧州の町では、それほど変わっている訳ではない。例えば私がかつて生活したフランクフルトは、ドイツの中では以上に近代化されたドイツらしくない街であったが、それでもロマネスク教会からゴシック聖堂、モダニズム住宅群から、郊外のアール・ヌーヴォー建築群まで、一通り揃っていた。しかし、プラハが秀でているのは、そうしたモダニズム系の建築物にも関わらず、旧市街が現在も中世の面影を留めており、例えば映画「アマデウス」など、中世ウイーンを舞台とする映画が、実際にはプラハで撮影されている。著者は最後に、ヨゼフォフという、かつてはスラム化していたが19世紀末にアール・ヌーヴォー風に再開発された地域への愛着を語っている。この再開発にはいろいろ議論があったようであるが、現在のプラハ市民は、様々な意匠に溢れたこの地域に住むことを憧れているという。同時にこの街が、その再開発後に訪れた民族独立を連想させることも、その人気の別の理由であるという。マサリクに率いられた最初の独立から約1世紀。その後、ナチス・ドイツによる支配からソ連の衛星国化の約50年を経て、今再び民族国家として独立(但しスロバキアは分離独立しているが)しているこの国では、去る12月18日、1968年の反体制派から1989年のビロード革命の中心人物となり、その後大統領に就任したグスタフ・ハベルが75歳の生涯を終えている。ソ連からの解放以降の国造りという一つの歴史が終わったこの国で、中世から変わることのなく続いている、そしてこれからも変わらないであろうこの街の姿を綴った気楽な読み物であった。
読了:2011年12月22日