ハンガリー紀行
1992年4月17日―19日
(4月17日)
4月も半ばになり、ドイツもすっかり春めいてきた。時折気温は零度近くまで下がることもあるが、太陽は次第に強さを増しつつある。家族の到着まで一カ月を切り、ようやく一人の生活も終わりに近づきつつあるこの時期、イースターの4連休を利用してハンガリーのブダペストへ飛んだ。
そもそも東欧圏は、かつてのロンドン時代に行き損ねた地域であったが、1989年の革命ですっかり様子が変わってしまった。かつてのようなソ連の衛星国たる管理社会は姿を消し、西欧民主主義のもとで再建途上にある国家群に変貌した。かつて私が追いかけていたような、社会主義下の管理社会というカフカ的状況はもはや無く、その意味で今これらの国を訪問する意味は当時とずいぶん変わってしまった。即ち、今回の訪問に意味があるとすれば、それは、40年以上にわたる社会主義政権のもとで立ち遅れた経済生産性と停滞した文化活動が、革命の後如何に変化しているかを見ることにあるに違いない。しかし、これらの国家群の中で、ハンガリーだけは、1956年の暴動の後、徐々にではあるが社会主義政権下においても自由化を成し遂げてきた国である。1989年、東独難民のためにオーストラリア国境を開放し、ベルリンの壁、ひいてはヤルタ体制自体を打ち破る直接のきっかけを作ったこの国は、その点では東欧圏の中でもやや特別であった。その特殊性がどこから来たのか、というのも、今回の私のハンガリー訪問に際しての大きな関心であった。
朝7時過ぎに自宅を出発し空港へ。今回の旅行のアンチョコは、加藤雅彦著の「ドナウ河紀行」と江村洋著の「ハプスブルグ家」。前者は観光目的に、後者は文化理解のためと考えた訳だが、結果的には前者が大活躍することになる。
9時40分発のルフトハンザ機でフランクフルトを出発。イースターの初日とあって、機内は満員。一緒に座りたいという家族連れのために席を替わってあげたら、新しい席の隣は、生後4か月の男の子を連れたドイツ人の夫婦。日本で生まれたばかりで、まだ顔を見ていない自分の長女もこんな感じなのかな、などと考えているうちに、約1時間25分のフライトで、ブダペスト空港へ到着。小さいけれどもきれいな空港である。早速マルクをフォリントに替え(DM100=FT4628、従ってFT1=Y1.7程度)、迎えに来ていた現地旅行者の人間を見つけタクシーで市内へ。20分程度で、ペスト地区から市内に入り、ドナウ河を渡り、ブダ地区にあるブダ・ペンタ・ホテルへ到着した。郊外の風景は丁度、ポルトガルあたりの田舎を走っている感じ。しかしブダペスト市内は、人口2百万人と言われるだけあって結構都会である。ホテルでチェックインするや否や、まず今日の午後の市内観光と夜のレビュー、明日の1日観光と夜のコンサートを予約。市内観光のピックアップが午後2時なので、昼食がてらホテル周辺の探索に出かけた。
ホテルはブダ地区の南駅近く、王宮等のあるブダの丘を東に見上げる位置にある。ホテルの横に人が溢れている地域があったので行ってみると、ABCという名のスーパーマーケットを中心とした日用品マーケットであった。中を覗くと、野菜、肉は言うに及ばず、電機製品やレコードなども、数は少ないけれども揃っている。風景もそうであったように、もはやこの国もヨーロッパで少々遅れた国でしかないという感じである。南駅前のビア・レストランに腰を落ち着け、ビールとグーラシュを注文。グーラシュと一口に言ってもいろいろ種類があり、その区別はなかなか分からない。この昼に出てきたのは、レバーのような肉のシチューであったが、パプリカで匂いは消されているためまずまずの味。特に、これとビールとサラダでFT350(約600円)であるから感激である。そしてこの食事の安さは、その後食べた全ての食事においても共通であった。帰りにABCで、部屋用のスプライトの大瓶を買い、ホテルのフロントで市内観光のピックアップを待った。
しかし、ここで今回の旅行での最初のトラブルが発生。2時半出発のバスのためホテルに2時に来るという迎えがこない。ホテルのフロントに「どうなっている」と尋ねても、「大丈夫、待っていろ」との返事。何度か確認しているうちに2時半を過ぎてしまったため、ようやく目の前で旅行会社に電話を入れさせることができたものの、結局旅行会社の手違いでピックアップができず、バスはもう出てしまったとのこと。「早速きたか!」というのが正直な感じであったが、一通り怒った上で、それを明後日の午前のツアーに変更し、3時過ぎに歩いてホテルを出た。目標は簡単、目の前にそびえるブダの丘である。
ホテル前の公園を横切り、一直線に城壁に向かう。結構な坂であるが、15分ほどで登りきると高台の旧市街に出る。正面は、もうマーチャーシ教会とフィッシャーマンズ砦である。中世、ハンガリー王の戴冠式が行われたというこのネオゴシック様式の教会内部を見てから、フィッシャーマンズ砦へ。直ちにドナウの雄大な流れと、河の対岸のペスト地区が一望され、その素晴らしさに、先ほどまでの怒りは吹っ飛んでしまう。天気はまずまずであるが、丘を吹き抜ける風はまだ冷たい。それでもしばし寒さを忘れ、砦の椅子に座り、この風景を眺めながら、この町を興奮の坩堝に包み込んだ1956年の暴動に想いを馳せた。2000台のソ連軍の戦車が出動し、2700人の市民が死亡したと言われるこの暴動を、この丘はどんな気持ちで見ていたのだろうか。しかしそれだけではない。後で聞いたところによると、市街を睥睨するこの丘には、第二次大戦末期にも、追い詰められたドイツ軍が立て籠もり、ソ連軍と激しい戦闘を繰り広げたという。その際、この教会や王宮を含めたこの高台の街並みのほとんどが破壊されたというから、この丘は単なる歴史の目撃者であるのみならず、その被害者でもあったということである。そんなことを考えながら、丘に沿って南に歩くと王宮に辿りつく。この王宮は現在各種の博物館や、国立図書館になっている。そろそろ体が冷えてきたため、まずは、MAGYAR NEWZETI GALERIAと呼ばれる美術館に入ってみた(入館料はFT40)。
この美術館が、私の予想をはるかに超える素晴らしいものであったことをまず記しておこう。まず広さ。もちろんルーブルやプラドには及ばないが、この王宮のほとんどを占める規模は、ロンドンのナショナル・ギャラリーやウィーンの美術史美術館に十分匹敵する。コレクションには著名なものはなく、ハンガリー作家の作品が中心であるが、中でも19世紀末から20世紀初頭にかけての大作がたいへん見ごたえがある。特にF.Karolyと S.Bertalanという2人のハンガリー画家の作品は、ルネサンス的大作から印象派等の影響を受けた現代的傾向のものまで、見る者を魅惑せずにはいられない。丁度ハプスブルグが、ハンガリー民族主義に手をやいて、「二重帝国」という形でこの国の事実上の独立を認めたのが1867年。同時にブダペストはこの「二重帝国」の一方の首都になるが、この二人の作品もまさにその時代のものである。ナショナリズムの高揚が芸術家の感性を刺激し、他方でそれがハプスブルグの良き伝統と共鳴したところに、これらの作品が成立するモチーフがあったと思われる。特に期待をしていなかっただけに、この驚きは新鮮であった。2時間ほどこの美術館で過ごした後、別の入り口からBudapest Torteneti Muzeumという博物館に入り、王宮の歴史や調度品等を短時間眺め、帰途についた。棒になった足に、行きには気がつかなかった王宮を下るエレベーターは優しかったが、ホテルに辿りつくや否や、ベッドに潜り込んでうとうとしてしまったのであった。
ふっと目が覚めるともう7時半。夜の部の開始である。この晩は、他にこれといった催しもなかったために、ナイトクラブ「Moulin Rouge」のチケットを取っていた。食事もできるクラブであるが、どうせたいしたものは期待できないので、まずはタクシーで近所まで行き、レストランを探すことにした。タクシーの運転手に「良いレストランはないか?」と聞くと、小さな灯りを指して、「あそこがいい」と教えてくれた。Barockという名の地下レストランの扉を開けると、ウェイターや客の何人かの視線が私に釘付けになるのがわかった。狭いけれどもなかなか洒落たレストランの中は、正装した男女で溢れていた。皮ジャンの東洋人の独り者は、そこではやや不釣り合いであった。席も予約で一杯のことだったので、早々に退散、共和国通り沿いの、ジーパンの若者で溢れるAdamsというビア・レストランに腰を落ち着けた。
ここで再びビール、グーラシュに鶏のコルドン・ブルーで、締めてFT500を平らげ、9時過ぎにナイトクラブへ。しかし、これが今回唯一の大失敗。確かにショウは夜10時から、と聞いてはいたが、9時過ぎに入ったクラブはがらがら。しかも灯りを薄暗くしているために、本も読めない。ボケっと待つこと1時間余り。こうした無駄な時間の過ごし方は、私にとっては最大の拷問である。こんなことだったら、もっと町を散歩しているのだった、と思ったが後の祭り。ひたすらハンガリーの歴史を頭の中で復習しながら、時間が過ぎるのを待ったのだった。
10時過ぎに始まったショウは、歌、踊り、曲芸、手品を織り交ぜたものではあったが、残念ながら世紀末ウィーンのキャバレーを期待していた私にとっては、あまりにもミーハー。クラブの向かいにある劇場にミュージカル「チェス」の看板がかかっているのを横目で見ながら、「こっちのほうがまだ良かった」とつぶやきながら、タクシーでホテルに戻った。
(4月18日)
モーニング・コールで7時起床。今日は、今回の旅行の目玉、ドナウを遡行する一日ツアーである。そもそも今回のハンガリー行は、ブダペストもさることながら、加藤雅彦の「ドナウ河紀行」で触れられている、ドナウ沿いのハンガリー王国所縁の地域を回るのが最大の目的であった。前日、ホテルに到着するや否や、迷うことなくこのツアーを選択したのは、この理由からだった。
昨日のこともあり、再度フロントで迎えが間違いなく来ることを確認。今日はきちんと予定の8時半にタクシーが到着し、集合場所へ。幸いなことに、集合場所に群れていたイタリア人を中心とする大多数は、リゾート地であるバラトン湖方面のツアーに向かい、我々のツアーは、シュッツガルトから来た50歳過ぎの男性と、ハンブルグからのやはり老年の夫婦、そして私の4人のみ。小型バスに、ガイドの中年女性アドリアンヌを加え出発した。アドリアンヌは、「必要あれば英語で説明するわよ」と言ってくれたが、結局3人のドイツ人に囲まれ、終日ドイツ語のみの世界になった。
バスはまずドナウに沿って北上、市内を抜けると、牧歌的な景色の中に時折見え隠れする市民の別荘を眺めながら進み(1989年の革命以前より、政府による金利補助があり、一般市民の別荘保有は比較的容易であったそうだ)、1時間ほどでセンテンドレの町に到着する。17世紀にセルビア人が作ったというバロックの町。アドリアンヌの説明によると、20世紀になってから画家を中心とする芸術家が住み着いたことで有名で、今も町には数多くの画廊があるという。白い桜に似た花の咲き乱れるのどかな町を散歩し、高台のローマ・カトリック民芸館へ。いつものやり方で、こうした博物館は、早歩きで見て、それでも目に留まるものがあればゆっくり眺めることにしている。残念ながら、そうした掘り出し物は見つからなかったため、時間より早く出て、ドナウの河岸でのんびりした。横ではシェパードを連れた少女がアイスクリームを頬張りながらたたずんでいる。田舎のドナウとアイスクリームを持ったハンガリー少女、といったテーマがふと頭に浮かび、頼んで写真を撮らせてもらった。
バスは続けて北上し、一路ハンガリー王国の発祥地、エステルゴムを目指す。途中、アドリアンヌが、「ここが、建設が中断したダムの跡です」というので目をこらすと、対岸から土手が張り出しているのが見えた。何気ない土手であるが、これが1977年にチェコ・スロバキアとハンガリーの協定を受けてスタートした大規模なドナウ改造計画の一部、ナジマロシュ・ダムの残骸である。両国政府による壮大な計画は、直ちに環境保護の観点のみならず、工事自体にも欠陥があることが判明し、1984年以降、特にハンガリーの環境団体(ドナウ・サークル)を中心にした建設反対運動が盛り上がることになる。社会主義政権下での反政府運動として画期的なこの運動は、結局革命後の1989年、1956年革命以来という大規模な大衆集会の後に、新政権による工事中止決定を勝ち取るのである。日本の感覚で見れば、とてもダムを造るに適したとは言えない、平坦地の穏やかな流れであるが、その背後にはこうした民衆運動の歴史が隠されているのである。そこからしばらく行くと、対岸はチェコ・スロバキアとなり、ドナウは約200キロにわたり、両国の国境を構成する。その上流のチェコ・スロバキア側のダム建設計画は、革命後の今もまだ工事中止の決定はされていないという。
エステルゴムに着いたのは、お昼ちょっと前。896年、ドナウ流域を征服、定住したマジャール族は、10世紀に至り神聖ローマ帝国との争いが続く中、国家の存続のためにはキリスト教に改宗するしかないことを悟り、時の支配者ゲーサ公の息子パイクが、ここエステルゴムで改宗し、ローマ法王から王冠を受ける。時は1001年、彼はハンガリー王国初代の王、イシュトバーン一世となり、エステルゴムを都とした。こうしてこの町は、13世紀半ばのモンゴル族の侵入まで240年に渡ってハンガリーの首都となる。加藤の本を片手に、この古都を散策するのは気持ちが良い。丘の上に立つ大聖堂へ。ハンガリー最大のこのバジリカは、イシュトバーン以来、ハンガリーのキリスト教の総本山である。イシュトバーンにより建設された古い聖堂を一部として、19世紀に立て直されたものであるが、トルコに破壊されながらも辛うじてその面目を留めている美しいビザンチン風ドームが印象的である。バジリカの裏の丘の上に立つと、心地よい春の陽射しのもと、ゆったりと流れるドナウが一望できる。対岸はチェコ・スロバキア。ふと気がつくと、チェコ側に向かって伸びている橋げたが見える。「第二次大戦で破壊されたままになっている橋です」とのアドリアンヌの説明。「何で、戦後補修されなかったの?」という私の質問に、彼女は肩をすくめて、「橋を造っても何の効用もないからよ」と答える。戦後の東欧社会主義国家間の難しい関係の一部を垣間見た気がした。
川沿いのレストランで、運転手を含めた6人で一緒に食事をした後、人気のない町を30分ほど散歩してから帰途についた。昼食時のワインの余韻もありうとうとしている間に、車はビシェグラードの要塞跡へと登っていく。1335年、時のハンガリー王のローベルトは、この町でポーランド王、ボヘミア王、そしてザクセン王などのドイツ諸侯を集めた「ドナウ・サミット」を開催する。要塞跡の丘への道を登りながら、この要塞でのサミットの様子を想像したが、後で分かったのは、サミットが行われたのはここではなく、河沿いにあり、新たに発掘された城であったという。ハンガリーがトルコに占領される前の最後の黄金時代を築いたマーチャーシュ王によって完成されたこの城は、その後のトルコの支配の時代に土砂に埋もれ、20世紀になり初めて発掘作業が行われた。しかし、歴史を感じるのに、別に正確なその場所に居る必要もない。ドナウ・ベントを見下ろすこの要塞でも、ドナウ・サミットの音を十分に夢想することが可能である。帰りの飛行機の中で知ったのだが、丁度この週末、ポーランド、チェコ・スロバキア、ハンガリーの三国による、EC対応のための会議がブダペストで開催されていたという。新聞では、まさにこの1335年以来の「ドナウ・サミット」と紹介されていた。
こうしてビシェグラードを最後に、私たちはドナウを巡る旅から帰途についた。絶好の天気の下、ガイドのアドリアンヌの助けを得ながら歴史を堪能し、5時過ぎにホテルへ着いた。車の中でうとうとしたせいか、疲労感は全くない。休む暇なく、東京への絵葉書を二通書き、そのまま夜の部へ繰り出した。
この日の夜は、私としては珍しくクラシック・コンサートのチケットを購入してある。リスト・フランツ(ハンガリー人の名前は、日本と同様、姓、名前の順に書く)を始め、ウィーンで活躍した幾多の音楽家を生んだこの国でクラシックを聴くのも乙なもの、ということで、「A PESTI VIGADO」というコンサート・ホールで行われるモーツアルトの演奏会を予約したのである。まずは腹ごしらえ、ということで、6時半にホテルを出て、会場のあるブルシュマルティ広場へ。晴れ渡った空のもと、河の対岸、丘の上の王宮に今まさに夕陽が沈んでいくのを眺めながら、外に並べられたテーブルに腰を落ち着け、ビール、グーラシュとシュニッツェルを注文した。ところが、次第に暮れていくドナウの夕べをのんびり過ごしていると、突然後方の席から、大きな声が聞こえた。周りの人々が、皆顔を向ける中、アメリカ人の若い男と、レストランのウェイターの口論が始まったのだ。アメリカ人が「俺はライスとポテトなどとってはいない。」と言うのに対し、ウェイターは「620フォリント払ってくれ」と押し問答しているのである。挙句の果て、ウェイターがアメリカ人の胸倉を掴み、レストランの中に引きずり込む。中で大声が聞こえたかと思うと、また出てきて言い合っている。アメリカ人が英語で叫びまくるので、私にも理解できる。どうも、50フォリントのチャージの違いが、喧嘩の原因らしいが、真相はともかく、どっちもどっちという感じである。アメリカ人は、店の陰で殴られたらしく、その後もしばらく抗議を続けていたが、30分ほどで収まり、あたりには静寂が戻った。と同時に7時半になったので、私も席を立ち、50メートルほどのところにあるホールに向かった。
ホールはすでに正装した男女で溢れていた。古い建物であるが、内装は近代的。私のコンサートが開催されるのは小ホールであったが、例えばロンドン、サウス・バンクにあるホールと比較すると、大きさはQueen Elizabeth Hall とParcel Roomの中間位、内装はこれらよりもりっぱである。ホテルでカジュアルな服装で良い、と確認してきたにもかかわらず、セーターと皮ジャンの服装はやや肩身が狭かった。
コンサートは、まずオーケストラのみの演奏で、シンフォニー201番A長調。映画「アマデウス」でもイントロに使われていたモーツアルトの代表曲である。指揮は、Drahos Belaという小太りのおじさん。音楽はともかく、第一バイオリンの、おでこの女の子と第二バイオリンのジプシー風の女の子がそこそこ可愛い。30分ほどの演奏後、休憩を経て第二部へ。今日のメインのミサ曲C単調のため、男女20人ずつのコーラスが加わり、それに男女2名ずつのソリストが登場する。一時間程度のこのミサ曲の中心は、ソプラノのおばちゃんである。反面、男性ソリストの出番は少なく、特にバリトンのデブおじさんは、最終楽章のコーラスまで手持無沙汰にステージの上で座っている状態。こういうのは自分だったら耐えられないな、などと考えている内に演奏は終了した。
ホールを出て、まずペスト地区のメイン・ショッピング・ストリートであるバーツィ通りを歩いてみた。もちろん商店はすべて閉まっているが、人通りはまだ多く、時折大道芸人が手品などをやっている。街並みは洗練されており、あえて言えばフランクフルトよりよほど都会的である。そして、夕食をとった川岸に戻ってきた時、その景観の美しさにはっと息を呑んだのだった。対岸の左から、ゲレルトの丘、王宮、そしてフィッシャーマン要塞とマーチャーシ教会が夜の中、薄いオレンジの光で浮かび上がっているのである。もちろんヨーロッパの歴史的な建物の多くは夜、こうした美しい照明の化粧を施されている。その結果、テムズ河沿いもマイン河沿いも、それぞれの趣があるのは確かである。しかし、ここブタペストの夜景は、こうした町にない素晴らしさを持っている。丘の上で照らされるそれらの建物は、あたかも映画を見るように我々の視界に飛び込んでくるのである。やや冷えてきた夜の空気を忘れ、私はこの景色を脳裏に刻むべく、しばし河岸に佇んでいたのだった。
(4月19日)
最終日も7時前に自然に目が覚めた。今日は朝9時半に、一昨日キャンセルした市内観光で、ようやく町の全体を見ることができる。それまで時間があるので、昨日の夜景を思い浮かべながら、ブダ地域のもう一つの高台、ゲレルトの丘に行くことにした。直ちにタクシーに飛び乗り、丘の頂上まで10分、500フォリント。頂上には、第二次大戦で戦死したソ連兵を追悼する記念碑があるが、おそらく1989年の革命時に削られたのであろう、塔の正面には僅かにそこに何か書いてあった痕跡が残っている。1989年を境にした時代の変革を想像しながら、一層開けたドナウと王宮の眺めを堪能し、その後歩いて丘を下った。中腹にある伝道者ゲレルトの像の下を抜けて、エリザベス橋の麓を経由、折から通りかかったタクシーをつかまえてホテルへ帰った。
チェックアウトを済ませ、今日は間違いなくピックアップに訪れたミニバスに乗り、昨日と同じ集合場所へ。ホテルからミニバスに同乗した老夫婦が英語を話していたので声をかけると、イングランドは、Henley on Thamesからであるというので、久々の英語の世界に浸ろうと、観光バスの中で、彼らの近所に席をとった。ふと見ると、この市内観光の案内は、昨日我々を案内してくれ、別れ際に再会を約したアドリアンヌである。早速の再会を喜びながらも、今日は英語で説明してくれと頼みこんだ。
バスは、国会議事堂の横を過ぎ、マリギット島を右に見ながらドナウを横切り、まずブダの王宮へ。一昨日と打って変わって、暖かい日曜日。旧市街はたいへんな人である。アドリアンヌの説明をドイツ語と英語の双方で聞くと、ドイツ語の部分も相当理解できる。前述したこの丘を巡る歴史も、この時の彼女の説明である。しかし、既に訪れた場所であったため、混雑したマーチャーシ教会は避け、集団から離れ、一人で要塞の椅子で日向ぼっこをしたり、店を覗いたりしながら、所定の時間にバスに戻った。続けてバスはゲレルトの丘へ。パンフレットにはここが入っていなかったため、今朝行ったのだが、残念ながらこれは無駄になってしまった。しかしここにも次ぎから次にバスが訪れ、私が早朝に訪れた時のような静寂はもはやそこにはない。そこからバスはようやく対岸に戻り、まだ私の知らないペスト地区へ入っていく。エリザベート橋を渡る際に、アドリアンヌが、右に見える橋について、「この橋は、今は自由橋と呼ばれていますが、歴史の中で、例えば、フランツ・ヨセフ橋、ムッソリーニ橋等々、いろいろ名前が変わってきました」と、やや自嘲気味に説明する。そう言えば、通りや広場の名前が、古い日本語のガイドブックとホテルで貰った地図とで違っていることが多い。体制の変化による地名の変更という、政治的命名に想いを馳せると共に、旅行者にとって何よりもそうした変更は不便である、等と考えていると、ここは1989年革命の前後で名前の変わっていない英雄広場に着いた。
広場の中心には、マジャールの族長アルバートを始めとする、ハンガリー中世の英雄たちの像に囲まれ、天使像が高く天に伸びている。広場の両側は、向かって左が国立美術館、右が特別展用別館。今日の午後の最後の訪問場所と考えているところである。写真だけ撮ってバスに戻る。あとは共和国通りを出発点に向け戻るだけである。天気の良い休日の午後とあって、市民公園の中にある遊園地や動物園はたいへんな人出である。写真でよく見るブダペスト最大のクア(温泉)も、この公園の中にある。オペラ・ハウスやセント・ステファン大聖堂等を車窓から眺め、午後1時過ぎに市内観光は終了。アドリアンヌの親切な説明と心配りに再度感謝し(彼女に習ったハンガリー語:クソーナム・セーパン=有難う、ビソント・ラタッシュラ=さようなら)、英国人の老夫婦と昼食をとることにした。天気が良いので外でとることもできたが、彼らが「マティウス」というレストランが美味しいと聞いた、と言うので、エリザベート橋のたもとにあるそのレストランへ行った。ケラー風のレストランは、今回の私の旅の中では、最も豪華なレストランである。それでもビール2杯に、前からこの町で食べたかったハンガリー風ロール・キャベツである、トルトットカーポスタ、そしてカプチーノを注文して占めて1000フォリント。相変わらずリーゾナブルな値段である。
午後3時頃、老夫婦と別れ、1894年、ヨーロッパ大陸で最初に完成した地下鉄に乗り英雄広場へ戻り、美術館を訪問した。この国がハブスブルグの一部であったことを示すかのように、ベラスケスのマルガリータ像や、グレコ、ムリリョ、ゴヤといったスペイン絵画、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・エイク等のフランドル派、そしてデューラーやクラナッハといったドイツ、オーストリア系等々、なかなかのコレクションである。旅行の最後の時間をゆったりと満足した気持ちで過ごした後、地下鉄とタクシーを乗り継いでホテルに戻った。またホテルのピックアップでトラブルがあったが、もうこっちは慣れたもの。催促に次ぐ催促で、飛行機の出発1時間前には空港に着き、午後6時50分、予定通りフランクフルトに向けて出発した。
ハンガリーは最早西欧の一部である。いや、むしろ東欧ブロックの中にこの国を押し込んできたこと自体が全く不自然であったと言った方がよい。更にこの国は、言葉を始めとして、他の東欧諸国とは少し異なっているように思える。おそらくそれはこの3日間の滞在時に学んだ、ハプスブルグの影響を強く受けながらも、他方でそれとは一線を画してきた民族的伝統によるところが多いのであろう。そうした独立心と、そして大国の狭間で生き抜いてきたしたたかさが、ソ連の支配下の東欧で最も発展した経済と文化を創り出す原動力になったのであろう。とは言いつつも、この旅行記の中で何度も触れたとおり、社会主義下の過去の痕跡が完全に消えた訳ではないし、また西欧諸国と比較すればその生活水準の低さは歴然としている。私の今回のヨーロッパ滞在の間に、この国がどれだけの変化を示すかというのはたいへん興味深いし、また私自身の仕事の中でも、それに何とか関わっていきたいと痛感した。
1992年4月25日 記