ドナウ河紀行
著者:加藤雅彦
実家の本棚を整理していた時に、この新書を見つけたが、これが既に読んだ本なのかどうか、定かでなかった。1991年という出版時期と内容を考えると、すぐに読んでいておかしくない。しかし、私の読書リストには、同じ著者の中欧がテーマの2冊は入っていても、この新書は記載されていない。それでは念のためにもう一度目を通しておこう、と読み始めた後、ふと思い立ち、昔書いたハンガリー旅行記(別掲ご参照)を見たところ、1992年のこの旅行に、この新書をガイドブック替わりに持っていった、と明記されている。そうかやっぱり読んでいたか、と納得し、1992年の書評一般を見たところ、確かにその際に評も書いていたことが判明したのだった。恐らく、HPを作成した際、同じ著者の他の2冊は掲載したものの、こちらはやや通俗的ということで、省いてしまったようである。読書リストに関しては、よく見ると1998年頃に作成を始めたようで、実際に90年代前半に読んだ書籍は全く記載されていなかった。
ということで、NHK記者として、ベルリン、ボン、ベオグラードに駐在した後、中欧の専門家となった著者のこの作品は、再読であることが分かった後は読み飛ばすことになった。このドナウを遡行する旅については、別に宮本輝の通俗小説「ドナウの旅人」があり、これもフランクフルト駐在時代に、よく客との話題に使ったが、こちらはもう少し歴史的・時事的である。但し、まさに冷戦終了直後の希望に満ちた時代の中欧、しかしユーゴを筆頭に、次なる時代に向けて大きな不安要因も頭をもたげてきていた時期の中欧で、今から見ると、「結局中欧は復活しなかった」と言えなくもない。そうした古さも意識しながら、ここでは1992年に記した評を再録しておこう。
著者の作品としては「中欧」関係の新書2冊に加え、1991年に読んだ「ライン河紀行」があるが、これは後者と同じ構成で、ドナウ河を下りながら、沿岸諸国の歴史、民族、文化を解説している。ライン河が一つのドイツ文化を作ってきたように、ドナウ河は、ドイツ圏を貫くもう一つの大河として中欧ドイツ圏の文化を作ってきたといえる。しかもそれが、旧東欧諸国も貫流しているが故に、戦後はまさに鉄のカーテンで引き裂かれた河となり、その歪んだ歴史をも目撃してきたのである。著者は、この河にまつわる歴史をある時は中世まで遡り、またある時は戦後の現代あるいは近代に焦点を当て、魅力的に描くのに成功している。
ドナウは、その源流を南ドイツ、シュバルツバルドに発し、ヨーロッパ大陸唯一の東西に流れる河川として、2800キロに及ぶ旅に出かける。その源流は、分水嶺を挟みライン河の源流と向かい合い、また地下水脈を通じラインの源流ボーデン湖にも流れ込んでいるという。まさにヨーロッパ大陸はこのドナウとラインにより、北海から黒海まで分割されていると考えるのは、なかなか愉快な想像である。
ドイツからオーストリアに流れ込んだドナウがまず出会う歴史は、バッハウ渓谷を中心に17世紀末から花開いたバロック建築の数々である。16世紀のトルコの来襲、ドイツ農民戦争、17世紀のボヘミアの暴動、30年戦争、ペストの蔓延、そして再度のトルコの来襲と200年に渡る内憂外患の時代の後、自信を回復したハブスブルグの威信が示されたのが、メルク修道院に象徴されるオーストリア・バロックの建築物なのである。続いてウィーン。1814年から15年のウィーン会議と、それに続くメッテルニヒの反動体制のもとで、享楽的生活に息抜きを求める市民のエネルギーが、粗野な農民ダンスのレントラーと伝統的な宮廷ダンスのメヌエットを、ウインナ・ワルツに高めていく。「ウインナ・ワルツで初めて公の場で男女が抱き合うことが認められた」というのは、私から見るとあのスノビッシュなオーストリア宮廷文化の隠された一面である。同様にあのシュトラウスの「美しき青きドナウ」が、1866年の対プロシア戦争に敗れた後の沈滞した時代の作品であるというのも、やや意外であった。
オーストリアの歴史といえばもう一つ、著者の年来の主張である、ハプスブルグ帝国を中心とする文化圏としての「中欧の復活」が取り上げられなければならない。この書物においても、多民族からなるコスモポリタン国家としてのハプスブルグ帝国が熱っぽく語られることになる。第一次大戦後の弱小民族国家の運命が、再度述べられると共に、「ドナウ・ネットワーク」としてのプラハ、ブダペスト、クラカウ、トリエステ等の諸都市の文化的同一性が説明される。こうした多民族文化の象徴が、世紀末ウィーンに花開いた種々の学問的、芸術的運動であり、著者はこうした一連の動きはむしろ「中欧世紀末文化」と呼ぶべきと主張する。まさに「中欧とは文化である」のである。
ウィーンを越えたドナウは「ポルタ・フンガリカ」からハンガリーの大平原に流れ込む。河の左岸はチェコスロバキア。鉄のカーテンがあった時期は、ここから緊張感溢れる東側に入ることになる。チェコスロバキア最初の都市ブラチスラバまで、ウィーンからたった1時間。ウィーンはそれほど東欧に近く位置していたわけである。
チェコスロバキアの歴史の栄光は、14世紀、カレル大帝時代のボヘミア王国である。そして歴史的にはハンガリーの支配下にあることが多かったスロバキアに対し、ボヘミア王国の伝統を受継ぐチェコは、その豊かな資源を背景に先進地域として発展する。そしてこの歴史の違いが、ユーゴスラビアほどではないにしても、この両地域の民族的対立をもたらしているのである。
一方ドナウ河は、このチェコスロバキアからハンガリーに至る地域で、1977年以来進められている、ダムと水力発電所を中心とする河川改造計画の問題に巻き込まれる。ハンガリーの民主化の結果として1989年5月、30%まで進んでいたこの環境破壊計画は中止の閣議決定を受ける。他方、ほとんど工事が完成していたチェコスロバキア側はより深刻な状況に陥っている。ハベル大統領の民主政権も、まだこの膨大な投資を注入したプロジェクトの運命を決めかねているという。全長2800キロを超えるドナウのたった150キロの問題が、ユーラシア大陸第二の河川を環境的に葬ってしまうかもしれない、というところに国際河川の難しさが端的に示されていると言える。
チェコスロバキアとの国境を後にハンガリー領に入ったドナウが突然大きく南に進路を変えるのが、ハンガリー王国発祥の地エステルゴム。そしてそのまま「ドナウの真珠」ブダペストへ流れ込んでいく。19世紀末から20世紀初頭にかけ、オーストリア・ハンガリー二重帝国の一方の首都として、その年としての景観、機能を大きく変貌させた町。欧州大陸初の地下鉄が完成したのも、この時代のブダペストである。そして第一次大戦時にこの国を中心に盛り上がった「ドナウ連邦」構想。ハンガリーは地理的にもドナウの影響を最も受けてきた国と言える。
続いてドナウが流れ込むのは、「バルカンの火薬庫」ユーゴスラビア。中世においては、コソボの戦いが象徴しているように、ヨーロッパとトルコの勢力争いの舞台となり、近代に入ってからは、「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1つの国家」という状況が、数々の紛争を生んできた。現在の内戦の中でいがみ合う2つの共和国、セルビアとクロアチアの境界をドナウが形作っているのも皮肉である。
こうしてドイツ、シュバルツバルドから流れ出したドウナは、その最後の旅に入る。ブルガリアとルーマニアの国境約471キロを作った後、今度は旧ソ連とルーマニアの国境を約134キロ流れ、そしてドナウ・デルタで3本の分流となって黒海に注いでいくのである。ドウナ・デルタの町、ソ連領のイズマイルは、この2800キロに及ぶ流れの河口で、ソ連のドナウ支配の拠点となったという。確かにこの8か国を貫流する国際河川は、流通面でも、また軍事面でも限りない重要性を有している。戦後、スターリンがいち早く「国営ドナウ航行会社」と、東側の沿岸国からのみ構成される「ドナウ委員会」を設立したのも、この河の持つ戦略性を看破したからである。言い換えれば、この戦後の歴史のみならず、ヨーロッパ南西部を巡る歴史は、この河の流れに深く刻印されているのである。同じヨーロッパの国際河川でも、ライン河が、基本的にはゲルマンの世界を貫いているのに対し、ドナウはゲルマン、ラテン、スラブ、アラブ、マジャール等、種々の民族的、文化的伝統が、ある時は融和し、またある時は抗争するのを目撃してきた。その異質な文化の出会いこそが、著者が度々主張する「中欧文化」であり、鉄のカーテンが消滅した今、まさに新たな可能性を生み出す基盤となるものである。河の旅行記に留まらない文化論として、この本は、これからのヨーロッパを見る際の重要な視点を示唆している。
以上が、1992年の時点で書いた評であるが、最後にこの本で取り上げられている中欧諸国とその幾つかの話題の現状を簡単に補足しておこう。
まず、この本が書かれた直後の1993年、チェコスロバキア共和国は、チェコとスロバキアの2つの共和国に分離された(「ビロード離婚」)。その後内戦が泥沼化していったユーゴと異なり、この別離が全く平和裏に行われたのは、この地域がそれなり民主主義の歴史を持っていたことが主因であったと言われている。
別掲の「ハンガリー紀行」でも、そこを訪問した時の印象を書いたナジマロシュ・ダムについては、ハンガリー側がダムの建設を中止した後も、チェコスロバキア側は「暫定的解決」としてハンガリー側に計画していた堰を自国内に移すなどして、単独で堰堤と貯水池、運河からなる「ガウチーコヴォ水利施設」を完成させる。その結果、ドナウ川主流の水流のほとんどがこの運河に流れ込むことになり、一部の沼沢地域の景観が変わるなどの弊害が生じることになったという。そして、その後もこの工事を巡るハンガリーと(既に分離した)スロバキアとの対立が続き、1993年、欧州共同体の仲介で、それぞれの損害の補償を求める訴訟が、国際司法裁判所に提訴され、1997年の玉虫色の判決を経て、現在に至ることになる。ハンガリー側の建設工事跡は、1992年の旅行で私が見た時のままで現在も残っているようである。
そして最後に、著者が期待した「中欧の復活」、あるいはドナウ共和国であるが、その後も、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーによる「ヴィシェグラード・グループ」は地域協力機構として連携は深まっているようである。しかし、大きな流れとしては、この「中欧連合」の拡大・深化というよりも、欧州全体への統合、なかんずく通貨同盟としてのユーロへの参加を各国が競うような状況になってきているように見える。
現時点(2014年4月)で28カ国が加盟する欧州連合に関しては、中欧諸国、あるいは旧東欧諸国としては、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブルガリア、そしてバルト3国の11カ国が参加している。しかし、通貨としての「ユーロ」が導入されているのは、この内、スロベニア(2007年参加、以下同様)、スロバキア(2009年)、エストニア(2011年)、そしてラトビア(2014年)の4カ国にとどまっており、実態としては、これら中欧諸国のユーロ参加への道はまだまだ険しいというのが実情であろう。例えば、ハンガリーは、2008年以降、EUやIMFの支援を受け財政赤字削減等の「ユーロ移行策」を進めてきたが、2010年、与党が前政権による財政赤字粉飾疑惑を発表したことから、ギリシャ等と同様の債務破綻懸念が飛び火し、フォリントが急落、更なる欧米国際機関の支援と管理を強化されることになった。2012年、新たな構造改革計画を公表し、現在はそれに基づく施策を進めているようであるが、その後欧州債務危機は、より経済規模が大きいユーロ圏諸国の問題、いわゆる「GIIPS」諸国に注意が向けられ、ハンガリーの状況は、少なくとも市場の関心の外に置かれることになった。その他の国では、ポーランドはユーロ参加のためには憲法改正が必要で早くても2015年以降になるとの見込み。チェコは、現時点ではユーロ導入時期については全く目途がついていないようである。
こうして見てくると、1989年のソ連崩壊以降高まった「中欧ユーフォリア」は既に過去のものとなり、むしろグローバル化した経済環境の下、いかに着実に経済・社会・生活水準等で、西欧諸国との距離を埋めるかという地味な課題が、現在の最も大きな関心になっているようである。
しかし、もちろんハプスブルグという近代の大きな文化帝国の伝統は一朝一夕に消え去るものではない。これから再びシンガポールでの生活に戻る私にとっては、これらの国は益々遠くなってしまうが、それにも関わらず、一つの大きな文化圏の中にあり、共通の歴史を持ちながら、その中で「モザイク状」の多様性が交錯するこれらの地域は、アジアを見る際にも大きな示唆を与えてくれるであろう。こうして20年以上前に読んだこの作品をここで再読したのも、そうした意識を改めて抱かせてくれたという効用があったと考えている。
読了(再読):2014年4月23日