中欧の崩壊−ウィ−ンとベルリン
著者:加藤 雅彦
著者の作品としては、私にとっては3冊目に当たるが、この作品の発表は3冊の中では最も早い1983年であり、この章の最後に取り上げる中欧の復活のプロロ−グとして位置付けられるものである。ここでのテ−マは、第二次大戦後、人為的に分断された中欧都市の象徴としてのウィ−ンとベルリンの物語である。かつてハプスブルグ帝国の帝都として、帝国の近隣都市であるブダペスト、プラハ、クラコフ、トリエステ等との共生関係の中で繁栄したウィ−ンは、戦後、鉄のカ−テンがこの共生関係を切断したことにより、政治的にも、文化的にも凋落の一途を辿った。ドイツ帝国の首都として19世紀末にその繁栄のピ−クを迎えたベルリンは、戦後、悲劇的な都市自体の分断を余儀なくされる。こうした2つの中欧都市の運命に託し、著者は20世紀のこの地域全体の運命を語っていくのである。
ウィ−ンの歴史は、巷に溢れているハプスブルグの政治的興亡史ですでに語り尽くされている。ボヘミア王オトカルとの抗争に始まり、17世紀の宗教戦争とオスマン・トルコとの攻防、そして中世を通じてのブルボン家、近世のホ−エンツォレルン家との確執を経て、第一次大戦の最中、帝国が最終的に崩壊するまでが、実質的なウィ−ンの時代である。「中欧は文化である」と言う著者は、この歴史の中でのそれぞれの時代の特徴的な文化に特に焦点を当てているが、ここではその文化の流れだけを押さえておこう。
その文化の最初の高揚として、物語はまず17世紀末のバロック建築の時代から始まる。一世紀半にわたるトルコの脅威とプロテスタントとの激しい戦いの後の、自信と安堵の表現であるバロックは、ベルベデ−レ宮を始めとする、きらびやか装飾に彩られた建築の数々を残すことになる。
この町の第二の繁栄は、ナポレオン戦争の終結と共に訪れたビ−ダ−マイヤ−時代である。「マリア・テレジアに始まった改革の挫折と、その後の反動的な政治体制の反映」であると同時に、「市民社会の安定した生活への満足感の表現」でもあるこの文化は、素朴さと安楽を重視する家具調度と、音楽、観劇、舞踏会の流行を生むことになる。
1857年、時の皇帝、フランツ・ヨ−ゼフの暗殺未遂事件が契機となり、ウィ−ンは新たな都市改造の時代を迎える。この都市の象徴であった城壁の撤去と外堀の埋立に、20年にわたる未曾有の建築ブ−ムが続くことになる。ベネチア様式、ギリシャ様式からゴチック様式に至る様々な建築が、この時代のウィ−ンの象徴である。
しかしこうしたウィ−ンの繁栄も長くは続かない。対イタリア戦争と対プロシア戦争に立て続けに敗れ、オ−ストリア帝国の凋落は誰の目にも明らかとなる。こうした雰囲気の中で、断末魔のように、世紀末ウィ−ン文化が高揚していくのである。
大陸全体のペシミズムが、より顕著に示されたこの時代のウィ−ンの文化は、私の旧来のヨ−ロッパ文化史への関心の中でも大きな比重を占めながらも、どちらかというと、断片的な知識を持つに留まっていた、というのが正直なところである。1873年の株式市場の暴落に続く経済不況という時代背景は、今の日本を彷彿とさせるものがあるが、その中、社会風俗的にはオペレッタの流行として、芸術的には、救いのない憂鬱、諦観に彩られたホフマンスタ−ルやシュニッツラ−の文学として時代精神が現れてくる。同時にこうした時代を鋭く批判するカ−ル・クラウスやフロイトの精神分析学、その絵画的表現であるクリムトの諸作品、あるいはシュムペ−タ−、ハイエク(経済学)、ヒルロ−ト、ヤウレック(医学)、マッハ(物理学)等、あらゆる分野における革新的モダニズムが現れてくるが、こうした文化的爛熟の社会的要因として、著者は、社会的危機という背景に加え、ユダヤ系民族を始めとする才能ある人々のウィ−ンヘの集中、そして世界でも類のない多民族間の混血の進捗による文化的多様性を挙げている。そしてそうした文化的多様性はまた伝統的な文化基盤の喪失と、それに対し危機感を抱く民族主義的心情を促すことになる。ヒトラ−がこの都市で青年期を過ごし、また同時にその夢を破られたことが、後の歴史に皮肉な運命をもたらすことになるが、この歴史はドイツ文化を理解する上でも重要である。
ウィ−ンがその衰退期に入っている頃、逆に都市としての勃興期にさしかかっていたのがベルリンである。1701年から1871年まではブロイセンの首都として、それ以降は統一ドイツの首都として発展したベルリンは、世紀の変わり目にその文化的成熟を迎えるが、ワイマ−ル期に、丁度ウィ−ンがそうであったように、社会的混乱の中で最後の高揚を経験し、そして戦争と戦後の分断の中で衰退していくのである。
ベルリンの歴史に先立って、著者はプロイセンの特殊な形成過程を概観している。そもそもプロイセン王国は、ハプスブルグ帝国の辺境伯であるブランデンブルグ伯が18世紀初頭プロイセンを征服し成立したが、この際、被征服地の名前を統一国家に採用したものである。これによりハプスブルグ帝国外でのみ許される「王」の称号を便用することができた、というのがこの理由である。しかし、こうしてプロイセン王国が、領主、民族、歴史といった自然的条件を基盤として成立した国家ではなかったことから、プロイセン独特の性格、即ち人為的な統一を確保するための官僚制と軍隊組織を必要とすることとなった。そしてこの性格が、プロイセンのイメ−ジとしてより一般的に知られることとなったのである。
しかし、他方でこうした官僚制の発達は、近代的な法意識を生み出し、後のドイツ統一の大きな原動力となった。同時に国家への忠誠さえあれば宗教は問わない、という「プロイセンの寛容」という、当時としては画期的な国家倫理を打ち立てた。こうした合理主義に基づく新興国家の中心となったのがベルリンであった。
このベルリンの第一の文化的繁栄は、ナポレオン戦争の最中から後に至る時期に訪れる。それはまずナポレオンによる占領時のフィヒテ演説に象徴されるナショナリズムの高揚と、それを受けたナポレオン失脚後のロマン主義文学の降盛である。しかしウィ−ン体制下の言論弾圧と急速な産業化の進展によりこの時期も短命に終わり、その後半世紀以上にわたりベルリンは経済的繁栄のための生産力の蓄積に注力するのである。
普仏戦争の勝利と、それに続くドイツ統一により、ベルリンの飛躍的発展の時期が訪れる。ビスマルクによる都市改造計画により現在でもベルリン最大の繁華街であるク−ダム大通りが誕生し、そこを中心に未曾有の建設ブ−ムがおこる。ジ−メンス、ベンツ、I.G.ファルベンといった、後のドイツを代表することになる企業が創立されたのもこの時期である。そして第二次大戦に至る40年弱の間に産業、軍備、その他の分野でドイツは時の最強国イギリスと並び、あるいは追越すところまで成長していくのである。
この時代、文化的にもベルリンは「世界都市」ヘの成長を遂げていく。今日のベルリン・フィルの前身となるオ−ケストラや、リヒャルト・ストラウスが率いるベルリン・オペラが設立され、発展していく。絵画の世界では、ムンク展への賛否を契機とするベルリン分離派やノルデの「ブリュッケ」、カンディンスキ−の「ブラウエ・リヒタ−」といった表現主義の萌芽が生まれ、ブラ−ムとラインハルトは伝統演劇中心であったベルリンの演劇界に衝撃を与えることになる。こうした新しい動きは、言うまでもなくその後のワイマ−ル期に、社会的混乱と不安が渦巻く中、最後の絢爛たる花を咲かせる伏線となったのである。
このベルリン最後の高揚たるワイマ−ル時代については既に第七章で詳細に見てきたことから、ここでは繰り返すことはしない。ディ−トリッヒ、フルトベングラ−、ワルタ−、シェ−ンブルグ、グロピウス、ブレヒト等々の名前と共に、この時代の栄光と悲惨は既に十分に語り尽くされている。そしてこの「モダン・カルチャ−の実験場」が成立した諸要因をあえて整理してしまうならば、それは諸民族、諸文化の混交に最終的には起因するものであったと言えるのではないだろうか。ハブスブルグのウィ−ンが諸民族の優秀な知性と感性を集めたところから花開いたように、20世紀初頭のベルリンの文化は、ウィ−ンの凋落の後を引継ぎ、中欧の諸民族を引き寄せるところから出発したと言えるのである。もちろん、こうした民族の混交のためには、政治・経済の中心としての都市化が進むことが必要案件であるが、この2つの都市の歴史が物語っているのは、中欧のそもそもの多民族性故に、一度文化的中心が誕生すると、そこには多民族の文化的混交が集中的に至現するということである。そして同時に、この2つの都市は、第二次大戦後、政治・経済的に没落したのみならず、より根源的には、冷戦構造の中で、この多民族性という最大の待徴を奪われてしまった。この点にこそ「中欧の崩壌」のより象徴的な姿が現れている。即ち、「中欧とは文化である」以上に、「中欧とは文化の多民族性、多様性であった」のである。
冷戦構造の崩壊と共に、今や中欧における文化的多様性が復活した。現在までのところは、ユ−ゴスラビアやチェコスロバキアでの遠心化の動きとしてのみ、この傾向は水面上に姿を現しているが、今後文化面においても新たな動きを生ぜしめるであろうことは間違いない。新たな文化的多様性の可能性が甦った今、それがどこで、またどういう政治・経済的文脈からどういう形で現れるか、引き続き注視していく価値は十分あると思われる。
読了:1992年6月3日