中欧の分裂と統合−マサリクとチェコスロバキアの建国
著者:林 忠行
この本は、ハプスブルク帝国の崩壊を、チェコスロバキアの建国に焦点を当て描くと共に、昨年2つの共和国に分裂したこの国の民族問題の背景をも示そうとするものである。そのために著者が方法論としてとったのは、モラピア出身で、ウィ−ンで学んだマサリクが、いかにチェコ人としての民族意識に目覚め、独立運動を指導していったかを追いかける方法である。それにより、中欧の小国が、ヨ−ロッパ秩序の中で、如何に脆弱であるかということのみならず、またやり方によっては力のバランスを利用しながら自己実現することが可能かという正負の両面を浮き上がらせるのである。
マサリクの生まれた環境が、早くもこの国の民族的、言語的複雑さを物語っている。父親はスロバキア人、母親は、チェコ人ではあるが、それ以上にモラビア人という意識が強く、しかし言語は、ドイツ語を使用していた、という。その結果、当時のハプスブルク帝国内では珍しいことではなかったが、ト−マスを始めとするマサリク家の子供は、母親とはドイツ語で、父親とはスロバキア語で、そして友人とはチェコ語のモラビア方言で話をしていたと想像される。チェコでは、18世紀後半にチェコ語の初等教育が、そして1860年にはチェコ語の中等教育が行われていたが、マサリクの時代は、まだドイツ語の教育の方が、レベルが高く、また19世紀末にはまた、民族主義の台顕に対抗する意味での「ドイツ化」も活発に行われていたという。その才能を認める支援者を得て、まずブルノにあるドイツ語の古典学校に入学、そこを反抗児として退学させられた後は、ウィ−ンの古典学校、続いてウィ−ン大学哲学部で学ぶことになるが、その過程で彼は次第に民族主義に目覚めていくと共に、こうした文化的ごった煮の中で養ったバランス感覚が、後年、むしろ当初は反チェコ民族主義的と非難された冷静な状況分析を可能にしていくのである。
1979年、29歳のマサリクは教授資格を取得するが、ウィ−ンでは、正教授のポストの可能性はなかったことから、1882年、プラハ大学に赴任する。ここから彼の政治活動も開始されるが、決して彼が凝り固まった民族主義者として出発したのではないことは重要である。教師として、学生の信頼を得ると同時に、評論誌を創刊し、彼から見るとまだ権威的な大学当局の雰囲気に批判的に立ち向かっていくが、特に1885年以降、チェコ民族神話についての手稿の真偽を巡る論争で、彼はむしろチェコ民族主義に反対する立場を採ったのである。後年の民族国家建国の父が、この民族主義に反対することから、その政治的な活動を始めたというのは興味深い。
この時代、ハプスブルク帝国内での民族主義が盛り上がる中、チェコ人も、1879年に議会に復帰し、議会内の共同会派を構成し、民族の権利の漸進的な改善を目指していた。しかし、どこにでもある話であるが、チェコ議員団の中は、穏健な多数派の老チェコ党と急進的な青年チェコ党が路線を巡り対立していた。こうした状況の下、新しい新聞「チャス」に依拠するマサリク達はこの両者の双方に反対すると共に、その影響力をもって、既成政党を引き寄せる、という戦略にでた。このあたりは、世界に遅れて冷戦終了後の変革期にさしかかった今の日本の連立の動きを彷彿とさせる。日本新党という、第三勢力に選択を突きつけられた自民党統一会派は、新生党という青年自民党が日本新党になびき、結果として老自民党は野党に転落する。マサリク達の動きはこれと瓜二つであり、結果的に1891年の帝国議会選挙で青年チェコ党が老チェコ党を打ち破ると共に、マサリクも初当選することになる。しかし、二年の政治活動を経て、1893年には彼は議員を辞職、大学教授としての著作活動に戻っていくが、この時代を著者は、「精神史」の手法により、マサリクが、自らの理念を明確にしていった過程と見る。彼が再び政治の表舞台に登場するのは、1900年のチェコ人民党の創立からである。この年、マサリクは既に50歳になっていた。
政界に復帰したマサリク並びにその党派が最初に取り組んだ事件が、手稿事件と同様、チェコ・ナショナリズムに反対するユダヤ人問題である「ヒルスネル事件」であったことは、ここにおいても、マサリクが非合理で性急な民族主義を排そうと考えていたことを示しているが、結果的にはこうした良識は、民衆の支持を遠ざけることになったという。それでも、この事件での活躍により、マサリクの名は帝国の範囲を越えて広がり、特にユダヤ人社会の中で好意的に受け止められたことで、後年彼の独立運動が、ユダヤ糸のマスコミで大きな支持を受けることになった点において、重要な意味を持ったのである。同様に1908年の「ザグレブ裁判」事件は、バルカンにも彼の名を広めることになる。
第一次大戦の勃発後、ハプスブルクが弱体化するにつれ、チェコの置かれた立場は微妙になっていく。そもそも、チェコの政治家は、青年チェコ党の党首クラマ−シュを始め、ドイツ、ロシア等の列強の狭間で生きるにはハプスブルクの傘の下に入るのが最も賢明であると考えていた。マサリクも当初はこうした考えを共有していたが、大戦中に英国を始めとする欧州の友人達との議論の中で、独立実現に傾いていったという。それは、今年のスロバキアの独立と同様、機を見るに敏感な政治家の仕事であった。マサリクが考えたのは、戦後のハブスブルク解体の中で、英国とフランスの支持を得て、ロシアに対するバランス確保を目指すという方法であった。ベネシュやシュチェファ−ニクといった有能な活動家を得て、大戦下彼は主として国外での独立運動の組織化に奔走する。英仏との政治的取引の材料として使用されたのは、連合国側のチェコ人捕虜からなる「チェコスロバキア軍団」の編成であったが、これは革命ロシアとそれに対する列強の干渉の際にも幾つかの波紋を投げることになる。
1918年のチェコ独立は、戦後の混乱の中で、丁度89年の東欧革命のように、突然行われたものであった。結局、民族主義とそれに基づく国家に常に否定的であったマサリクが、戦後の混乱の中で、社会にびまんした民族意識に押し流されていったのがチェコ独立であり、彼はその威信により、この社会意識を体現しただけといえるのである。しかし、その国家が、独立から20年後に新たな混乱の中でヒトラ−・ドイツに併合され、そして戦後は再びスタ−リンの鎖の中に押し込められたのを見る時、どうしてもそうした民族国家の脆弱性に思いを寄せざるを得ない。今年始め、チェコとスロバキアが分裂したのも、結局は冷戦後の熱狂の中で、単視眼的な社会意識が勝利したに過ぎない。長期的に見れば、それは決して最終的な解決ではない。著者はいみじくも、マサリクが「主権の相対性」や「相互依存」について語ったことを引用する。国際関係の現実を自覚することで、民族集団の中で自己抑制することを学び、そしてそれが共存の条件となる。独立以前のマサリクがチェコ人に示した批判精神がまさにそれであった。それを踏まえた上で、尚且つそれに巻き込まれていったのが後年のマサリクであったとすれば、マサリク後のチェコの歴史は、そのツケの返済であったといえる。そしてその返済が終了した時、再び歴史は繰り返し始めたのである。現在の不安定な世界秩序に思いをはせる時、またこの民族という過去の遺物がとんでもないことを仕組んでいるのではないか、という気持ちを禁じえない。
読了:1993年8月10日