アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第二節 中欧
中欧の復活−「ベルリンの壁」のあとに
著者:加藤 雅彦 
仕事でオ−ストリア関わり、また近い将来そこに近い地域での生活の可能性がある中でこの本を読了した。ベルリンの壁の崩壊と共に、第二次大戦後の冷戦構造の中でかろうじて生き永らえてきた「東欧社会主義」の歴史が終息した。そうしたポスト・ヤルタのヨ−ロッパ再構築の要となるのは、著者によれば「ミッテル・オイロ−パ(中欧)」という概念であり、この書物で著者はその政治的・文化的な共同体の形成を、歴史的な脈絡の中に位置付けようと試みている。

「中欧」とひと口に言っても、地域的には様々な解釈がある。オランダ、ベルギ−、ドイツ、スイス等も含んだ「大中欧」を指すこともあれば、現在のオ−ストリア、ポ−ランド南部、ソ連ウクライナの一部、チェコスロバキア、ハンガリ−、ル−マニア北西部、ユ−ゴスラピア北部、そしてイタリア東北部、即ち旧ハプスブルグ帝国の領域に限定することもある。しかし著者が注目し、且つ位置付けようとしているのは後者の中欧であり、従って、著者の中欧の探索は、必然的に旧ハプスプルグ帝国のアイデンティティ−を捜すことから始まる。

この地域を見る時にまず気付くのは、この地域の文化的・民族的多様性である。ゲルマン、スラブ、マジャ−ル、ユダヤ、ラテン、オリエント等、多くの民族・文化が交錯する中から、19世紀ウィ−ン文化に見られるような独特の文化を生み出すことになった。同時に、この地域は「バロック建築」あるいは「中世城塞都市」といった共通の文化的遺産を有している。前者の多様性は、一方でこの地域の政治的脆弱性をもたらすと共に、後者の共通性が、この多様性のある帝国のある種の求心力となっていたのである。

第一次大戦によるハプスプルグ帝国の崩壊は、この微妙なバランスを崩し、その後の中欧の歴史的悲劇をもたらした。即ち、G.ケナンが言うように、「帝国が崩壊し、各民族は独立したものの、独力でドイツやロシアの圧力に抵抗し、生活していく力を持っていなかった。」アメリカのウィルソン大統領が考えたような、国際連盟によるこうした民族主義的弱小国家の安全保障という発想は、ヨ−ロッパの政治に無知な者の発想であった。この結果、中欧はヒトラ−の膨張主義の中で新たな火種となり、第二次世界大戦が劾発。そして戦後は1945年2月のヤルタ会談を経て、中欧は鉄のカ−テンにより、二つに分割されることになったのである。

1989年の「東欧革命」により、戦後44年にわたったヤルタ体制は崩壊した。しかし重要なことは、この「東欧革命」により「中欧」概念の復活がおこなわれたのではなかったということである。ヤルタ体制は言わば、軍事力に裏打ちされた、勢力均衡論に依存していた。そして、それは戦後の冷戦構造の中での核抑止論へと受け継がれていった。しかし皮肉なことに、軍事技術の高度化に伴う核抑止力の低下が、逆にこうした勢力均衡論に対する不安を醸成することとなった。西独の社民党や緑の党の反核論は、結局のところ核戦争が勃発すれば、被害を受けるのは自国である、という不安から出発したものであるが、同時にそれに代わる秩序として、中欧の中立化という概念が提示された。一方でアメリカの力に依存していても西欧の安全が保障されないという不安、他方でソ連においても、こうした戦力均衡論が意味を持たず、そのための軍拡競争のコストも無駄であるとする合理的思考の拡大。この両者があいまって、まさに今回の「東欧革命」が発生したのであり、その意味において、この「中欧」概念は、今回の政治革命の結果ではなく、むしろ原因であったのである。

90年代のヨ−ロッパの政治・経済・文化状況を見ていく上で、こうして復権された中欧の動向が大きなテ−マの一つとなるであろうことは疑いない。もちろん、それは決して「諸民族の牢獄」であった旧ハプスブルグ帝国の秩序をそのまま受け継ぐものではありえない。しかしこの帝国が、19世紀に既に、「超国家的あるいは超民族的な理念が存在していたという意味での先駆性」を有していたという点は過小評価されるべきではない。ユ−ゴにおけるクロアチアとセルビアの血を血で洗う抗争は、ヤルタ後の中欧の新たな政治的不安定を示していると言えるものの、一方で1978年に結成された「中欧」中南部の地域協力機構である「アルペン・アドリア」(加盟は、国単位ではなく、行政地域単位であり、オ−ストリア4州、ユ−ゴ3共和国、イタリア4州を正式メンバ−とし、オブザバ−として、オ−ストリア1州、ハンガリ−:2州、イタリア1州、ドイツ1州が加わる)は、交通、エネルギ−、農林業、水利事業、観光、公害、自然保護、文化、レジャ−、学術等多方面にわたる地道な協カ活動を行っているという。また1990年8月にイタリア、オ−ストリア、チェコスロバキア、ハンガリ−、ユ−ゴの5カ国でスタ−トした中欧サミット(通商「ペンタゴナル・五角形」)には、今年になりポ−ランドが正式加盟、名称も「ヘキサゴナル・六角形」と改められ、冷戦後の中欧の政治的な枠組みと経済協カを議論する恒常的な機構を目指している。こうした政治的な連携の強化と草の根の協力活動が、次代の秩序を形成していくのは確かであり、EC統合や統一ドイツの動きと共に、今後の欧州全域の行方に決定的な影響を与えることになろう。

(追伸)
この書物を読了した直後、正式にドイツ・フランクフルト赴任の内示を受けた。「ドランク・ナッハ・オステン(東への衝動)」という言葉に表わされているとおり、ドイツはロシアと共に、歴史過程で度々中欧諸国への進出・侵略を繰り返してきた。中欧諸国にとっては、ドイツは西の大国であり、経済的な依存関係にあると共に、常に政治的安定に対する脅威ともなってきた。中欧の復権を展望する際、今や政治的にも経済的にも再び超大国として現れつつある統一ドイツとの関係を抜きにして語ることはできない。

もちろん、EU統合も今後は英国とフランスの主導権争いに、間違いなくドイツが参加してくるであろう。そしてソ連の変貌も、ドイツの関わり方により、大きく影響を受けることになろう。このように、90年代のドイツは、ヨ−ロッパの将来を規定する多くの要素を有しており、この時期にドイツに滞在し、この動向を目撃できることの意義は大変大きい。このチャンスを生かすひとつの方法として、こうした読書を通じての頭と体験の整理・統合を続けていきたいと考えている。

読了:1991年7月6日