ユーゴスラヴィア現代史
著者:柴 宣弘
1996年5月出版、1946年生まれの東大大学院教授(当時)による旧ユーゴスラヴィアの現代史である。旧ユーゴについては、この新書でも取り上げられている「自主管理社会主義・非同盟外交」というチトー時代が、丁度私が旧東欧地域に関心を持った学生時代に重なり、対ソ連での独自姿勢を持つこの国に強い興味を抱いたものであった。当時、そうした政策を取上げた著作も幾つか読んだ記憶がある。しかし、ソ連崩壊に伴い、1990年代に入ると、構成共和国内での民族紛争が顕在化し、コソヴォ、クロアチア、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以降「ボスニア」)で悲惨な内戦が始まる。その頃ドイツに滞在していた私は、かつて「輝いていた」この地域がこうした混乱に陥ったのを苦々しく眺めると共に、その後内戦の収束以降は、特に当時のセルビア側指導者に対する国際裁判所での訴追を除けば、この地域についての報道はほとんどなくなってしまったこともあり、私の関心も薄れることになってしまった。そしてこの新書も、出版時点が、この内戦末期であることから、この地域についての、そうしたその後の最新情報は含まれていない。しかし、学生時代を含め、私が詳しく知らなかった第二次大戦前のこの地域の歴史を含め、依然厳しい緊張下にあるこの地域の歴史を、久し振りに確認することができた。それは、現在は、ウクライナやガザでの戦争の影に隠れているが、またいつか再び勃発してもおかしくない地域の問題を再認識する機会になったのである。
7世紀頃にこの地域に定住した南スラブの各種民族は、近代に入ると、ハブスブルグ帝国とオスマン帝国の支配下に入ることになるが、著者は、まずはこの両帝国による地域支配の実態から記述を始める。この両帝国は、中央集権的帝国であったが、広大な支配地域に対しては、民族的にも宗教的にも一定の自治を認めていたことから、こうした各種の民族性が維持されることになった。そしてそれは同時に、この地域に多様な民族や宗教が混在化したまま現代に至り、それらの間の軋轢があるきっかけで爆発する要因にもなったのである。
この両帝国の支配下での地域の反乱等が紹介される。その中でも特に19世紀初めから始まるセルビアによるオスマン・トルコへの反乱とその過酷な弾圧を経ての「独立」が特記される。またモンテネグロは、オスマン・トルコ支配下でも、その山岳地位としての特性から、「一定の税を納める貢納国」として相対的に「独立」した状態を保っていたようである(因みに最近、この国の新たな首相として、埼玉大学卒業生が就任したという報道がされていた!)。そしてマケドニアは、セルビア人、ブルガリア人、トルコ人、ギリシア人、アルバニア人が混在したことから、他の地域以上に民族意識の覚醒が遅れ、実際1913年の第二次バルカン戦争の結果、近隣のギリシア、セルビア、ブルガリアの3国に分割されてしまったという。
他方、ハブスブルグ帝国支配下のクロアチアとスロヴェニアであるが、前者は中世に独立国家であった歴史もあることから、国民統合意識は強かったようである。しかし、オスマン・トルコの支配を嫌うセルビア人の移住もあり、近代に至り域内のセルビア人人口も増え、それが1990年代の内戦になっていく。またスロヴェニアはそうした独立の歴史はないものの、地域人口におけるスロヴェニア人の比率は高く、それが内戦を避けることができた理由であるとされる。そして残るボスニアであるが、この地域はオスマン・トルコが支配していたが、19世紀末反乱が拡大し、それを受けた露土戦争の結果、1978年にハブルブルグ帝国に移行することになる。しかし、正教徒のセルビア人、カトリックのクロアチア人、そしてモスレムが混在する人口構成から「ボスニア人」という意識の形成ができず、それが結局1914年のサラエヴォ事件に繋がっていくことになるのである。しかし、こうした複雑な宗教・民族構成にも関わらず、19世紀末から「南スラブ統一を目指す動きも現れ、まずはセルビアとクロアチアの連携などを通じて、第一次大戦後の統一国家(「第一のユーゴ」)の成立に至ることになる。
この「第一のユーゴ」の成立に当たっては、第一次バルカン戦争(1912年)でオスマン・トルコ(バルカン半島から撤退)に、そして第二次バルカン戦争(1913年)でマケドニアを巡る近隣諸国との戦争で勝利を収めたセルビアが核となるが、そのセルビアは、ボスニア等を支配するハブスブルグ帝国との緊張を高めることになる。ただこの時点では、ハブルブルグ帝国の枠組みを崩してまで、南スラブ統一国家を形成するところまでは考えていなかったとされる(「三重帝国」の模索)。しかし、1914年、サラエヴォでの暗殺事件(日付は、中世セルビア王国がオスマン軍に敗北した「屈辱的な」コソヴォの闘い(1389年)と同じだという。暗殺者が、その日を選んだのかは、ここでは触れられていない)を契機に第一次大戦が勃発。そしてその大戦でハブルブルグ帝国が崩壊することで、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人がまとまった形での立憲君主国としての南スラブ統一の動きが強まり、大戦後の1918年12月、セルビア王国の摂政アレクサンダルを国王とする「第一のユーゴ」が誕生するのである。
しかし、歴史も民族、言語、文化や宗教も異なる社会を、国王をシンボルとして統合しようという試みは簡単には進まず、特にセルビアの集権主義勢力とクロアチアの連邦主義勢力の対立が顕在化していく。セルビア人国王はその独裁色を強め、他方それに反発するクロアチアでは、後にナチスと連携するウスタシャといった極右勢力が力を増していくことになる。
そして第二次大戦の勃発とナチスによる地域の占領、そしてそれに対するパルチザン戦争の評価に移る。1990年代の地域の再分割を考えると、戦後一時期は「神聖化」されていたこの時期が相対化され、現代の評価としては、この戦争は、@占領軍や対敵協力者からの解放を求めるゲリラ戦、A民族相互の内戦、そしてB社会変革の性格の3つの側面を持っていたとされる。特に、Aの「戦争協力者」ウスタシャや連合国寄りのセルビアのチェトニクとの「内戦」という側面は、引続きこの地域の民族対立が反映していたことを物語っている。大戦中、人口7百万人のこの地域での死者は170万人に及ぶとされるが、そのほとんどが、「ポーランドの場合と異なり、ドイツ軍の手で殺害された犠牲者は少なく、大部分がセルビア人とクロアチア人との『兄弟殺し』によるものであった」というのも悲劇的であった。当然それもあり、ナチス占領下でロンドンに亡命した政権内部でもセルビアとクロアチアの対立が続くことになる。
そうした中でチトー率いる共産主義勢力が、当初は独ソ不可侵条約の存在から抵抗運動を控えていたが、独ソ戦開始と共に統一的な動きを強め、同時にソ連はチュトニクを支援したことから、戦後のソ連との関係に亀裂が入ることになる。その結果、この戦闘により「民族や宗教を基盤とした偏狭な社会関係が大きく変質した」一方で、その後の歴史は、そうした「パルチザン精神」が「戦後の社会主義社会でも国民すべてに共有され得ず、ユーゴを取り巻く国際環境が緩むにしたがって風化していき、それを食い止める方策を打ち出せなかった」という評価が下されることになるのである。
1942年11月、チトー(両親はクロアチア人とスロヴェニア人)が開催した第一回ユーゴ人民解放反ファシスト同盟(AVNOJ)が戦後のユーゴの体制の基礎となり、ここでは国内の「諸民族の完全な同権」が認められ、戦後の1946年1月新憲法の制定で「第二のユーゴ」が建国されることになる。1948年のコミンフォルムからの追放(この直接のきっかけは、ユーゴとブルガリア間で、スターリンに知らせることなく、勝手にドナウ諸国関税同盟構想を推進したことであるとされるが、ブルガリアのディミトロフは、スターリンに頭を下げたが、チトーはそれを拒否したということであろう)と他のソ連・東欧社会主義国からの断絶により、自主管理と非同盟外交というその後の戦略が策定され、且つ対ソ連での国の一体感が維持されることになった。しかし、それが1980年のチトーの死去以降、1981年の「コソヴォ事件」や80年代の「経済危機」等により再び流動化し、特にソ連の崩壊、東欧のソ連圏からの離脱を契機に、再びこの地域の分裂に至ることになったことは言うまでもない。この過程で、「連邦の再編か国家連合か」を課題に「第三のユーゴ」を模索する動きもあったという。しかし、最終的には、スロヴェニアやクロアチアの独立に至る。セルビアを中心にチトー批判も起こり、また彼に粛清された政敵が復権したというのも、終わりのない歴史の連鎖を想起させる。かつて私も学生時代に大きな興味を抱いたこの時期の統一ユーゴとその独自の社会主義は、一時期の夢と消え去ったのである。
以降は内戦の展開に移り、特にボスニアでの三民族が入り乱れ、国際社会も戦闘に介入した悲惨な姿が描かれるが、これは良く知られている話がほとんどなので省略する。そしてこの新書の出版時点では、取りあえず激しい戦闘は収まっていたものの、その後の展開は見えない状態のまま記載は終わることになる。
内戦の過程では特にセルビアが「悪者」となり、ハーグでの国際裁判でも、ミロシェヴィッチ元セルビア大統領等、セルビア関係者が責任を追及される事態となる(ミロシェヴィッチは、判決前に死亡したが、ボスニアのセルビア人指導者カラジッチは、逃亡の末逮捕され、終身刑を言い渡され、英国で服役しているという)。著者は、内戦時はどの勢力も非人道的な数々の行為を行っており、セルビアだけが責めを負う訳ではない、という立場を取っているが、それについての個人的見解は、情報が限られていることもあり、留保させてもらう。ただ、足元は、ウクライナやガザでの戦争で、ほとんどメディアで語られることのないこの地域の現状が気になるところである。
この地域は現状、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアの6共和国となっているが、コソヴォは、2008年に独立宣言を行い、国連加盟国193か国中(日本を含む)110か国の承認を得たが、自国内の自治州と主張するセルビア等の反対があり、依然国連には加盟できていない。他方、EU加盟については、2004年にスロヴェニアが、2013年にクロアチアが加盟を果たし、現在モンテネグル、北マケドニア、そしてセルビアも加盟申請を経て候補国の地位を得ているという。そう考えると、取りあえずコソヴォ問題を除けば、この地域の軋轢は収まり、「第三のユーゴ」という方向ではなく、「EU内での関係強化」という方向で安定しているようである。特にスロヴェニアやクロアチアは、最近私の周りでもコロナ後の国際旅行解禁でこの地を訪れる計画を立てている友人がいる、という話も聞いているので、それなりに情勢は落ち着いていると考えられる。しかし「歴史は繰り返す。」この地域が新たな紛争のきっかけになる可能性は残っており、EU等国際社会が、今後これを回避できるかどうかは引続き大きな課題であろう。
そんなこともあり、今回この新書で紹介されていたユーゴ制作、あるいはこの地域に関連する映画で、まだ観ていなかったものを探してみようという気になっているのである。
読了:2023年12月1日