ユ−ロの野望
著者:横山 三四郎
前回「ユ−ロ」に係る新書を読んだ時期よりも、為替マ−ケットでは更にユ−ロが堅調に推移している。ユ−ロの中核を占めるドイツ経済は引続き軟調で、8月に東独を襲った記録的洪水対策の特別支援予算もあり、財政赤字は、その許容限度に張り付き、またこの本の読了後の9月22日に行われた総選挙でも、辛うじてSPD/緑連合が政権を維持したとはいえ、SPDとCDU/CSUの得票率は全く互角であり、これからの政策運営の難しさを示すことになった。そしてこうした状況は、程度こそやや軽いとはいえ、もう一つの中核国フランスでも同じである。それにも係らず、ユ−ロが堅調なのは何故か。
そもそもファンダメンタルズ的には、EU15カ国の人口3億7500万人は、アメリカを1億人上回り、日本の3倍。GDPはアメリカと略同じで、日本の倍。教育水準は高く、消費性向も高いことから、ドルと並ぶ基軸通貨としての条件を保有している。そうした中で、かつては冷戦の狭間に位置しているという地理的・政治的なメリットを享受し、経済パワ−を維持してきた日本は、バブルが崩壊し失速。アメリカとの関係も「バッシング」から「パッシング」を経て「ナッシング」と言われるまでに弱体化した。経済パワ−を失った日本が、政治的にも凋落し、世界はドル/ユ−ロの二大通貨を軸に展開しつつある。
足元のユ−ロの堅調を理解するには、1999年1月の導入時からのユ−ロ為替の推移を見る必要がある。導入直後、1ユ−ロ=1.19ドルの高値を付けた後、ユ−ロは軟化し、99年7月には1ドル、2001年には0.85ドルの安値を付けることになる。
これは導入時の期待感によるユ−ロ買いが、バルカン紛争、ロシアの政情不安、ドイツの政権交代等により弱まったこと、そして何よりも米国ITバブルによるドルへの資本移動の結果であった。しかし米国の「ニュ−・エコノミ−・バブル」が崩壊した今、日本経済同様、欧州経済もその影響を受けるとはいえ、それ以上に、ユ−ロのファンダメンタルズに資本の関心が集中し始めていると言える。
ユ−ロによる国際資本移動の影響について、著者が指摘している象徴的な出来事がある。私も市場の真っ只中にいて、ありありと覚えている、1997年7月のバ−ツ危機である。タイがドル・ペッグを放棄したのが7月2日。1日前に、EMIの総裁に、後の欧州中銀総裁含みでドイセンベルグが就任している。それまで不確実視されていたユ−ロが誕生の見通しがついたことと、アジアからの資本引上げは決して偶然ではなかったと言う。やや強引な議論ではあるが、中期的にはこの流れは間違いなく強まっている。そしてITバブルの破裂、テロ懸念に、企業会計不信という要因が加わった米国経済の失速を受け、資本は90年代後半とは逆に、今や米国から欧州へと流れ始めているのである。
こうしたドル離れが、所謂機軸通貨国の「通貨発行特権=シニョリッジ」を薄めている。
米ドルの流通量が2000年末で約5300億ドル、これに対し国内での流通量が2800億ドル弱であるため、この差額については非居住者からの投資分であり、これを米国政府は運用に回すことによりスプレッドを抜くことができる。ユ−ロの国際通貨としての拡大により、米ドルのこうした特権が弱まっている。また外貨準備高における主要通貨の比率を見ると、1070年代は米ドルが70%以上を占めていたにも係らず、90年には50%へ下落。マルク17%と円8%が追い上げた後、日本が失速し、1997年には米ドル57%、マルク他欧州通貨20%、日本5%となっている。欧州各国が保有しているドルは今後不要となり、中国を含めた途上国の外貨準備がユ−ロにシフトすることを考えると、ドルの地位が低下するのは確実である。
冷戦の終了により、資本主義世界の首領であった米国は、今や唯一の超大国にして世界経済の牽引車となったが、実は資本主義世界の中における地位は、むしろ弱まっている。冷戦のくびきから開放された欧州は、新たな戦略をもって、独自の政治・経済圏を作り始めている。ユ−ロはまさにこの動きの象徴であり、それ故に、通貨としての潜在力を有しているのである。
この書物では、以降、ユ−ロ導入までの経緯、その基礎である欧州統合の経緯、ユ−ロの次の展望としての「欧州市民の創出」、ユ−ロと英国の特殊な関係、そして最後に日本への影響を概観しているが、この辺はほとんど復習の世界であるので詳細は省略する。しかし、丁度これを書いている10月始め、コペンハ−ゲンでのEUサミットで東欧、地中海諸国10カ国の2004年EU加盟が略確定したとの報道が届けられた。歴史は確実に前に向かって進んでいる。ユ−ロ導入により、最早後戻りできなくなった欧州は、次なる目標に向かって走り始めている。欧州に長く滞在したものとして、この欧州の変化は、これからも常に追いつづける課題である。疲弊の淵にある日本の将来像を再編成する上でも、この課題の意味はなくならないことは確かである。
読了:2002年9月13日