アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
ヨ−ロッパ市民の誕生
著者;宮島 喬 
 欧州統合の現状を、構成員の市民意識という角度から分析した作品である。著者の名前は、ドイツ滞在時に読んだ編集物で目にした記憶があるが、まとまった作品を読むのは始めてである。社会学者として自ら相当の期間欧州に滞在し、直接いろいろな市民にインタビュ−した結果を踏まえた、実感に基づくミクロレベルでの欧州統合論である。

 キーワードは「シティズンシップ」で、著者はこれを「人々の共同体との具体的なかかわり方、つまり意識、文化、アイデンティティなどを含めた関係の持ち方」として使っていく。近代国家の下でこの概念が考えられてきた要素を、@平等な成員資格、A意思決定への参加保障、B社会的保護と福祉の保障、C共同体への公認の帰属、D義務の履行、E共同体の正統性の観念の共有、とすると、過去10年の欧州ではBが進み、Aが部分的に外国人にも開かれ、Cの一元性が緩み、そしてEが伝統的・文化的正統性から契約的な正統性に移行するという変化が見られたとする。そしてこうした流れを、従来からの欧州系住民並びに移民・外国人を含めた個人意識の中に探っていく。特に欧州は、20世紀の2回の大戦とその過程での悲惨な経験を経て、国家の枠組みを見直す必要に迫られたが故に、このナショナル・アイデンティティの再構成は当然にして模索されなければならなかったのである。

 欧州統合の一つの効果として、バスクやサルディニア、あるいは南チロル等の独自文化とその復活を分析したものは多いが、著者はこれを新たな「シティズンシップ」の登場という観点から分析する。また移民労働者については、一時滞在労働者から一市民として受入れる方向性をこの枠組みで眺めていく。更に性や家族についての新たな形態(非法律婚や同性カップル等)の受容や女性の権利(議会におけるパリティの議論等)拡大もこうした流れの一部と考えていく。

 まず地域文化の復活については、整理のため、ここ数10年の間に「自治」又は「連邦化」が認められた地域を改めて確認しておこう。スコットランド、ウェ−ルズ(イギリス)、カタル−ニャ、バスク、ガリシア(スペイン)、コルシカ(フランス)、フランデレン、ワロニ−(ベルギ−)、アルト・ア−ディジェ(南チロル)、ヴァッレ・ダオスタ、サルディ−ニャ(イタリア)、ジュラ(スイス)等。これは「国家−国民の関係に単純に一元化されない、多層シティズンシップの成立」と位置付けられるが、特に、ベルギ−やスイスにもこうした動きが広がっていることが私にとっても新たな情報であった。また、従来からの議論にあるとおり、これらの動きが、「民族自決ナショナリズム」という「分離独立」を目指す政治的動きではなく、経済的及び文化・言語の権利要求が中心の動きであること、そしてそれが地域言語を正統なものと認める所謂「言語立法」を通じて確立してきたこと確認しておけば充分であろう(著者は1章を割いて、カタル−ニャのケ−スを詳述している)。

 戦後欧州の移民は、@経済再建のための労働力(ドイツ、フランス等)、A旧宗主国からの受入れ(英国、フランス、オランダ)、そしてB戦後の引揚者(ドイツ)と難民(各国)に分けられるが、特に@とAの移民に、「地域社会のなかで家族と共に暮らす定住者」として、外国人であることのハンディを減らす対応が必要とされた。重要なことは、フランスでは、移民第二世代による「平等のための行進」といった運動の結果、就労を前提としない滞在ビザの更新が導入されたと報告されているが、こうした変化が一般的に移民側からの圧力で起こったというよりも、むしろ「上から」の判断が決定的であった、と著者が考えていることである(特にオランダでの参政権付与のケ−スを指摘している)。

 更に文化的取扱いも、こうした移民に対し、従来の同化政策から多文化容認型に変化してきた。もちろん、私が90年代初頭のドイツで経験したように、現実の場面では、この多文化容認が従来からの国民の不安を一時的に増加させる事態も発生している(フランスの「スカ−フ事件」は有名であるが、英国ブラッドフォ−ドでのパキスタン系モスレムを巡る「ハニフォ−ド事件」は80年代初頭、私の滞在時の事件であるが、当時は全く知らなかった)。著者は、英国の社会学者J.レックスの「多文化社会」=「公的領域での平等と私的領域での行動の多様性の保障」という規定を引用しているが、同時にハニフォ−ド事件のように度々問題の発生する教育分野が、現実にはこの境界にまたがる複雑な営みであることも認めている。

 ここで著者は、「デニズン」という概念を紹介する。スウェ−デンの学者T.ハンマ−の規定によれば、これは「永住者的地位、居住、移動、就労の自由などを獲得し、しばしば選挙権のみを欠いているような外国籍市民」ということになる。欧州主要国でのこうした外国人人口を見ると、やはりドイツの734万人(2002年)が圧倒的に大きく、続いてフランス326万人(1999年)、イギリス268万人(2001年)、イタリア136万人(2001年)と続く。

 こうしたデニズンは、言わば居住地と出身地の二重性に引き裂かれた人々ということになるが、帰化という形での解決は、二重国籍を前提とする以外はあまり取られていないという。それでも欧州における「国籍」概念は、血統主義的なものから出生地主義へと変遷してきており、ドイツでさえ1995年5月、出生地主義を取り入れた新国籍法が成立している、という(これも私の滞在時の話であるが、余り意識していなかった)。

 それではこうした外国人に、具体的にどのような権利が与えられてきたのか?言うまでもなく、まずそれは労働・滞在権の長期化という形で始まり、続いて住宅保障、そして地方参政権と進んできた。特に参政権は、スウェ−デンやオランダを嚆矢に導入され、1985年には欧州議会も支持の意思表示を行うに至っているが、一般的には外国人人口が増加し、彼らを社会的に統合する必要が高まった時に実現されるケ−スが多いという。

 他方フランス等では、市民の権利平等という思想から、二重の市民構造を作ることに反対する議論も根強いという。むしろ容易な国籍取得を通じて、完全な市民権を行使できるようにするべき、というのがその根拠である。日本でも一部に見られるこの議論は、むしろ国籍取得というモティベ−ションそのものを議論の俎上に乗せることになる。また地方参政権の認められている国でも、外国人の投票率は低迷している、という問題もある。結局、外国人の「市民教育」という課題は、一般の固有市民の政治参加と同様、あるいはそれ以上に難しいという事実は否定できないのである。また外国人の中でも、特に女性の社会的適応の問題も、より厳しい現実を突きつけているという。後段の章で、著者はこうした外国人の市民権拡大の具体的な動きと問題を、ベルリン市やマルセイユ市のケ−スで報告しているが、第二、第三世代の若者のケ−スと第一世代に近い女性のケ−スとで実際の「市民化」の程度は大きく異なっているのが現実である。

 こうした外国人問題とは別に、固有市民の統合に伴う市民権問題も当然存在する(マ−ストリヒト条約8条による「連合シティズンシップ」)。統合により、自国の国籍を維持しながら、他国に長期間に渡り滞在する、著者の言うところの「EUデニズン」と呼ばれる人々は、イタリア、スペイン、ポルトガル人を筆頭に、15カ国で550万人(2002年推計)にも上ると言われるが、こうした国民国家の枠組みを越えた新たなトランスナショナルなシティズンシップは欧州独特の展開である。しかし、例えば域内移動と就労の自由が認められたことに伴い、年金の国外受給や加入期間の通算といった制度を整備する必要が生じている。また外国人問題については、EU市民であることを承認する権限は、依然国民国家が握っていることから、夫々の国の制度を共通化していく必要性が生じている。欧州市民としてのアイデンティティ確立と併せて、引続き統合の実験はまだ道半ばと言えるのだろう。

 最後のテ−マは、性や家族についての新たな形態を、「市民権」の中に如何に取り込んでいくか、という問題である。既にドイツ時代にゲイの同僚と働いた経験から、欧州でのそうした側面について、特段個人的な感情はないし、またそれを法的にどのように認めていくか、というのは別に欧州に限った話ではない。むしろ、ここでの議論で興味深かったのは、女性の政界進出に関わる「パリティ」の議論である。

 アメリカの「アファ−マティブ・アクション」の女性版である欧州の「パリティ」論議は、フランスで、女性の地位担当相による「正統候補者リストの一定率以上は女性でなければならない」という法案が、法の下の平等に違反するという憲法判断により廃案となった頃から盛り上がっていったという。まだ日本では全くといってよいほど議論の対象外にあるテ−マであるが、今後展開を注視する価値のある課題であろう。

 こうして「EUデニズン」を巡る議論は、域内右翼からの脅威に曝されながらも、またドイツでの難民規制のように、現実的な対応から表面的には一時的に退行しているかに見えながらも着実に進んでいる。

 これに対し、従来から国民国家としての統合力の強い日本については、むしろこれからの問題として、この欧州の経験が投げかけられる。著者は最終章で、日本における外国人(在日朝鮮人)や移民労働者の権利問題を簡単に指摘し、この欧州の現状とのギャップを示しているが、まさにこれは「日本人のアイデンティティとは何か」という問題に、これから我々が真剣に対峙しなければならないことを物語っている。欧州の経験をことさら強調するのは戦略上得策ではないにしろ、少なくともその知識が今後の議論の中で必要とされる時期が近い将来訪れるであろうことは疑いがない。私の滞在時期以降の欧州での動きをキャッチアップする上で、十分参考になった作品である。

読了:2005年1月20日