アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
大欧州の時代―ブラッセルからの報告―
著者:脇坂紀行 
 統一ドイツを通してEU統合を見た後に、改めてブラッセルからの視点で同じ対象を眺めると、どの様に映るのだろうか。私と同年齢で、2001年から2005年まで朝日新聞のブラッセル支局長を務めたジャーナリストによる欧州報告は、丁度アフガン、イラク、コソボ戦争に巻き込まれていった時期のドイツを、三島のような一つの理念を機軸にするのではなく、新聞記者特有の、より事実に近いミクロの視点から認識させてくれる。

 人口約100万人の小都市に、EU関係で生計を立てている人々が家族を含め約10万人。EUの首都は、首都であることを象徴する建築物もモニュメントもない町である。作家U.エーコらがアドバイザーとなって設計したそのコンセプトは、ブラッセルは「国際的な多言語都市として、異なるアイデンティティを持つ人びとが共生する町」である。
 しかし、そうした理想は、実務のレベルではたいへんなコストを必要とする。加盟国の増加に伴い、欧州経済共同体が発足した1958年に4つだった公用語は、2004年5月の中東欧諸国の加盟により一挙に20に増加。国連の公用語が6つであることを考えると、会議や文書の通訳・翻訳者だけでも2000年時点で夫々950人、2000人に及ぶというのも理解できる。「民主主義と言語尊重主義」というコンセプトのコストである。欧州大学院大学で学ぶ学生たちは、言わば将来の欧州人であり、多言語を当然のように習得する若者達であるが、英語がグローバルな力を拡大する中で、欧州はこれだけのコストをかけて固有の言語と文化を守る努力を行っているとも言える。

 EUの内閣にあたる欧州委員会は、現在はパローゾ委員長の下に、各国から推薦された24人の欧州委員が「閣僚」を構成し、その傘下で約2万人が、独立した身分保障のもとで勤務しているという。意思決定機関は、首脳会議、閣僚理事会、常駐代表委員会という各国代表からなる重層組織があり、その中でも閣僚理事会事務局長(現在はソラナ)は、EU共通外交の安保政策も担当していることから注目を浴びることが多いという。更に立法機関としての欧州議会、そして中央銀行や司法裁判所といった組織も整備され、夫々の機関が次第に存在感を示し始めているという。

 拡大EUの象徴は、2004年5月の、中東欧8カ国、及びマルタ、キプロスの計10カ国の加盟である(その内、バルト3国とスロバキア、スロベニアは、1ヶ月前の4月にNATOにも加盟している)。東西欧州の再統合という意味合いを持ったこの拡大以降も、セルビアやアルバニアを含めた他の東欧諸国の加盟交渉も進んでいる。

 加盟の具体的交渉は、欧州委員会の拡大総局と各国の専門家により、政治、経済から社会、環境まで31の政策分野で行われたというが、大枠で言うと、民主化と市場経済化への改革への「外圧」がEUの基本方針であるという。そしてその「外圧」を緩める「アメ」として加盟国にはEUによる、地域インフラ整備と農業関係の補助金が供与される。10カ国加盟後のこうした補助金予算は年300億ユーロに達するといい、「現代のマーシャルプラン」とも言われている。但し、ユーロの拡大については新規加盟国の経済ファンダメンタルズ整備の必要から慎重なスタンスをとっており、現在の予定では、2007年1月がエストニア、リトアニア、スロベニア、2008年1月にラトビア、キプロス、マルタが先行し、スロバキア、チェコ、ハンガリーはその後の位置付け、ポーランドについてはタイミングは示されていない状態であるという。もちろん、英国、デンマーク、スウェーデンもユーロには加わっていないことから、この新通貨の浸透に時間がかかるのは当然ではあるが。

 EUによる政策決定は、日本の企業活動にも大きな影響を及ぼし始めていると言う。2001年12月始め、ソニーのPSが、有害物質カドミウムを含有していると言う理由でオランダ政府による回収命令を受けた例に見られるとおり、EU基準に基づく規制が強化されている。特に環境と食料品等の安全対策は、ブラッセルから多くの規制が発信されており、欧州議会ベースでも環境政党の活動が強まっている分野である。当然、EUベースでのロビー活動を強化する経済界との調整には相応の時間を要するが(日本は、自動車、電機電子業界が中心になり「在欧日系ビジネス協議会」が活動中(その後、私が参加している研究会で、まさにこの時期に、経済産業省から派遣され、この組織の事務局長を務めた人間の話を聞く機会があった。「倫理的サプライチェーン」という、調達連関の中で、一定の労働条件を確保する、といった基準もEU内では一般的になってきているということであった。)。ブラッセルはワシントンに次ぐロビイストの町となった)、世界中でもっともこの問題にうるさいドイツを含むEUが、今後米国や日本、中国に様々な圧力をかけていくであろうことは疑いない。

 EU共通外交は挫折の連続である。既にユーゴ内戦時に、EU単独での調停・停戦に失敗したことは、大きな打撃であったが、続いて発生した2003年2月のイラク戦争を巡る協議も、米国支持の英国、スペイン、イタリア、そしてポーランド等の東欧諸国と、反米国のフランス、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグに分裂し、ソラナ上級代表はEUとしての統一見解を表明することができなかった。それに先立つ2002年12月に、ユーゴ問題での教訓を受けて最終文書が採択された、米国ネオコン学者との論争の中から生まれた欧州安保の長期戦略(ソラナ・ペーパー)が、イラク戦争で早くも試練に曝されたのである。

 そもそもこの文書の作成過程で様々な議論があったが、注目されるのは、まずイラクのWMD開発の確証が得られない状況下、「先制的関与」という表現が削られ「予防的な関与」に変えられたこと、及び独裁政権を打倒する「民主的介入」の代わりに「人道的危機への対応の必要性」が採択されたことであり、このコンセプトが米国の方針と一線を画することになったのである。

 国際社会での「法の支配」を確立するために、国連や国際機関との連携をうたった「効果的な多国間主義」もこの文書の特徴である。この理念に基づく対イラン外交は、イランがいったんウラン濃縮関連活動の停止に合意するという形で成果をあげたが、その後イランで強硬派のアフマディネジャド政権が成立し、新たな対応を強いられていると言う。

 国際司法裁判所(ICC)への積極的支援もまたEU外交の基本方針であるが、これは米国との対立が先鋭化した課題である。いったんクリントン政権が署名したローマ規定を、ブッシュは突然離脱して、逆に国連の場で、自国軍人がこの規定の適用外であることを確認する決議を可決させたという。米国との対立は依然続いているが、アルグレイブ刑務所問題等により、米国も次第に追い詰められていると言われている。

 2004年10月に、ローマで制定条約が調印された欧州憲法は、それまでの統合の歴史を理念的に成文化しようという試みである。ディスカール・デスタンが議長として取り纏めたこの憲法草案は、前文と4部448条及び38の付属議定書と50の付属宣言から構成されている。欧州連合か国家連合か、といった基本体制論から、共同体の民主的運営の確保といった技術的問題までが幅広く議論され、結果的には欧州大統領、欧州外相ポストの新設のみが注目を浴びることになったが、これがまとまったこと自体が大変な歴史的成果であったのは確かである。

 しかし、この憲法案は、その後、2005年5月、6月に続いたフランス、及びオランダでの国民投票で批准反対という結果が出たことにより、2006年11月までに批准を終えるという当初目標は凍結され、現在は展望が開けない状況になってしまった。フランスでの反対理由は、雇用問題とシラク政権への不満、オランダではより漠然とした国家主権喪失への不安や、憲法案そのものへの情報不足といった要因が中心であったという。しかし共通しているのは、エリート層の持つ統合への熱意を共有できない庶民の不満であったのは確かである。2005年10月末から11月にかけてフランス全土に広がった若者による放火・暴動事件は、移民労働者中心に、欧州人という基本コンセプトが危機に曝されていることを如実に示すことになった。そしてそこには、従来福祉国家主義的な社会保障を充実させてきた欧州先進国が、グローバリゼーションの中で、ある部分では弱者切り捨て策も取らざるを得なかったという環境が反映させていた。

 そもそも「リスボン戦略」と呼ばれるEUの社会政策は、EUとしての方針を出した上で、各国のイニシアティブによる国内施策を促す「裁量的政策調整」と呼ばれる手法で行われているが、グローバリゼーションの進展と失業の増大が、各国ベースでの施策を制約してしまっているのである。
 他方、EU拡大の観点からの最大の難問は、トルコの加盟問題である。穏健とはいえ、モスレム国家を共同体に受入れるかどうか、そしてその場合もEU拡大の限界をどこに置くか、旧ソ連を構成した国家の扱いは、等々。そこにも、エリートの理念的対応と庶民感覚には大きな溝ができつつある。

 著者は最後に東アジア共同体との比較に思いを馳せているが、これについては私も著者と同じように、絶望と希望の交じり合った思いを持っている。欧州の壮大な歴史的実験よりも、アジアはまだ半周以上遅れている。そうした中で、むしろ中国というスーパーパワーが、米国との間で心理戦を展開し、日本はその狭間で右往左往し、同時に北朝鮮という爆弾も抱えている。欧州では、良し悪しの議論はあるとしても、まずは理念が現実を引っ張ってきたのに対し、東アジアでは、理念がないところに、現実がどんどん転回していってしまっている。様々な努力は行われているものの、残念ながら東アジアでは、確かに現実が後戻りできないところまで進んでしまうリスクのほうが大きくなっていると言えそうである。私自身が業務で多少関係のあるアジア通貨や統一資本市場の育成といったテーマも、欧州における独仏枢軸のような強靭な推進力を欠き、域内覇権争いと米国のようなスーパーパワーによる干渉で遅々として進展しない。

 しかし、欧州でさえ、統合過程はすんなりとは進んできた訳ではない。ましてやアジアの政治・経済統合などは、それまでの比ではないくらい難しい課題である。「戦争の回避」という、欧州統合最初の契機を忘れず、アジア近隣諸国との外交関係を深化させれば、時間はかかるにしても、展望が見えない訳ではない。いつの時代にも夢があり、その夢を支える持続的な意思があれば、こうした欧州統合は、数万キロ離れた外国の実感のない世界の出来事ではなく、この地に生きる我々にとっての身近な出来事になる可能瀬はまだ残っている。それが欧州を離れ既に8年以上の時間を過ごした私の欧州統合を見るときに偽らざる気持ちである。

読了:2006年5月27日