アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
ああ、ヨーロッパ
著者:J.ハーバーマス 
 新年を日本で過ごすために出発する前日、かろうじて読了したのは、丁度1年前に邦訳が出版されたハーバーマスの最新評論集である。言うまでもなく今年は「ユーロ」問題に振り回された1年であった。ギリシャの財政懸念が、その他のスペインやイタリア等、より経済規模の大きな南欧諸国の財政不安に拡大し、年末にはついにユーロの中核であるフランスの国債格下げ懸念へと拡大していった。その背景には、統一通貨の流通にもかかわらず、財政政策は依然国家単位で決定されるというユーロの構造問題がある。2008年以降の、サブプライム・ローン危機から翌年のリーマン破綻に至る過程で、金融秩序の安定化という名目で、国家による銀行救済のための莫大な公的資金が投入されたことで公的債務が急増し、それが今度は国家単位での債務肥大懸念を招き、そしてそれがユーロのこの構造問題により、個別国家の問題からユーロ全体の問題に拡大していったというのが、その経緯であった。しかし、ユーロの経済力のラスト・リゾートとなっているドイツは、国民感情への配慮から、その直接的な救済にいっきに突き進むことが出来ない。それを理解しているフランスのサルコジも、いつもの彼のように強引に自説を主張することができず、メルケルへの配慮を隠そうとしない。そうして時間が消費される中、市場の攻撃は益々激しくなっていったのである。年末、マーストリヒトでのユーロ導入を決定した欧州条約から20年、メルケルの主張により、ユーロ圏諸国の財政規律を強化するための一般的合意が成立したところで、市場はクリスマス休暇に入ったが、いよいよまた年明けから再びユーロを巡る市場とユーロ圏諸国の戦いが始まることになる。その戦いの帰趨は、まだまだ予断を許す状況にはない。

 こうした欧州の厳しい状況が続く中、この現代欧州を代表する知性がこうした状況をどのようにみているかというのは、この翻訳が出版された直後から気になっていた。出版から1年、その間、統合欧州の混迷は深まりこそすれ、改善の糸口は未だ見つかっていない。その中で、少なくとも規範的な観点から欧州統合を支持してきたこの知識人がどのような切り口で議論を展開するのだろうか?

 しかし、実際読み始めて見ると、「ポートレート」と題された第一部は、ヨーロ問題とは関連がなく、且つその哲学的な議論故になかなか読み辛かった。何人かの現代の知識人たちへの追悼を中心としたコメントは、必ずしも私自身が対象となっている本人を知らないこともあり、あまり集中することが出来なかった。ただそこで唯一面白かったのは、そこで取り上げられているのが、典型的な欧州型知識人であり、ハーバーマスも同時テロの哲学的意味を巡る共著を出版したこともあるデリダに加え、ローティやドゥウォーキンといった、法哲学者で、ジョン・ロールズの影響を受け、サンデルの議論でも頻繁に言及される米国リベラル派の「コミュニタリアン」たちであり、ハーバーマスが彼らの議論に親近感を覚えていると思われた点である。別に今年読んだ仲正昌樹の米国政治哲学に関する本でも、今や哲学的議論を、欧州ではなく、米国の知識人がリードしている、というコメントがあったが、彼らはハーバーマス等の典型的な欧州型知識人とも確かに知的交流を持っていたことが確認できるのである。またこれらの議論の中で頻繁にハイデガーに対する厳しい批判(他方でギルケゴール等への共感)が繰り返されているが、これは老境を迎えたこの知識人が、自身の原点を改めて呼び戻そうとしているかのように思えるのである。ただこれ以上に、この肖像画の世界に留まる必要はない。第二部・三部で展開される彼の欧州論に移ることにする。

 ここではいくつかの興味深い論文が掲載されている。最初の「知識人の役割とヨーロッパ」という短い講演は、オーストリアの社会研究所の賞を受賞した際の講演である。この前半では、マス・メディアやネットの普及で、古典的な知識人の存在感は弱くなっているが、それでも「ことの重要性を感知するアバンギャルド的な感知力を有する」ことで、知識人は依然として必要であるという知識人擁護論が展開されているが、それは特段注目すべき論点ではない。しかし、後半に、この講演が行われた2006年3月時点での、そうした「知識人」的な視点から見たヨーロッパの将来という論点が短く提示されている。それは「もし2009年の欧州議会選挙までに、何を最終目標としてヨーロッパ統合がなされるのかという意見の分かれる問いを、この選挙でのヨーロッパ人全員の投票のテーマとすることができなければ、ヨーロッパの将来はネオリベラル派の意に即した形で決定されてしまう」という主張である。この議論のポイントは、欧州統合に向けての議論が行われる公共圏をいかに作っていくかという、ハーバーマスが国民国家単位で考察してきた規範的議論を、欧州単位に拡大して適応させようとしていることを示している。そしてより具体的には、欧州が「欧州連合に効果的な決定手続きを可能とするのみならず、欧州連合を代表する外務大臣と、直接選挙で選出される欧州連合大統領、そして一つの共通の財政上の基盤を作りださねばならない。」そしてこの改革案を、「市民の過半数がEUの改革案に賛成票を投じた加盟国にのみ拘束力を持つようにしたらどうでしょうか」と提案するのである。

 既に2009年の欧州議会選挙を経て、その結果は出ている。EU加盟27カ国によるリスボン条約批准を受け、同年11月から12月にかけて、欧州大統領(EU首脳会議常任議長)としてベルギー首相のファンロンバイが、そして外相(EU外交・安全保障上級代表)としてEU通商担当欧州委員のキャサリン=アシュトン(英国)が選定されたものの、それは「直接選挙」の結果というより、EU内の国民国家指導者たちの妥協の産物であり、加えて両人ともそれほど名前の知られた人物ではないこともあって、権限と権威は全く限定的である。また「共通の財政上の基盤」は、「欧州金融安定化基金(EFSF-European Financial Stability Facility)」の創設を合意するに留まっている。そしてまさにその後の展開は、この「欧州金融安定化基金」だけでは、現下の危機が乗り越えられないことを示しているのである。

 続く「『ポスト世俗化』社会の意味するところ」という論文は、近代化と世俗化は並行して進むというテーゼが「特殊ヨーロッパ的」な議論であり、世界宗教の拡大、その原理主義的先鋭化、そしてその潜在力的な暴力の政治利用といった「宗教の復活」を前に見直しを余儀なくされているという、フランクフルト学派が「啓蒙の弁証法」以来主張してきた議論を、改めて現代的な文脈で論じている。

 確かに、「社会的機能システムが分化してきた結果として、教会や宗教組織が魂の救いという宗教の革新的機能に次第に自らを限るようになってきたことは、そのとおりである」が、他方で、@「メディアによって世界中での紛争が、しばしば宗教的対立として報道されている」ことから、公共の意識に変化が発生していること、A「ナショナルな公共圏の内部ですら(妊娠中絶、安楽死といった世俗的な価値観の多様化し議論が混迷している問題に関し)宗教は重要性を獲得しつつある」こと、そしてB労働移民や難民として「伝統の力の強い文化地域から移民してきた人々」が従来の市民に引き起こす意識変化といった現象は、宗教の社会的機能の高まりを示している。そこで彼は、「歴史的な理由で固定しているネーション・ステートの中で、市民たち相互の、暴力を行使しない関係が、文化的および世界観的な多元主義の中でも可能になるために、われわれはおたがいに何を期待せざるをえないのか」という問いを発するのである。

 ここで面白いのは、ハーバーマスが、この宗教を巡るイデオロギー対立を、「啓蒙(原理)主義」対反啓蒙的「多文化主義」の間の「文化闘争」として捉えている点である。しかも、ここで彼が注目しているのは、後者が、特に3・11以降、リベラル・タカ派に転向したのみならず、新保守主義の「啓蒙原理主義者」たちと「予想もされなかった連合を組んでしまった」点である。この要因は、結局後者が「(単なる『世俗的』なだけではない)世俗主義」に陥ってしまったからであり、こうした不毛な次元の対立を排除するには、宗教的発言も政治的公共圏に包括していくことが必要であるとする。それは「国家権力の宗教的中立」と決して矛盾するものではない。「信仰と知の関係をどう解釈すべきかの議論」を通じて、初めて「自己反省を通じて啓蒙された共生が可能になる」と考えるのである。この議論は、ある意味で中世以来キリスト教文化圏として存在してきた欧州(そして、宗教面ではその延長として捉えられる米国)が、現代に至り移民の急激な増加から、異質な宗教をその成熟した市民社会の中に包含せざるを得なくなったことから生じている問題である。これに対してアジアは、そもそも古代から仏教、ヒンズー教、イスラム教などの多宗教の影響を受け、それに近代以降はキリスト教文化も参入したという多宗教社会としての歴史を有している。そう考えると欧米の宗教状況は、そもそも市民社会における多様な宗教の共存に対する免疫ができていなかったことの現代的帰結ということになるのではないかと思われる。その意味では、このハーバーマスの宗教に関する議論は特殊欧州的な議論であると言えなくもない。もちろん、アジアにおいては、この多宗教の存在が、自由な公共圏を発展させるための障害になっているという見方も出来る。但し、この議論は、ここではこれ以上立ち入らないで、再び欧州統合を巡る議論に戻ろう。

 2007年11月の講演である「行き詰ったヨーロッパ統合」から、改めて「ユーロ問題」に戻る、ここでは「段差をつけた統合に向けて」という副題がポイントである。基本的には、2007年に提示され、その後2009年に12月に発効されることになるリスボン条約(EU憲法とEU大統領等を規定)の評価が主題であるが、ここでは既に前章の短い講演で提示されていた議論が、もう少し詳しく論じられることになる。
 
 政治的な意味では、この条約案について彼は2つの問題を指摘している。一つは、この条約案も結局「加盟国の政治的エリートたちの間での合意」により、即ち「住民たちの頭越し」に決定されることになったことで、「ヨーロッパ統合というプロジェクトに、市民の意見形成・意思形成が加わらないように市民からおそるおそる切り離してきた事態を、決定的なものにしている」という点。そして二つ目の問題は、「条約締結を行う首脳たち」が、欧州連合の「最終目標」、即ち「欧州連合が最終的にどこまで拡大されるか(中略)、共通の政治や政策を進めるにあたってどのような権能がEUに与えられるか」といった問いに答えを出せなかったという点である。これらは、欧州統合が、依然ネーション・ステートの国家意思と、そこでの政治エリートが主導していることを示しており、ハーバーマスが期待する広域化された公共圏での討議を経て意思決定されるという規範的形態からは大きく乖離しているという訳である。特に彼は「ヨーロッパのアイデンティティを形成するためには、ヨーロッパ全域にわたる政治的な公論形成の場(政治的公共圏)が特に重要である」として、市民が選挙権を行使する際に帰属意識を形成するためにも、EUの政策決定プロセスが「国家単位での公論形成の既存の場で市民たちに感知でき、また彼らがそれに参加できるようでなければならない」と主張するのである。

 またEUの外交力に対する期待も述べられる。その重要性は、@「一つの国民国家だけで、国際政治に影響力を持つ可能性はない」こと、そしてA「世界社会は多文化的に分裂していながら、システムとしてはさまざまに複雑化し、細分化している」が、そうした中では「小規模な国民国家群がグローバルな行動能力と交渉能力を備えたEUのような地域規模の政権にまとまらなければ、世界内政治のために望ましいトランスナショナルな制度ができる見込みがない」という事実である。前者は明らかに米国の「単独行動主義」に対抗するには、欧州としてまとまった行動が必要とされるという認識からもたらされる議論であり、また後者も、グローバルな規模で解決されなければならない安全保障、エコロジー・バランス、エネルギー資源、基本的人権、貧富格差といった問題に対する指導力を発揮するための制度的な枠組みである。そしてそうした中規模で政治的影響力を持ちえるEUの統合を、市民が自分たちで決定できる機会を作るべきと考える。「決定すべき問題は、政治的に立憲化されたヨーロッパを、しかも直接投票で選ばれた大統領と固有の外務大臣をもち、税制政策をいまよりもずっと統一化し、社会政策レジームも均等化したヨーロッパを望むのかどうか」である。そして、加盟国の多数及び住民の多数という「二重多数」を得た提案のみが承認され、またこの「二重多数」で承認した国の身を縛るものにするという「段差をつけた統合」を提案するのである。

 続く2章は、民主主義におけるメディアーそれは新聞からネット空間の拡大といった現代的現象の評価も含んでいるーの役割についての、かつてのマクルーハンを思い出させる議論を展開しているが、ここではこれは省略し、最後に「補論」として加えられている、2010年5月の「われわれにはヨーロッパが必要だ」という短い講演を見ておこう。

 まさにギリシャ危機が発生しつつあった時期のこの講演で、ハーバーマスは、ギリシャ救済に反対し「ドイツのように財政規律を守ってほしい」とコメントするだけであったメルケルを「結局ヨーロッパ共同の行動をブロックした」と批判している。最終的には「大量破壊兵器とも言うべき大衆紙を恐れるあまり、金融市場というもうひとつの大量破壊兵器の破壊力を見損なっていた」メルケルは、株式市場の暴落に直面し妥協を余儀なくされたが、これにより「ユーロの納税者たちは、それぞれ別の加盟国の国家予算リスクの保証義務を共同して負うことになった。」まさにハーバーマスは、これがパラダイム・チェンジである、とする。何故ならば、この事態は、共通通貨を持った共同市場ができていながら、政治同盟は中途半端で、加盟国の経済政策を効果的に調整しうる制度も出来ていないことを赤裸々に示したからである。そしてまさにこうした危機を通じて、ドイツは「国民国家の主権を獲得して正常状態に戻った」ことに安堵する自国中心主義を克服し、他のEU諸国と共に「国々の国境を越えて、一緒にヨーロッパの運命を共有しているという意識」を持つようになることを期待するのである。

 ここでのハーバーマスの論点は、まず彼が生涯に渡って主張してきた公共的・民主的な討議の枠組みを、ネーション・ステートの境界からより広い欧州規模に拡大するための仕掛けとしての欧州統合への期待と、現実にはそれがまだまだ公共圏の確立には程遠いという嘆きである。ただ伝統的なネーション・ステート内でも簡単ではないこの試みが、欧州規模で実現するのはより困難で、そのためには地道な努力が必要であるのは言うまでもない。ここでのハーバーマスの議論は、そうしたベクトルの方向性を変えることなく、一歩一歩進んでいくことへの期待と理解するべきだろう。そしてそれについては大きな異論はない。

 もう一つの重要な議論は、言うまでもなくこうした公共圏の拡大のために、ドイツ自身が変わらなければならないという、著者の従来からの主張である。一般的に言われているとおり、ドイツが「欧州のドイツ化」を進めると、欧州は常に不安定化するという歴史を繰り返してきた。それを避けるためには「ドイツの欧州化」が必要であり、ユーロの導入や欧州統合の深化というのは、そのための壮大な実験場であった。

 しかしながら彼が懸念しているのは、足元の欧州経済危機の中で、ドイツが再び自分の力を過信し、「欧州のドイツ化」に向かって突き進むのではないかということである。彼が「大衆紙という大量破壊兵器」という時に想定しているのは、典型的なドイツ・ナショナリズムの拠り所がこうした大衆紙であり、それに政権が引きずられることで、また「ドイツ問題」が復活するのではないかと考えていることは間違いない。しかし、これに対する別の「市場という大量破壊兵器」についての彼の評価は、必ずしも明確ではない。確かに今回は「市場」の圧力により、「ユーロの納税者たちは、それぞれ別の加盟国の国家予算リスクの保証義務を共同して負うこと」を認識するという「パラダイム転換」が行われた。しかし他方で、彼がそうした「市場」の動きを100%認めるグローバリズムの信奉者であるとはとても思われない。そして、「大衆紙」に引きずられ「結局ヨーロッパ共同の行動をブロックした」メルケルを批判しているものの、そこでの短期的な救済策とその中長期的な影響について何らかの判断をしている訳ではない。これは彼が「市場」を認めているということではなく、偶々市場がユーロの深化を催促したということだけを、客観的な事実として言及しているに過ぎないと考えるべきだろう。

 しかし、そうであるとすると、結局のところ、彼の哲学的観点からの規範的議論では、現在のユーロが直面している短期的な問題は、解決の糸口がなくなってしまう。ギリシャを始めとする欧州諸国の債務・信用問題は、「ユーロの納税者たちは、それぞれ別の加盟国の国家予算リスクの保証義務を共同して負うこと」を認識したが故に、まさにメルケルが中長期的な問題として主張してきたように、統合欧州構成国の健全財政の確立とその違反に対する制裁の厳格化によってしか解決できないのであり、それを「欧州のドイツ化」と批判するのはやや的外れと思えるからである。他方で、そうした中長期的課題とは別に、市場はあくまで短期的な解決を催促していることから、それについては、例えば欧州金融安定化基金の基盤拡大や欧州中央銀行による諸施策といった、経済専門家による技術的な議論の中から解決を探ることしか出来ないのである。こうして、欧州の統合とそこでの公共圏の拡大を願うハーバーマスの期待は、結局のところ現在のこの動きを指揮しているメルケルやサルコジ(メルコジ)らの欧州主要国首脳と彼らの周辺にいる欧州テクノクラートの力量如何にかかっていることになってしまう。知識人として大きなベクトルを指し示すことは出来ても、実務家として足元の危機に対応するには、やはりハーバーマスの議論では残念ながら不十分である。そして新たな年も、引続きユーロへの懸念が市場の足を引っ張る形で幕を開けている。私としては、ここでの短期的な危機への対応が、ハーバーマスが期待する中長期的な欧州統合に向けた深化の道を大きく後退させないことを祈るばかりである。

読了:2011年12月29日