ユーロ
著者:D.マーシュ
かつてドイツに着任した際に最初に読んだのが同じ著者のドイツ論であり、それ以外にも滞在中に彼のドイツ連銀論や、ドイツ統一後の状況分析などに接してきた。これが約15−20年前のことであるので、もう彼も相当の歳になっているのだろうが、その彼が久し振りに、ユーロに焦点を当てた欧州通貨に関わる通史を書き上げた。初版は2008年9月の出版であるので、まさにリーマン破綻の時期。そして言うまでもなく、その後遺症もあり、昨年(2011年)以降通貨としてのユーロは、その導入以来最大の危機を迎えることになった。今年初め、日本の新聞で著者のインタビュー記事が掲載されているのを見たが、まさにこの彼がこの作品でも指摘していた通貨としてのユーロの弱点が市場の攻撃を受けることになったのである。
しかし、そうしたユーロの弱点は、著者に指摘されるまでもなく誰でも認識しているものである。この本がすごいのは、それを指摘しているからではなく、むしろユーロ導入に至る欧州100年の歴史を遡り、また過去50年については、考えられる多くの原資料や関係要人へのインタビューを通じて、この「政治的所産である通貨」の成立過程とその意味合いをこれでもか、これでもか、と読者に訴えかけているところにある。まさにドイツとヨーロッパを熟知したジャーナリストによる、通貨とその守護神である中央銀行から見た欧州近代史の総括である。2011年5月、まだこの邦訳が出版された時は、欧州の信用危機も現在ほど厳しくなっていなかった。そしてその後これが深まっていく中で、この本を早く読みたかったが、なかなか手をつけることができなかった。今回ようやく夏季休暇の時期も利用し読み終えることができたのである。しかし、本の内容に比較して翻訳の稚拙さにはややうんざりすることになった。訳文がこなれていないのは、そもそも著者の表現が英国人特有のペダンティックなものであるからだろうとして許容できるとしても、至る所に単純な誤植が溢れているのは何ともみっともない。ユーロ危機の高まりを受けて拙速な出版になったからなのだろうか、などと考えていた。それでは内容を見ていこう。
まずは、著者の言う「あまりに長かった」この通貨の「懐妊期間」から始まる。その前史は、「通貨と国家の境界は通常は同義語」である歴史から始まる。もちろん「統一通貨がローマ帝国全体に浸透するには数世紀を要した」ことに示されているように、「一部の政治的あるいは軍事的な領土は、明らかにひとつの本位貨幣を流通させるにはあまりに大きすぎた」が、それでも「共通通貨は政治的覇権の特徴」であり、8世紀のフランク王シャルマーニュや4−10世紀のビザンチン帝国から南北戦争後のアメリカまで、支配者たちは自らの主権の確立を統一通貨の導入により権威付けてきたのである。そして欧州に関しては、15世紀のボヘミア王を始めとして、共通通貨を発行する「欧州連邦」という夢想が連綿と続いてきたのである。こうした統一通貨のアイデアに、「1821年にイギリスが初めて運用を開始した金本位制」という「幻想」が導入される。実際ユーロの前身であるマルクは、19世紀末の普仏戦争でドイツが獲得した膨大な賠償金を基に、金の裏打ちを受けて誕生し、そのビスマルクによるドイツ統一の象徴となったのである。しかし、その通貨が金の裏打ちがなくなった時にどのような運命を辿るか、ということは、それから40数年後、第一次大戦が終わった時に思い知らされることになる。またその教訓は、今度は再び第二次大戦開始直後にドイツがフランスを占領した時の、フランスが保有する金の争奪戦という形で現われるが、フランス側は、このドイツの攻撃を掻い潜ることに成功したという。
戦後、欧州復興の過程から基軸通貨として現在まで君臨したのは米ドルである。言うまでもなく、戦後の通貨史はこの米ドルを基軸通貨として展開されるが、欧州は欧州で再び戦争への反省から古くて新しい統一通貨の模索を始めることになる。これが、「ユーロ」の原風景である。
如何にフランスの農業とドイツの工業の公平なバランスを保つか、という戦後の課題は、それを下支えする通貨への関心を強める。その基礎になっていくのがドイツマルクであり、その守護神となる連邦銀行の再建が説明されるが、これは著者の最も得意とする分野であると共に、私にとっては過去の一時代への回顧趣味をも満たす復習である。そしてそこでの最も重要な原則は、「ヒトラーの台頭を後押しした経済的気まぐれの繰り返しを阻止する」ために導入された中央銀行の「政府からの独立」であり、これがまさにその後のユーロ導入から導入後の運営にあたっての恒常的な議論の中心テーマとなるのである。
各時代のドイツ連銀と政治家の攻防が紹介される。同時に「1961年のマルクとギルダーの切り上げを受けて、経済通貨同盟(EMU)に向けて初めて政治的な胎動が生じる」と共に、「一方のドイツとオランダと他方のフランスとベルギーの間には、通貨に関して哲学的な相違があることを示唆する最初の兆候」も現われることになる。前者はエコノミスト派、後者はマネタリスト派と呼ばれるが、この両者の間の攻防は、中銀の「政府からの独立」と並ぶ、その後のユーロを巡る変わることのない二つ目の論争テーマとなる。
欧州内で二つの「通貨を巡る哲学」が攻防を続けている時期に、市場では大きな変動が発生し始めていた。それはまず戦後のブレトンウッズの米ドル本位制と、英ポンドから始まる欧州通貨の動揺である。まずはドゴールのフランスが、その既往体制に対する挑戦者の立場を取るが、次の瞬間には、そのフランス自体が市場のターゲットになる。いわば、経済ファンダメンタルズの綻びを狙う市場の横暴が始まるのである。著者は、1964年の英ポンド救済や1968年の仏フラン支援、そして1971年のニクソン・ショックによるブレトンウッズ体制の終焉等、初期の通貨戦争の過程を丁寧に辿っているが、ここでは詳細は省略する。重要なことは、こうした過程を経て欧州内での通貨同盟の必要性がより緊急の課題として認識されると共に、そこでの「安定した基軸通貨」としてのマルクとそれを支えるドイツの通貨哲学が次第に発言力を強めていったということである。ドイツ連銀の国内インフレを重視した金融政策により、他の諸国は自国通貨の防衛に四苦八苦しなければならないことになるのである。
「1974年5月にわずか11日の差」で其々の国家のリーダーとなったH.シュミットとV.ディスカール・デスタン(仏占領下のコブレンツ生まれ)の下で、欧州通貨への道が着実に進められることになる。「シュミットは通貨協力を強調することによって、大きくなっていたドイツの経済力を誇示しないように努めた」が、それは「マルクの上昇を抑えることによってドイツの輸出力を保護する」という戦略でもあった。他方、ディスカール・デスタンはより通貨統合により積極的に関与するが、「経済パフォーマンスが悪かったため、フランスは現実にはドイツと比べて二流のパートナーにすぎなかった」というのが著者の評価である。実際、1976年3月、その前年にEMUのスネークに復帰したフランは再び投機筋の攻撃にあい、1週間のフラン防衛のための介入で、当時の外貨準備の四分の一を失うと共に、スネークからの再離脱とフラン切下げを余儀なくされた。同じケースが、1992年には英ポンド等に対し仕掛けられることになるが、常に経済ファンダメンタルズから乖離して人工的に設定された為替は市場の標的になることは、その頃から示されていたということである。
仏独両国首脳の通貨統合に賭ける意志は、面白いことに英国人R.ジェンキンスに支援されることになる。「正真正銘の親欧州派で、1970年代初めに労働党の反EU方針を巡って離党」、そして1977年にイギリス人初の欧州委員会委員長となったジェンキンスは、欧州議会で通貨同盟に対するイニシアティブを取り、仏独両国首脳を支持したという。しかし、通貨市場での仏フランは依然不安定であった。フランス銀行は、1978年2月の報告の中で、仏フランのスネーク復帰を妨げているのが、「ドイツが欧州の通貨に及ぼしている不当な影響力」のためだとし、それを「マルクの横暴」と呼んだが、これは他方ではドイツ連銀にとっては「(通貨統合の)最終製品が同行の独特の刻印を帯びていることを確保」していることを意味したのである。
しかし、一方で「弱小通貨に対する攻撃を防衛するには十分な弾薬が必要であるというイギリスのような諸国がもっていた懸念を、シュミットは極端に真剣に受け止めた」ことについては、ドイツ連銀からの反撃を受けることになる。1978年7月、欧州通貨基金を通じて新たに創出される「通貨バスケット」である欧州通貨単位(ECU)が、通貨システムの中心となることが欧州サミットで合意されたが、直ちにその運営を巡ってドイツ、オランダのマネタリスト派からは「黒字国に不当な圧力を課す一方で、弱小通貨国には軽い制約しか課さない」「非対照性」を排除するような圧力がかかり、これが「通貨同盟に関してその後の20年間にわたる政治討議のトーンを設定する」ことになる。この一連の過程の中では、シュミットは連銀理事会で「EMSは単なる通貨圏をはるかに超越するものである」という熱情的な演説を行うなど、連銀に対する説得を試みるたが、最後は連銀の意向を受ける方向に「心変わり」したと描かれている。かつてドイツ時代に読んだシュミットの回想録では、連銀の頑なな態度に対する彼の激しい不満が示されていたが、こうした一連の連銀との攻防が、彼をしてそのように言わしめた、ということは容易に想像される。
第二次オイル・ショックを受けた激しいインフレとそれを受けた金融引締めが、政治家と中央銀行の戦いを更に激しくする。これに米国カーター政権の稚拙な国内金融及びドル対策に対する欧州の不満が加わる。それは結果的に、欧米国内経済の後退をもたらし、カーターのみならず、シュミットやディスカール・デスタンも血祭りにする。そして独仏では「通貨問題に信じられないほど疎い」コールとミッテランが後任の指導者となり、皮肉なことに彼らの下で「通貨同盟に関するあらゆる重要な決定」が行われるのである。ただそこに進む前には、まだまだ多くのハードルが待ちかまえている。
ミッテランについては、「通貨問題に関して(前任者のような)冷静な理解を模倣する意欲も能力もなかった」が、「前任者に欠けていたドイツの未来に関する戦略的な洞察(ドイツ統一が遅かれ早かれ不可避である!)があった」。他方、コールは前任者より「先天的に劣るという見方に苦しめられていた。」しかし、そのコールは、結果的に「ビスマルク以来最長の在任記録を樹立する。」そしてこの二人は、その政治思想も経験も異なりながら(共通点は「歴史の教訓と経済学の無視、そして自分の母国語以外はしゃべれない」こと!)、相互の政策をサポートし合うことになる。例えば、ミッテランは、1983年のフラン危機に際して、フランの切下げやEMSからの離脱ではなく、財務大臣ドロールの提唱した緊縮政策を選択して「マルクの大幅な切り上げなしに、フランをEMSに残留させることにした」が、この政策は「フランスを西ドイツとの通貨同盟という長期的な目標に向かう軌道に乗せることになった」と著者は評価している。それは「ドイツの通貨面での力をフランス自身の目的のために活用するという試み」であり、その「ブラッセルにおけるプリマドンナ」を演じたドロールは、その後欧州委員長に就任し、通貨統一の実務を取り仕切ることになる。またそれぞれの外務大臣、デュマとゲンシャー其々の能力と二人の間の信頼関係も、この流れを支えたという。
まさに80年代以降は、私自身が欧州に滞在し、欧州の金融市場を身近に眺めていた時期であり、そこに登場した懐かしい市場関係の名前の数々が紹介され、間欠的に襲う通貨・市場の緊張時における彼らの役割が説明されていく。フランスからはベレゴヴォワ、バラデュールやカムドシュ、ドイツからはシュトルテンベルグ、ペール、ティートマイヤー、英国からはローソン、レイ=ペンバートン等。1985年のマルク軟化、翌1986年の英ポンド・仏フラン売りとフランの切り下げ、そして80年代後半は、ドイツへの資本流入を受けたドイツ連銀の引締め気味の金融政策とマルク高。政治的には、ソ連に成立したゴルバチョフ政権からのドイツ中立化への誘惑と、それに対抗しドイツを欧州に留めようとするミッテランらの戦略、独自の欧州通貨協力案を打ち出したゲンシャーの動きなどが注目される。そして1988年5月のミッテランの大統領再選で欧州統合が加速化することになる。1989年4月、ドロール委員会の報告書が公表され、域内の資本・為替政策に加え、欧州中央銀行制度の創設が初めて明確に提案されることになる。
英国では、ハウやローソンがサッチャーに対し、英国のERM参加を何度も説得するが、サッチャーは首を振ることがない。またフランス銀行では、来るべき欧州中銀の独立性を支持する当時のドラロジエール総裁に、国庫局長であるトリシュが公然と反対を唱えたという。そのトリシュが、フランス銀行総裁を経て、10年後には欧州中銀そのものの総裁となるのである。
1989年は、言うまでもなく統一通貨に至る過程での最大の転機となった年である。そうした正式な交渉があった訳ではない、と著者は断っているが、ドイツ統一を巡るドイツのマルク放棄というコールの政治的決断が、その後の統一通貨の歴史を決定する。他方で、ドイツ統一に際して東西独マルクの交換比率が1対1に政治決定されたことが、その後のドイツ景気の沸騰と過剰流動性、更には高インフレをもたらし、その結果ドイツ連銀は金融引締めに動かざるを得なくなる。同じ頃、英米は景気後退に直面していた。この結果、1990年にERMに復帰した英国は、1992年の英ポンド危機で再度の離脱を余儀なくされ、翌年には再び仏フラン、そしてリラ、ペセタ等々が次々と市場の投機筋のターゲットとなる。まさに私が1991年、赴任直後のドイツで接したのは、こうしたドイツ統一がもたらした大きなダイナミズムであったのである。著者は、ドイツ統一過程でのコール、ミッテランを始めとする主要登場人物の、通貨統合に関連する水面下での動きも含め子細に追いかけているが、結局重要だったのは、「通貨の混乱が続いているなかで、世界金融市場の破壊的なエネルギーを削減するための手段として、欧州各国の政府には単一通貨という傷だらけの旗印の下に新たに結集するしか選択肢がなかった」ということであった。ドイツ統一は、政治的にはポジティブ、経済的にはネガティブな選択肢として欧州通貨統合を促したのである。しかし、後者の面では多くの未解決の問題を残したことは、その後20年経った現在、改めて浮き彫りになる。
1991年マーストリヒト条約締結後の「カウントダウン」は、まさに私自身がドイツで目撃したユーロ導入の最終段階である。ドイツ連銀の金融引締めから始まり、幾つかの国での条約批准のための国民投票、「収斂基準」や欧州中銀の設置場所を巡る、そして中銀第一代総裁としてドイセンベルグが選出されるまでの各国の激しい応酬を昨日のように思い出す。他方で、その頃の私には見えなかったこの時期の各国首脳の駆け引きの詳細が著者により跡付けられていくが、ここではこれ以上細かく見ることはしない。しかし、注目されるのは、1992−3年の通貨危機の過程で、「西欧がハードカレンシーとソフトカレンシーのブロックに沿って南北に事実上分断された」ことである。前者は、ドイツ、オランダ、ルクセンブルグ、オーストリア。後者はポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペイン等であり、当時から既に「PIGS」と呼ばれていた。その間で、フランスが微妙な立場を取らざるを得ないことになる。「1990年代も後半になって欧州の景気回復が広範囲にわたってペースを上げてきて」ようやくこの両ブロックの緊張が後退した、というが、これも一時的であったことはその後明らかになる。
2000年代に入ると、「欧州中銀は一連の厄介な不均衡に悩まされる」ことになる。グローバルで見た場合の国際収支不均衡の拡大や米ドル高による金融引き締め、ユーロ諸国の景気後退、シュローダーとシラクの政策不一致等々。しかし、その中で、著者は、2002年1月に実行されたユーロ紙幣と硬貨導入と旧通貨の回収という大仕事を僅か2ヶ月で完了した中銀の成果は誇るべきであると称賛している。またこの通貨導入後にドイセンベルグ(彼は退任後2年もしない内にフランスでのプール事故で溺死した)を継いだトリシェは、ドルが軟調になり、欧州、なかんずくドイツの景気が回復軌道に乗るという幸運に恵まれることになる。またこの景気回復を受け、かつて欧州中銀の独立性に敢然と反対したこの男は、今度は逆に「金融面で厳格というドイツ連邦銀行型の空気を吹き込み、欧州中央銀行の独立性に対する政治的な攻撃をかわすという彼の信念を高めることになり」、それはトリシェ自身の欧州中銀総裁としての評価を高めたのであった。
しかし、市場では更なる不均衡が蓄積していた。2007年8月、経常黒字国に貯まった資金を赤字国アメリカが、よりリスクの高い商品で吸収するメカニズムであったサブプライムローンのバブルが弾けたのである。これは言うまでもなく、現在の欧州ソブリン債務危機の直接の導火線である。当初のトリシェの機敏な流動性対応と他方でのインフレコントロールは取り敢えず合格点であったが、その後の対ドル、ユーロ高に伴う欧州の景気後退を受けたサルコジらの政治介入に対しては引続き厳しい判断を迫られることになる。
ここにおいて、著者は重要なコメントを記載している。「最初の10年にEMUの心臓部で発生した政策上の意見対立は、ドイツ、フランス、イタリアという三大国がもっとダイナミズムを示していれば、あれほど激しいものにならずに済んだことであろう。」そして「スペインやギリシアなど低所得の南部諸国とアイルランドやフィンランドなど他の周辺諸国は、ユーロ導入に伴う追加的な刺激を活用して成長率を押し上げ、EMUの富裕な中核諸国との格差を縮小させた。」しかし、それは「官民両部門の債務が増加するという犠牲を払って達成された。この債務にかかわる元利返済は予想外に厄介な問題になる懸念があろう。」
まさにそれが昨年(2011年)8月以来、ユーロに決定的な危機をもたらす問題となったのである。そして「この不協和音は欧州中央銀行の地位をめぐる仏独間の意見不一致をはるかに超えて広範囲にわたった。それはドイツに関して広く抱かれていた見方によってさらに悪化した。」既にこの本が書かれた時点で、ユーロ導入を受けて、ドイツは国内産業の輸出部門へのシフトと合理化を推し進め、価格競争力と品質ベースの競争力で他のユーロ諸国を凌駕していることが明らかになっている。ユーロ域内の経常収支の格差が、ドイツ(あるいはあえて加えればオランダ)の一人勝ちという結果になっていったのである。他方、著者は「フランスの実績には特に失望せざるを得ない。」として、「公的財政の管理という点では、目まぐるしく交代したイタリアの首脳たちさえ凌ぐ不手際を示してきた」と手厳しい。他方、民間の金融セクターでは、ドイツの金融機関が、経常収支の余剰があったために資本輸出国となり、結果的にサブプライム商品のダメージを受けたのに対し、スペイン、イタリア、フランスの大手銀行の被害はずっと軽く、それが後者の銀行がユーロ域内でのプレゼンスを高めることになったとしている。そして、この本が書かれていた2008年10月、欧州中銀は、「トリシュが2003年に総裁になってから初めての」利下げに追い込まれるのである。
こうして金融危機が深まる中、著者は最後にこの時点での欧州統一通貨の評価を行っている。それは「支持者の大きな希望にも、反対者の重大な懸念にも一致」しなかった。「しかし、通貨同盟の表面的な安定の背後には、欧州の経済システムに追加的な硬直性の源が組み込まれ」、そして「それは危機の時期には問題を引き起こす可能性が特に大きいハンディキャップとなるだろう。」更に「もし既存の経済パターンが将来にわたって継続すれば、なかにはERMを離脱するか、あるいはまったく新しい足場によって他のグループに自国を結びつけなければならない、という圧力にさらされる国が出現する可能性大であろう。」
このほとんどが、2年以内に実現することになった予言は、統一通貨が適用される地域に、統一された国家主権が存在しないという、ユーロが本質的に享受しなければならなかった構造的欠陥の当然の帰結であり、冒頭に述べたとおり、特段著者の見識を称賛すべきものではない。そして現在の危機は、ドイツとその他ユーロ諸国間で政治的な意志統一が出来ないことで更に深化することになった。「最初の10年間の教訓は、単一通貨が次の10年間を無傷で生き残るかどうかは全く不確実である、ということになる。」まさに、現在にユーロはその不確実性について、導入後最大の試練に立ち向かっているのである。著者が、苛々しながら状況の推移を眺めているのが手に取るように分かる。
私の仕事にも、特に昨年(2011年)8月以降大きな影響を及ぼしているユーロ問題は、その後ギリシャやスペインを中心とした南欧諸国の国家債務の処理を巡り、悲観論と楽観論が間欠的に表面化するという不安定な展開を続けている。主要なプレイヤーとしては、まず欧州中銀の総裁は今年の初めにイタリア人のM.ドラギが、トリシェから引続ぐことになったが、彼は現在までのところこの困難な状況に、大きな原則を踏み外すことなく対応しているように見える。またこの本では、足元欧州中銀に対するもっとも強い国家意思からの挑戦者として描かれていたサルコジが、トリシェと相前後して舞台を去り、中道左派のオランドが新たに登場している。フランスの財政赤字問題に関しては積極財政派と言われていたオランドであるが、彼も現在までのところは、極めて慎重に行動しているようみ思われる。
そうした中で、この本に登場した中心人物としてはドイツのメルケルだけが残り、その他ユーロ諸国からのドイツ・バッシングと、国内世論の板挟みになりながら、地雷に満ちた隘路を巧みに渡り続けているように見える。彼女は国内的には、いまや余人を持って代えられないまでの権威と信頼を獲得し、来るべき総選挙でも首相に再選されることは確実と言われている。
そのしかし、その人気はドイツからの資金流出に抵抗するという、ドイツにとっての国益を何とか守ってきたからであり、欧州中銀による流動性補完を好感して現在一時的に落ち着いている南欧諸国の債務問題が改めて浮かび上がり、市場の攻撃を受けた時に最後まで抵抗できるかどうかは定かではない。その意味で、ユーロ導入以来最大の危機は依然現在進行形である。その意味では、著者のこの本も未完の作品である。しかし、少なくとも現在までの欧州統一通貨の歴史は、その裏に秘められた主要登場人物の其々の思惑と共に、ここで見事に整理されていることは間違いない。そして、「私のドイツ時代の総括とその後」を新ためて反芻する上でも、貴重な作品であった。歴史過程で、常に通貨は経済ファンダメンタルズから乖離し、そこに着目した市場の動きとの攻防を繰り返してきたこと、そしてそうした攻撃に対する脆弱性を回避しようという試みでもあったこの統一通貨も、決してその運命から逃れられるものではないことを認識しつつ、通貨の価値を守りながら、他方で経済成長にも配慮しなければならない欧州中銀及びユーロ構成国指導者たちの果てしない困難な戦いを引き続きつぶさに眺めていくことにしたい。
読了:2012年9月15日