「ドイツ帝国」が世界を破滅させる
著者:エマニュエル・トッド
この本を読了した直後、夕刻のテニスを楽しんだ後に、突然左眼の疾患に襲われることになった。全く眼の焦点が合わず、本やPCは言うまでもなく、テレビさえも短時間しか見続けられない状況の中、翌日曜日早朝の緊急医療センターへの飛び込み、そして夕刻から始まった着任以来最大の業務上のイベントをこなし、再び病院での精密検診。その結果としての、S#15,000(約130万円)と見積もられた手術の必要性の通告。保険カバーの当てもないまま、週末のシンガポール50周年独立記念日の4連休を、暗澹たる気持ちの中で、バンコクで過ごすことになった。眼の問題は、バンコクからの帰国後、結局傷害保険の適用を受け、当初飛び込んだシンガポール大学病院とは別の病院で、本日これから受けることになったが、眼が不自由な中、書評の執筆は、手術後、視力が回復するまで待たざるを得なかった。
そもそも今年の前半の金融市場は、ギリシャ問題に明け暮れたといってもいいくらい、ギリシャとそれをコンロトールしようというユーロ首脳国、なかんずくドイツの厳しい対立が連日メディアを賑わせていた。そうした中で、この人口動態学者による、ユーロ・ペシミズム論及びドイツ批判は、欧州の主流の議論に大きなアンチテーゼを投げ込む議論として注目される。個人的には、かつて彼の出世作である「帝国以後」で、米国覇権の下での世界秩序の終焉を、人口動態学の観点から示したこの著者が、フランス知識人としてどのように将来の欧州秩序、なかんずくドイツの位置付けを行っているかが最大の関心であった。その結果は、今日の手術が終わった後に、ゆっくり見ていくことにしよう。
そして8月14日(金)手術が終わり、今日(15日(土))昼前に眼帯が取れ、完全ではないが、今回のトラブル前の視力がある程度戻ったので、やっとこれを書き進めることができるようになった。
2003年に、「帝国以後」で、アメリカによる世界の覇権が終焉するであろうことを人口動態面から論証した著者が、今度は主としてドイツによる欧州の覇権確立を予測・批判したインタビュー集である。2011年11月から2014年8月までに行われたインタビュー7つをまとめた新書であるが、議論には多くの重複がある。その意味では、冒頭に収められている2014年8月の、最も最近のインタビューが、それ以前の議論も踏まえたものになっているので、これだけやや詳細に見ておけば、著者の主張は概ね理解できる。
著者はまず議論をロシア脅威論から始める。これはウクライナ危機等を踏まえた、ロシアの再度の覇権国家化についての懸念についてであるが、著者は、これは「西側で最小限の一体感を保つために必要な敵のでっち上げ」という「スケープゴート探し」であると一蹴する。確かに、局地的な軋轢は発生しているが、現在のロシアにはかつての「帝国」を維持する力はなく、最低限の矜持を維持するために、クリミアや東部ウクライナに介入していると考えるべきであろう。もちろん、それ自体は、現在東部ウクライナで繰り広げられているような武力紛争という形ではなく解決されるべき問題であることは言うまでもない。
しかし、それ以上に著者の議論が刺激的なのは、ウクライナ問題へアメリカが介入したのは、「アメリカが(中略)体面を失うのを恐れ」たためであり、更に言えば「むしろドイツに追随したというべき」と断じていることである。何故ならこうした「紛争が起こっているのが昔からドイツとロシアが衝突してきたゾーン(アメリカの国益上は大きなメリットはない地域)」であり、「今やドイツがヨーロッパをコントロールしているのだから(=アメリカはドイツに引きずり出されてこの紛争に介入した)」ということになる。こうしたドイツの政治的独自行動の例として著者が指摘しているのは、@メルケルによるウクライナの単独訪問(かつては必ずフランスやポーランド首脳と同行していた)、Aヨーロッパ委員会の委員長へのユンケルの就任(英国キャメロンの反対を抑える)、Bアメリカによるスパイ行為に関するアメリカとの対立等。そして「債務を負っている南欧諸国の隷属」、「東ヨーロッパの人間を働かせる」、そして「フランスの銀行システムに多少の餌を与えてフランス大統領府をコントロールする」というのも、「ドイツ固有のプロジェクト」を進めるための手段であると見做すのである。かつてはフランスが、欧州におけるドイツの制御役を果たしてきたが、著者によると今やフランスはその力を失っている。それに替わるのは米国しかないが、著者自らが示したように米国も世界、あるいは少なくとも西側諸国のリーダーたる力を失ったことから、フランスに替わってドイツをコントロールすることはできなくなっている。こうして著者は「グローバル化されたわれわれの経済社会の中で、二つの大きなシステムの真正面対立の出現を予感する」。それは、ロシアの脅威でも、中国の軍事力増強でもなく、「アメリカと(中略)新たに出現してきたドイツ帝国の対立」であると見るのである。
更に著者が主張するのは、アメリカにとって最大の懸念はロシアの崩壊であり、それは「ウクライナまで広がるドイツシステムとアメリカの間の人口と産業の上での力の不均衡が拡大して、おそらくは西洋世界の重心の大きな変更に、そしてアメリカシステムの崩壊に行き着く」ことであるという。「ドイツは、もう一つの世界的な輸出大国である中国と意思を通じ合わせ始めている」。そして「NATOの東ヨーロッパへの拡大は、(中略)アメリカに依存しない形でのユーラシア大陸の(ドイツによる)再統一である」とまで主張するのである。
著者は、欧州の地図を示しながら、実質的な「ドイツ帝国」の広がりを示したり、「アメリカに対してEUを優位に立たせる産業上の不均衡(=ヨーロッパにおける「低賃金ゾーンの存在」)」を説明しているが、最も重要な論点は、「ドイツの権威主義的文化は、ドイツの指導者たちが支配的立場に立つとき、彼らに固有の精神的不安定性を生み出す」という点にある。著者によれば、これがドイツの実質的支配力が強まる時の最大の懸念であると言う。それはアメリカの(そしておそらくはフランスとも対比される)自由主義的文化との決定的な違いなのである。
それ以降は、この最新インタビューに至る著者の思考過程と考えられるので、いくつかの特記すべき議論だけ抽出しておく。
プーチン支配下のロシアにおける乳児死亡率や男性の平均寿命、自殺と殺人の発生率、出生率等の人口学的指標(捏造が難しい)が急速に改善していることから、西側メディアのロシア叩きにもかかわらず、ロシアが「再生の真っ最中」である、という議論。
2003年のアメリカによるイラク介入反対で「ヨーロッパ」諸国とロシアとの接近を印象付けた、「フランス+ドイツ+ロシアというエンジンに基づくバランスのとれたヨーロッパが姿を現す」という期待が、その後異なる方向に転換。それは「あの国(ドイツ)のエリートたちはロシアとの関係において、好意と紛争の間で絶え間なくためらい、揺れ、心理的・歴史的なある種の『二極性』の症状を呈する」ことが主因である。シュレーダーからメルケルへの大転換。そして「アメリカは、ドイツに対するコントロールを失ってしまって、そのことが露見しないようにウクライナでドイツに追随している」。ドイツの力を牽制するためのアメリカとロシアのパ−トナーシップが、「世界的無秩序」回避の鍵。
ユーロについては、「言語、構造、メンタリティの面で共通点が結局ほんのわずかしかない多様な社会が積み重なっている中では、この通貨は決して機能しない」が、それを打開できる唯一の国はフランスであるにも関わらず、そのフランスの政治的エリートは「自らの失敗の現実を直視し、別の考え方を採用する能力」を失っている。
オランドは、累進税率の導入、労働市場改革、銀行システム改革に失敗し、金融権力(富裕層)に取り込まれてしまった。そしてそのフランスの金融権力は、欧州中央銀行を通じて、ドイツに従属してしまっている。
ドイツの覇権の源泉は、「国民に規律を重んじる人類学的素質(社会民主党による給与水準抑制策の実施)」と「国内産業の工場を部分的にユーロ圏外に移転し、フランス、イタリア、スペインに対して競争的なディスインフレ政策を実施し、そこからユーロ圏をまるごと捕獲した市場のように使って、そこから巨額の貿易黒字を引き出した」戦略にある。
こうした著者のドイツ脅威論およびユーロ・ペシミズムについて、どう考えるべきなのだろうか?
まずドイツ脅威論については、ヨーロッパに歴史的に存在する「ドイツ問題」の現在という観点から見ていく必要がある。ドイツという、大きな潜在力を有する民族国家が欧州の中央部に存在することが、歴史的に常に欧州の不安定をもたらしてきたことは、今更繰り返す必要もない。そして、その歴史を繰り返さないために、第二次大戦後、ドイツを欧州の中に組み込む「(欧州のドイツ化ではなく)ドイツの欧州化」の試みが、EECからEUにいたる欧州統合の試みであったことも、周知の事実である。そして冷戦の終了に伴い、ドイツ再統一の可能性が浮上した際、「ドイツの欧州化」をいっきに完成するために利用されたのが、ユーロの導入(=「マルク」の放棄)という切り札であった。ドイツは、その経済力の鍵であったマルクを「欧州」に引き渡す代わりに、再統一を認めてもらったわけである。
しかし再統一後、ユーロの導入までに議論されたのは、新通貨である「ユーロ」は、マルクと同様、信頼性に担保された「強い」通貨でなければならず、新たに設置される欧州中央銀行(ECB)は、ユーロの安定性を確保することを主たる任務とするという、旧ドイツ連邦銀行の金融政策を継承することであった。ECBの本部が、ドイツ連邦銀行のお膝元であるフランクフルトに設置されたのも、そうした「ドイツ的金融政策」を継承するための担保と捉えられたのである。
既に、ECBのフランクフルト誘致とその後のユーロ導入の条件設定の過程で、ドイツの発言力が高まっていったことは、この時期フランクフルトで、この過程を眺めていた私の目にも明らかであった。更に、かつては政治的には独自行動を控えていたドイツが、この時期旧ユーゴ紛争などで、独自の動きを取り始めていたことも、私の目にはやや不安に映っていた(別掲、「ドイツ読書日記、序文参照」)。しかし、それでも、私がドイツに滞在していた90年代は、安定したドイツーフランス関係の下で、ドイツの突出した政治的な動きは抑えられていたように思われる。
1998年12月、ユーロと各構成国通貨との交換レートが固定され、翌1999年1月1日より、まず決済通貨として、続けて2001年からは現金としての流通が始まり、また同年のギリシャの加盟などを受け、当初11カ国で開始されたこの統一通貨は、現在では欧州連合加盟国28か国中、19カ国で法定通貨として採用されるに至っている。しかし、世界経済が順調に成長した2000年代前半はともかく、2008年のリーマン・ショックを契機にマクロ経済が逆回転を始めると、ユーロが構造的に有していた欠陥が表面化することになる。即ち、リーマン危機は、まずは証券化商品の投資家としての欧州の民間銀行の財務基盤を直撃し、続けてその金融システムを救済せざるを得ない個々の国家財政の問題をあからさまに提示することになったのである。それは「PIGS」といった蔑称で呼ばれることになる、南欧諸国を中心とする国家債務危機という形で顕在化する。一元的な政治主権の裏付けのない統一通貨は、生産性の格差により、各国の財政状況が大きく変動した際に、通貨としての信任の危機をもたらす。その構造問題が先鋭化したのが、昨年以降発生したギリシャの債務危機を巡る欧州内での大きな論争であり、この過程で、特にドイツが、ギリシャの徹底的な緊縮財政による再建を主張したことで、ギリシャの国内世論を中心に「ドイツ横暴論」が盛り上がることになるのである。
ただギリシャ問題については、経済的には、公共セクターへの依存が過度に大きく、生産性の低い国が債務超過になるのは当たり前で、その財政破綻を回避し、通貨全体への信任を確保するために、「汗を流す」必要があるのは当然である。かつてギリシャと共に財政悪化に見舞われたポルトガル、イタリア、スペイン等、他の「PIGS」諸国も、自己努力により財政のある程度の再建を成し遂げたのであり、当該国がユーロからの離脱を自ら選択しない限り、ヨーロへの参加条件を達成・維持し続ける努力を行うことは当然の義務である。その意味で、もちろん政治主権の存在しない統一通貨という、そもそもの構造問題はあるにしても、ギリシャ問題で強行に主張されたドイツの見解は、決して「ドイツの横暴」とは言えない正論であると考える。
しかし、ここでのトッドの議論は、まさに「ドイツの脅威」が、こうした経済問題を超えた政治問題として今や顕在化している、という点がポイントになってくる。そもそもユーロ導入以前に、欧州の中ではドイツの経済力が際立っていたことは今更繰り返すまでもないが、ユーロの導入により、ドイツは域内での経済覇権を一段と強化したことも、著者が指摘しているとおりである。その推進力は、著者は「ドイツがユーロ圏外の低賃金労働力を活用したから」であるとしているが、それ自体はドイツ以外の国、例えばフランスでも活用できた資源である。もちろん、その低賃金労働の提供地は、ドイツの影響が大きい後背地であった、ということはあるが、それはドイツが冷戦後の旧東欧各国を、フランスなどの他国よりも経済的に巧みに利用したというだけのことに過ぎない。そして著者が指摘している「ドイツの権威主義的」国民性も、ユーロ圏内でドイツが労働生産性を高める圧倒的な競争力を有していたということと理解される。著者のユーロ批判は、そうしたドイツの生産性上昇に対し、ユーロが導入されたため、フランス等の他の域内国家が、通貨操縦による保護貿易ができなかった、という点にあるが、これはユーロの歴史的意義を考えると、然程説得力のある議論とは言えない。
従って最大の問題は、こうしたユーロ域内での「ドイツの経済的一人勝ち」という状況が、欧州あるいは世界秩序の未来に対する「政治的脅威」をもたらすかどうか、ということになる。
この点では、既に述べたとおり、ドイツ統一直後の90年代初頭にも、クロアチア独立承認のように、ドイツが政治的に独走する局面は現れ、それがその直後のユーロ内戦泥沼化をもたらしたと非難されたが、それが中長期的に欧州秩序全体を揺るがす問題になったかと言えば、結果的にはそうした懸念は杞憂に終わった。そして現在著者が懸念しているウクライナを巡る「ドイツの独走」も、決して欧州ないしは世界秩序を長期的に大きく揺るがす問題になるとはとても思えない。著者が指摘している、「ドイツの権威主義的国民性」はそのとおりであろうが、それにより、「ドイツの指導者たちが支配的立場に立つとき、彼らに固有の精神的不安定性を生み出す」かと言えば、その状況はかつてとは大きく異なっているというのが私の考え方である。それは何よりも、マルクを捨てて、ユーロという共通通貨を選択したことで、ドイツは欧州の一員として生きることを選択したのであり、それは何よりも2回の大戦を含め、多くの戦禍に見舞われた欧州近代の歴史に対する厳しい反省に裏付けられたドイツの選択であったのだから。そして何よりも、欧州各国の首脳から実務家レベル、そしてそれぞれの国民間の対話・交流のパイプは、以前とは比較できないほど強くなっている。そう考えると、著者のドイツ脅威論は、ドイツの経済権力増大をそのままドイツの政治的脅威に結びつける、やや短絡的な議論のように思えるのである。
もちろん短期的には、アメリカとの関係を含め、ドイツが個別の課題で関係諸国との間で軋轢をもたらすこともあろうが、それが著者が懸念しているような決定的な対立にまで至ると考えるのはやや誇張であろう。その意味で、著者の見解は、19世紀的な欧州における勢力均衡論という、言わば「不信の時代の政治学」を引きずった旧時代の発想であり、平和のための統合というユーロを嚆矢とする、さらに続くであろう未来志向の欧州の試みに水を差す議論であるといわざるを得ない、というのが、著者の議論に対する私の総括的な感想である。
読了:2015年8月1日