問題は英国ではない、EUなのだ
著者:エマニュエル・トッド
「帝国以後」以降、特に最近は新書の出版が目立つ著者の最新刊の新書であるが、本書は書下ろしではなく、日本の研究者が、著者の日本滞在中に行った講演やインタビューを日本人用としてまとめたものである。その結果、これは何か新しい発想を提示するといったものではなく、著者が従来から主張してきた「グローバリゼーション・ファティーグ(疲労)」や、ドイツ脅威論、そしてドイツに事実上支配された現在のEU体制への批判などを、改めて繰り返すものになっている。ただ日本人向けに編集されていることから、論旨は分かり易く、更に著者の経歴や思索の過程なども紹介されていることから、著者の主張への賛否はともかく、その考え方を理解するには最適な作品である。
言うまでもなく、著者の論旨の基本は、「経済と社会のグローバル化」が、今や解体の途上にあり、その意味で世界は大きな歴史の転換点に立っている、という認識である。これはその解体が不可逆的なものか、それとも一時的な後退と捉えるかという議論であるが、著者は人口動態論やある種の家族・宗教社会学的な立場から、それが前者であると主張している。
この主張自体には私は従来から反対である。著者は、人口動態や家族関係の形態により「科学的」な観点から予測を行っている、と主張しているが、基本的に人間が作る社会については「決定論」はありえない、そしてこうした「予測」は場合によっては「自己実現的予測」にも、「自殺的予言」にも転換しうるし、それを規定するのは、その時々の「人間の意志」とその社会関係全体との間のコミュニケーションである、というのが私の基本的な確信である。そうした中で、確かにソ連という「人工国家」は、著者の予測どおり破綻したが、EUという別の形での「人工共同体」は、もちろん多くの困難を抱えながらも、引続き欧州の指導者たちが目指す「目標=理想=夢」であり続けるべきであると考えるのである。その理想に向けて克服すべき問題を指摘し、その解決を模索していくのであればともかく、それを初めから放棄し、決定論的に「EUは破綻する」と予言するのは、あまりにロマンの欠片もない議論である、と思うのである。
そうは言いつつも、「克服すべき問題」という観点で著者の議論を見直すと、それはそれで幾つかの示唆に富む指摘はある。ここではそうした観点から、著者の議論を見ていこう。
「ヨーロッパとは何か?ヨーロッパとはドイツを怖がるすべての国民の連合だ・・。そしてこの定義はドイツ人も含む」。今日のヨーロッパの問題は、アメリカの戦略的失敗とフランスの臆病さによって、ドイツ人たちがもはやドイツを恐れなくなったことなのです。
英国のEU離脱についての冒頭の議論で、著者はこのように現代の欧州を規定する。著者にとっては元々自由主義的で個人主義が徹底している英国が、官僚支配でドイツの権威主義が益々顕著になるEUから離脱する、というのは至極自然の流れであり、これによって困難に直面するのは、旧英連邦という基盤を有する英国ではなく、英国というバランサーを失いドイツの経済支配を受け入れざるを得なくなるフランスを初めとするEU諸国である、と看做すのである。実は、こうした著者の英国贔屓、ドイツ嫌いの背景には、後で明かされる、父型の祖母が英国人であったり、本人も若い頃にケンブリッジで研究者となった、そして息子も英国籍を取得したという個人的背景もあるのであるが、「現在のフランスは、ドイツの傀儡となったペタン政権のよう」とまで言われると、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。
そもそも歴史的に欧州統合の意味合いは2つあった。一つは、2回に渡った壊滅的な欧州での大戦を受けて、戦争の種を除去する枠組みを作ること、そして2つ目はグローバル化が進む中で欧州の存在感をどのように維持、あるいは高めていくか。前者は、ドイツ問題として提示されるドイツの政治的脅威を如何に抑制していくかという発想で、そこではドイツを欧州の一員として取り込んでいくということが大きな目的として設定された。そして2つ目は、特に欧州全体としての政治、経済統合を進めることで、世界における欧州の存在感を維持、高揚させていく、ということが目標とされた。
おそらく著者もこれは十分認識していると思うが、欧州通貨統合の過程でドイツはマルクを放棄し、経済的に欧州に賭けるという意志を明確にした。と同時に、新通貨であるユーロの通貨価値を安定させるために、欧州全体として緊縮的な金融・財政政策を主導してきた。これが、そもそもの産業競争力の格差も相まって、現在の「ユーロ圏におけるドイツの一人勝ち」という状況を作ってしまった。しかし、これは一国内でも、都市・農村格差問題などの形で現れる現象であり、もちろん放置はできないにしても、政治的に緩和させることはできる問題である。更に、経済的な支配力が高まったからといって、ドイツがかつてのように、域内における政治的な支配を行う、あるいはそれを達成するために軍事力に訴える、という可能性は非常に限られている。その意味で、欧州統合は、その一つの目的を達成し、そして将来に向けてもそれを維持していく意味は否定することはできない。
それに対し、2つ目の全体としての競争力は、かつての国民経済の逆戻りした場合は、明らかに失速することが見えている問題である。英国の離脱にあたって、英国内でも最大の議論となったのは、離脱後の英国の産業競争力、そして政治的影響力を維持できるのか、という疑問で、結局英国民は、そうした競争力を失っても、EUの官僚主義から逃れることを選択したということになる。著者が指摘しているように、英連邦を有する英国は、それなりにEUから離脱しても、それなりに自分の経済圏を維持できるかもしれないが、大陸欧州は、個々の国民国家に戻った場合は、そうした競争力と存在感を維持できないことは明らかである。その意味で、(決定論的な議論であるが)著者が欧州統合の解体を志向するのは、こうした欧州全体としての競争力や存在感を無視した議論であると思われるのである。もちろん著者が指摘する「グローバリゼーション・ファティーグ(疲労)」は事実としては発生しているが、そうした困難を乗り越えないと欧州の将来はない、という意志が著者には見えていないのである。結論的には、EU統合は、著者が指摘している困難にも拘らず維持・進化しなければならず、そのために、そうした困難を如何に克服していくかが問われなければならないのである。単に、その圏内でのドイツの支配力とフランスの凋落を嘆くことからは、何も生まれないのである。
確かに、著者が指摘しているとおり、社会の認識は、ドイツ的観念論からではなく、実際の人々の生活実態を踏まえた事実の世界の積み重ねからしか見えてこない。そして、そうした事実関係が多様性に満ちていることは当然であるが、それはただ社会の解体を促すだけのものではない。事実が見えてきたところから、今度は観念論が登場し、ある目的のためにそうした多様性が克服されなければならないとすれば、それはどのように行われるべきなのか、という意志の世界に入る。その意志、あるいはあるべき姿を模索するという観念論が著者には全く欠けている。
それでも、例えば「外婚制共同体家族の分布」と「共産圏の地図」が重なっているので、ソ連や中国が「実質的に従来の共産主義から離脱して(中略)市場経済に転じたといってもそれらが独特の形態をとる可能性や様々な困難に直面する可能性がある」といった指摘は、それなりに検討する価値はある。また「『自由』が脅迫観念になっている西洋人」よりも、「権威主義的な」日本の方が「内面的により自由」(「リベラルな文化の盲目性」)という指摘も、大部分は日本の読者に対するお世辞だとしても、逆説的な見方として面白い。さらに「ネオリベラリズムの根本的矛盾」として「個人の自立は公的・社会的援助制度、つまり(中略)国家を前提としているのに、そのことを理解していない」という主張も、著者のグローバリズム批判の文脈から離れた議論として留意すべきだと思われる。他方、アングロサクソンの絶対的核家族の構造は、ドイツや日本の直径家族制の社会に比べ、子供が親から自由であるために、例えば英米では親子間の関係が自由で、その結果社会の方向も世代ごとに大きく変化する傾向にある、という主張は、恐らく現代の全体としての核家族化の中で、あまり差異がなくなっていると思われ、著者の家族社会学の弱点ある。また、イスラムについて、シーア派(やシリアのアサド派)の方が「人類学的」に西欧に近く、欧米がスンニ派のサウジや反アサド勢力を支援するのは無理がある、という主張も、国際政治のバランス感覚を欠く議論で、エリゼ宮が彼の提言を受けなかったのも頷けるのである。
こうして見てくると、著者の議論は、やはり私にとっては簡単には納得できないものが多いというのが正直なところである。しかし、最終章で「私はシャルリ」デモが、「イスラム恐怖症」に毒された運動で、「経済的に抑圧された(モスレム等の)若者を社会から疎外させ、事態をより深刻にしている」と批判しているのは注目される。著者によれば、この動きは「宗教的危機と経済問題で顕著になっている社会の統合能力の低下を前にして、指導者だけでなく、中産階級全体が、本来取り組むべき問題を解決しようという気持ちを失って」「危機の本質から逃れるために、フランス全体がイスラムに対して戦争状態にあるかのように信じようとしている」と批判している。これは著者が、別の新書で訳が出ている「シャルリとは誰か?」で主張した議論であろうが、この結果、著者は社会からの圧力に晒され、「言論の自由を失った」とまで言っている。この点に関しては、言わばサルトル等が声高に主張した、異端児としての知識人の面目躍如であり、この新書も今度眺めてみようと思えるのである。しかし、そのようにモスレム移民の支持とも取れる発言の一方で、ドイツ、メルケル首相の難民受け入れ政策は「倫理的には立派で、経済的には合理的。しかしながら、人類学者の観点から付言すれば、非現実的で非合理的」ということになる。いったい著者の規範はどこにあるのか?まさか、「科学の中立性」という欺瞞の中に逃げるのではないだろうな、という感覚を含め、多くの疑問を最後まで抑えることができない著作であった。
読了:2017年3月10日