アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
シャルリとは誰か?
著者:エマニュエル・トッド 
 ここのところ、何冊か新書での「反EU、反ドイツ」本を読んできた著者による、別の新書であるが、これは最近読んできた「編集物」ではなく、書下ろしの作品ということもあり、結構読み応えがあった。というよりも、フランスの思想本を読む時の、文体のまどろっこしさと回りくどいロジックの展開に、久し振りに苦労しながら、読了までに相当の時間を要することになってしまったというのが正直なところである。2015年1月7日、ムハンマドの風刺画を掲載したフランスの出版社シャルリー・エブド編集部が、モスレム過激派の襲撃を受け合計12名が殺害される。同時に発生したユダヤ食料品店でのテロと併せ、フランスのみならず、欧州の政治家を先頭に、一般市民も加わり、反テロリズムの大街頭デモが組織され、その際に参加者が口にしたり、シャツに印刷した「私はシャルリ」という言葉が、一種の流行語となる社会現象が発生した。「人種差別と没落する西欧」という副題が冠された本書は、そうした「ヒステリーの発作」(著者)の中で、著者が抱いた違和感と、そのために孤立することになった状況を厳しく批判した作品である。

 確かに「私はシャルリ」のデモ行進は、反テロリズムの運動として、一見支持することには何の問題がないように思える。しかし、著者が抱いた違和感は、むしろそのテロの原因であった「ムハンマドの風刺画」を、「表現の自由」という価値観で無条件に擁護する社会の風潮であった。より具体的には「現在のフランス社会を支配している中産階級が自己批判能力を欠き、経済的特権の中に閉じ籠り、宗教的不安によって内面を穿たれ、イスラム恐怖症にのめり込んでいる」という認識である。そして更にそれは「反モスレム」に留まらず、「反ユダヤ主義」を含めた「レイシズム(人種差別)」の台頭を促していると見る。その社会学的意味合いを、彼の得意とする実証的な宗教や家族形態、そして人口動態分析から議論していくことになる。
 
 基本的な視点は、「昔からライシテ(世俗性)の伝統が定着している中央地域と、不平等主義的で、「ゾンビ・カトリシズム」の濃厚な周縁地域の間に存在する振舞い方の差異」に注目することで、宗教意識の崩壊が、こうした「外人恐怖症」をもたらしていることが見えてくるという。そしてそれはフランスにおけるカトリシズムの衰退だけではなく、「ヨーロッパにおけるイスラム恐怖症の震源が、フランスの外に、もともとプロテスタンティズム、なかでも運命予定説の不平等主義的概念を不幸にも受け継いだルター派信仰の強かった地域に位置していること」で、欧州のキリスト教文明全体の危機に繋がる懸念があると見る。そしてこの議論を、フランスの地域ごとの宗教性の変遷や、「シャルリ」を巡るデモの参加者の属性を統計的に分析すること等で示していくことになる。

 この実証分析は、もちろん議論の重要な核心なのであるが、正直読んでいてもややへきへきする位なので、詳細は割愛する。著者がそこで示そうとしているのは、宗教性が薄れつつも依然その影響が残っている(「ゾンビ・カトリシズム」=「カトリック的サブカルチャーの残存形態がカトリシズムの死んだ後もなお生き延びている」現象)地域を中心に、宗教意識の希薄化と共に潜在的な「家族的不平等」が、例えば大統領選挙やユーロへの態度に関わる人々の投票行動を含めた社会行動に影響を及ぼしているという点である。それは宗教が希薄化する中で、新たな宗教を求める行動で、著者は明示していないが、既にE.フロムが「自由からの逃走」などで示してきた人々の潜在意識の中にある不安を示している。そしてそこでは「もはや使えなくなってしまった自前のカトリシズムに代わるスケープゴート」として「イスラム教の悪魔化」がその一つとして登場するのである。著者は、「シャルリ」のデモ参加者の地域別、階層別の統計を基に、こうした傾向が最も顕著に出ているのが、今やフランス社会の人口構成上も圧倒的な多数派となっている「管理職、上級職、カトリック教徒のゾンビ」であるとするのである。また更に重要なのは、「管理職、上級職」といった階層は、かつては「平等主義的なフランス」を代表していた。それが今や「内部崩壊」しつつあり、「平等の価値がフランスで、ヨーロッパで、そして実を言えば先進国全体のなかで、元気を失っている」という点にあるという。

 「平等の後退」の、歴史的、哲学的な意味合いが、ドレフュス事件やT.ピケティ等にも言及されながら議論されるが、著者によれば、「シャルリのデモ」は、「反モスレム」、「外人恐怖症」として「反ユダヤ主義」と同様の、「反平等意識」の表現であり、今やそれは極右勢力だけではなく、社会党、共産党にも広がっている。

 他方で、マグレブ出身者を含めたフランスのモスレム社会は、異民族間結婚などを通じ、今や若者を中心にどんどん同化してきており、1930年頃「ヨーロッパのユダヤ人たち」なるものが存在しなかったように、今日「フランスのイスラム教徒たち」など存在していない。教育水準でも、モスレムの水準は上昇しており、職業的にも管理職から労働者まで、伝統的なフランス人と同じような職業多様性を示している。それにも関わらず、こうした社会的・宗教的カテゴリーが、時として国民感情の中で拡大する。それが著者にとって最大の懸念なのである。

 著者によれば、フランス社会の問題はモスレムや移民ではなく、若者全体の希望が失われており、それに政府が対応できていないという現状である。ジハードに多くのフランスの若者が志願しているというが、その中にはキリスト教からの改宗者(志願者の20%という説もある!)も含まれている。そしてそれはフランスだけでなく、すべての先進国に共通しており、「若者の問題はその一般性において扱われなければならない」ということになる。そしてそれに対する著者の回答は、宗教が果たしてきたポジティブな役割、そしてキリスト教であるか、ユダヤ教であるかを問わず、それが「非常に文化水準の高い諸民族を輩出した」歴史的事実から見ると、「社会の発展の中で、信仰の方が教育の大衆化に先立つ」ということを重視すべきだ、ということになる。そしてイスラム教についても、それが持つ「人々の平等という強い価値観」は、フランス社会の伝統と決して矛盾するものではなく、フランスが伝統的に掲げてきた「自由・平等・博愛」を再び蘇らせる触媒にも成り得る可能性を秘めている。逆に既にフランス社会に同化しているイスラム教徒を疎外すれば、「フランスの都市郊外や地方で穏やかに暮らしているイスラム教徒の自己防衛的な信仰を硬化させる」し、また「レイシズム(人種主義)がいったん人々の意識を支配したら、その標的は決して特定のカテゴリーに固定されず」、反ユダヤ主義や反外国人感情を更に刺激することになる。そうした文脈から、著者は、「フランスはイスラム教徒の市民たちに対し、彼らの宗教を自由に実践することを、そして、もし彼らがそう思うならば、ムハンマドの風刺は猥褻だということを拒否できるわけがない」、即ちモスレムを「ネイションの構成要素」として正当化すべきだ、と主張する。「私は長い間、あらゆる出身の移民―ユダヤ人、アジア人、イスラム教徒、黒人―を同化する自分の国の能力に絶対的な信を置いていた」し、これからも「同化主義者」であると宣言する。もちろん「それまでの道のりは、私が20年前に想像していたのよりもはるかに混沌としていることだろう」、と認識しているにしても。

 最近読んだ著者の他の新書は、ユーロ及びそこでのドイツの覇権を批判するものがほとんどで、正直その伝統的フランス・ナショナリズムとドイツ恐怖症にややへきへきしていた。しかしこの作品は、もちろんそうした議論も時として顔を覗かせているが、むしろ、大衆迎合的な政府のキャンペーンを、より高い観点から冷静に眺め、且つ深い議論で批判するという点で非常に共感するところが多い。もちろん、冒頭に書いたように、その議論は、実証的ではあるが故に、やや冗長で、論点が分かり難いところもあるが、こうしてもう一回全体を追ってみると、非常に一貫していることが理解できる。彼がユダヤ系ということもあるのだろうが、フランスの伝統的な価値を重視しながら、それが崩壊する過程で、偏狭なナショナリズムとイスラムや外人への恐怖症が顕在化していることを、大多数の感情から離れて警鐘を鳴らしているのは、かつてサルトル等が活躍した、しかし現在はほとんど失われてしまったフランスの批判的知識人の面目躍如という感がある。フランスは、歴史的に、フランス語さえ十分に習得していれば、人種に関わりなく活躍の場を提供してきた伝統がある。そうした伝統が、大衆社会の成熟と共に失われ、既得権益を有し、他方で宗教的な安心感を失った人口的に多数派である中間階級の情動により、危険な差別主義と異質性の排除に至る可能性が高くなっていることを、この作品は改めて我々に気づかせてくれるのである。

 但し、宗教性の希薄化というのは、先進国における不可逆的な流れであることから、この解決に向けて、宗教意識を再度復活させる、という選択肢は考えられない。E.フロム以来の議論が模索してきたように、宗教を含めて、世俗化という「自由」が広がる中で、それに代わる安息の絆をどこに求めるかについては、著者は明確に述べている訳ではない。それが、かつては社会主義や共産主義思想であり、また現在はモスレム過激主義に取って代わられている、と言えなくもない。欧州にとってのユーロというのは、そうした一つの「イデオロギー」にも成り得る理念であったが、それに対しては著者は常に批判的である。この作品を読む限りは、著者の理想は、フランス的な「自由・博愛・平等」を復権させるということなのであろうが、そうした一国単位での理念ではもはや、モスレム過激主義のような「ラジカル」で、「グローバル」な理念には対抗できない。それを構想することが、まさに欧州を始めとする先進国の知識人に求められていることも、この作品は示すことになったのである。

読了:2017年10月25日