ヨーロッパから民主主義が消える
著者:川口マーン惠美
ピアニスト出身でドイツ・シュトゥッガルト在住の著者による、2016年1月出版のユーロ論である。この著者とその著作はかねてから知ってはいたが、軽いドイツ論という感じで読む気にならなかったが、今回はユーロについてということで初めて手に取ることになった(その後、実は同じ本を2016年2月に読んでいたことが判明した。ここでは重複するが双方を掲載しておく。)。欧州関係では、直近はコロナ関係がニュースの大半を占めることになっていることで忘れられているギリシア債務問題や難民問題の2016年時点での状況を、著者は、現地での各種報道等を基に、当初予想した以上に鋭い視線から分析、報告している。
まずギリシア債務危機であるが、かつて2008年のリーマンショックから続いた、この国を含む南欧諸国の債務危機が言われてから久しく、その後、2014年に金融業務から離れた後は個人的には関心がやや薄れていたが、改めて2010年代半ばに、ギリシア債務問題が脚光を浴びていたのを思い出した。当時、新たに首相となった若いチプラスとユーロ関係者の協議は頻繁に行われていた。そもそも、著者がここで触れているように、1990年代、GDPの10%を超える財政赤字であったこの国が、またたく間に財政の健全化を進め、2001年に、ドイツやフランス等の第一期組に遅れること3年でユーロ圏に参加することになったのは驚きであった。そしてしばらくの間、ユーロによる補助金の効果によりバブルを享受したものの、もともと産業競争力もなく、それを高める投資等の経済対策を怠ったこの国が、リーマンショックにより改めて問題化となることも必然であった。結局、2010年から2012年にかけて、EU、IMF、ECB(トロイカ)の圧力に屈し、2400億ユーロの補助金と1000億ユーロの負債の返済免除の代償として、民営化や外国資本による優良セクターでの買収、そして増税と年金・賃金カットを受け入れざるを得ず、たちまちこの国は大不況に陥ることになる。当然国民の不満は、そうした経済・財政政策を押し付けたユーロ当局、なかんずくそれを実質的に率いるドイツに向けられる。2015年、そうした国内世論が、左派急進派のチプラスを首相に引き上げ、再びドイツを核とするユーロ当局との対決に向かわせたのは、これまた自然の流れであった。他方、ドイツ等の財政優良国の中では、そのそも「ユーロを守る大義が何か」、あるいは共通通貨自体がこの問題の原因ではないか、という「ユーロ不信」が改めて広がることになる(因みに、ドイツが、2015年に財政収支を黒字化した、というのは、私は余り認識していなかった)。それはかつてワイマール・ドイツが第一次大戦後の賠償金の圧力から崩壊し、ナチスの登場を促したことを連想させる。その意味で、この2016年前後は、ユーロが大きな危機に立たされていた時期であったことは間違いない。
また著者は、「強いドイツを牽制するために導入されたはずのユーロが、皮肉にもドイツ経済をどんどん強くする結果になった」として、為替変動のないユーロ域内で、ドイツの輸出が加速したことを指摘している。他方で、周辺諸国からの安い労働力の流入もあり、賃金水準が抑えられていることもあり、ドイツでの所得格差が拡大している点や、徹底した緊縮財政によるインフラの劣化といった後遺症も出てきていると指摘している。2015年に表面化したフォルクスワーゲン社の不正ソフト問題も、企業利益の極大化のため、その技術力を悪用したとして、環境重視を掲げるドイツに対する不信を広げることになる。そしてそのドイツに対するユーロ域内での不信を更に高めているのが、次のテーマである難民問題であるということになる。
難民問題に対してメルケル政権は、ドイツ憲法に規定される「庇護権」に基づき、受入れに積極的な姿勢で臨んできた。しかし、ドイツでの好待遇を期待する難民は、陸路では直接ドイツに入ることが出来ない。他方、ダブリン協定で、ユーロ圏に流入する難民は、その入国地で庇護申請を行う必要があると共に、そこで難民認定をした国は、彼らを自由にその他のユーロ諸国に出国させることはできない。その結果、トルコ、ギリシア、クロアチアやスロベニア、地中海等を経てドイツを目指すシリアや北アフリカ諸国からの難民たちが、「EUの外壁」であるイタリア、ギリシア、ハンガリー等に溢れる事態を招くことになる。また、ドイツには、そうした本来的な「難民」に加え、法制上認めていない「安全な第三国」からの難民や政治亡命者が、コソボ、アルバニア、モンテネグロ、セルビアといったバルカン諸国から、「認定されないこと」が分かった上で入国しているという。2015年10月、ドイツでは、「難民審査を迅速にする法」が成立した(ロマ等を念頭に置き、緑の党やアムネスティは、この法に批判的である)が、それでもこうした難民も大きく減少している訳ではないようだ。当然背後には、こうした双方の難民に付け込む犯罪組織も暗躍している。
こうしたドイツの姿勢は、「EUの外壁」となっている国々からの批判を招き、メルケルは、例外的にハンガリーにいる難民を受け入れ、ダブリン協定を反故にするような判断も下すことになる。他方で、それによりハンガリーから到着した難民は、「ほとんどが小綺麗な身なり」で、ヒゲなども剃った人々も多かったという。これは難民の移動ルートに、各種の商店が立ち並び、「難民ビジネス」が猖獗していることが理由であるという。また到着した難民を、「良質な低賃金労働力」として歓迎するドイツ企業もある。他方で、ドイツは、シェンゲン協定にも関わらず、国境検査を再開するという、相反する政策も決定したが、これは「人口9000万人の国で、1年で80万人の難民を受け入れ、穏便に消化できるのか」という与党内のメルケル批判に対応したものである。難民間での暴力事件も慎重論を促す等、ドイツの難民対応は右往左往することになる。そしてこの問題に対しては、そもそも難民発生の原因である中東紛争の和平に向けた動きも出たようであるが、これが進んでいないのは、現在から見ても明らかである。こうした混乱は、メルケル政権への支持低下と右翼勢力の伸長を招くことになる。こうして難民問題は、ドイツにとってもEUにとっても大きな火種になる。そして統合するはずだった国々の国家主義は強まり、「EUはその輝かしいプランからどんどん脱線」していくことになる。
こうした中、2015年11月、フランスではイスラーム過激派によるテロの嵐が吹き荒れ、特に週末のコンサートで多くの犠牲者が発生した事件は、時のホランド政権に「非常事態」とその期間延長を出させるまでに至り、フランスの「民主主義と自由」が脅かされる状況が強まっている。しかし、それはそもそも中東やアフリカの植民地宗主国であった欧州諸国が人為的な国境線を引き、また特にアフリカ等では、そうした旧宗主国の大企業が、引続き一部の現地勢力と組んで、希少資源から独占的利益を上げていることがテロや難民発生の原因になっていると著者は主張する。こうして統合を進化させようというEUの理想とそこでの民主主義は、政治の混乱により脅かされている。この本の書名はそうした状況を示唆することになる。
2021年末の現在、ギリシア債務問題も難民問題も、メディアからは全く聞こえてこない。前者の債務問題については、コロナによる財政出動から、中核諸国でも債務残高/GDP比率は、加盟の基準である60%を大きく上回る状態になっており(IMFによると、2020年で、イタリアが156%、フランスが115%等―2021年12月6日付朝日新聞記事)、個々の国の問題を議論する余裕はない。また後者は、同様にコロナで実質的に各国とも「国境閉鎖」の状況にあることから、難民の動きは抑えられていることが話題とならない理由であろう。しかし、それはコロナという特殊要因故で、双方とも、コロナ収束の暁には、再び規模を拡大した問題となって顕在化することは間違いない。時は偶々、この12月8日に、ドイツを16年にわたり率いてきたメルケル首相が引退し、SPDのショルツが政権を引継ぐことになった。ショルツ新首相は、「親欧州派」で欧州財務危機でも南欧支援に積極的であったとされる。更に、新政権が緑の党も加えた連立となることから、気候変動への対応も加速することになると思われるが、これも当然財政拡張を前提せざるを得ない。また難民問題については、上記の「国境閉鎖」もあり、新政権の対応予想は現時点では聞かれないが、この本によると、地方自治体を握っているのはSPDが多いことから、彼らは、右翼の移民排斥には抵抗感を持ちながらも、受入れ増加には及び腰であるとされている。コロナが落ち着いてきたタイミングで、ショルツ主導の新たなドイツの連立政権が、こうした問題にどのように対応していくかは、そしてその他の欧州諸国がそれにどう反応するかは、引続き注意深く見て行く必要があろう。
2021年12月5日