揺れる大欧州 未来への変革の時
著者:A.ギデンズ
著者については、1990年代に「第三の道」という著作が日本でも話題となった。私は結局読むことがなかったが、当時英国で政権を獲得し、「ニューレイバー」としてそれまでの英国政治の構造を変えたブレアの理論的支柱となった著作である。それから約30年、久し振りにこの著者の本を図書館で見つけることになった。既に70歳代となっている著者の、欧州統合への提言ということで手に取ってみた。彼の議論で、英国でも依然「欧州統合派」も存在していることを確認できたが、他方で2014年の著作ということで、その後の英国によるEU離脱という大きな転換を踏まえていない分だけ、議論の説得力が弱まっていると感じざるを得なかった。この離脱を受けて、著者は英国とEUとの関係をどのように考えているのか、それを知る機会があれば、という想いを強く持った次第である。
そうした不満はあるが、もちろん著者の欧州統合をめぐる展望や課題の議論は、英国離脱後の欧州問題を考える上で大いに参考すべき点を含んでいる。ここではそうした点を中心に簡単に見ておきたい。
2014年というのは、2008年以降顕在化するリーマン・ショックを受けた欧州での債務危機の余波がまだ残っていた時期であることから、著者の議論にもそれが影を落としている。まず彼は、EUが「市民から遠い存在」であり、「EUは効果的なリーダーシップと民主主義を同時に欠いているというのが決定的な問題である」と言うが、それが、平時はともかく、債務危機のような「緊急ないしは重大な決定が必要な時」に問題を露呈するという。具体的には、欧州委員会、理事会、欧州議会といった正式機関が事実上対応できない場合に、「大国出身の少数の人々(「通常はフランスとドイツ(中略)、時には国際機関の長が加わる」)が対応に乗り出し、なすべきことを絞り込み、実行する」という実態を指している。著者は、前者を「EU1」、後者を「EU2」と呼び、後者の非公式の部分が「分裂と対立、もう一つは事実上の統合」という「相反するプロセス」の原因になっているということになる。そして「EU2」について、もっと言ってしまえば、それは「軍事的征服では手にできなかったヨーロッパ制覇を、平和的手段で達成したようにも見える」ドイツに対する「恨み」が「ヨーロッパ大陸分裂の根源にある」ということになる。外から見ていても明らかなように、依然欧州では「ドイツ問題」が課題として持続しているということになる。
こうした観点から、まずギリシャの債務危機を始めとする財務・金融問題が議論されるが、ポイントは、これへの対応として挙げられた欧州預金保険制度や欧州債といった提案が、メルケル(「EU2」)の拒否により葬られたことが指摘される。そしてこの「EU1」と「EU2」の分裂を克服する道は、「現在は虚ろに響き、またたくさんの異なるモデルがある」ことを認めた上で、「欧州連邦制」を真剣に検討する以外にない、という著者の信念が表明されている。著者によれば、現在世界中が抱えている投票率の低下、政治指導者への不信、多様なポピュリズムの台頭といった現象は、「相互依存の加速する時代において国民国家が限界に来ているから」で、それを克服する」ためにもEUは、その統合の理念を「連邦」という形で模索すべき、というのである。もちろん障害が多いことは著者も十分理解しているが、その理想主義的な理念は依然意味は失っていないと思われる。ただこの時点での英国のEUへの対応についても議論しているが、この著作後の2016年6月、英国はEUからの離脱を決定、その後2020年1月末に離脱した事実を考えると、これについての親欧州派である著者の嘆きが聞こえてきそうである。
以降は、EUとしての財政政策(緊縮策か、投資による刺激策か)、社会モデル(若年失業率の上昇に対する対策や福祉制度の再検討等。著者は「福祉国家から社会的投資国家への転換」という理念を提示する)、「世界市民」としての「多文化」への対応(当然ながら、モスレム移民問題が中心であるが、それに留まらない)、気候変動とエネルギー政策(これは現在でも活発な議論が続いていることは言うまでもない)、そしてEUとしての安全保障政策(NATOとの関係や、既にロシアによるクリミア半島併合と東部ウクライナの親ロシアグループへの軍事支援への対応が大きな課題として提示されている)が詳細に議論される。もちろん、夫々の分野で、EUは多くの困難を抱えている。しかし、こうした議論を経て、最後に著者は、そうは言っても今やEUは「運命共同体」となっているという。特に通貨としてのユーロ参加国のそれからの離脱は事実上不可能なことになっている。それ故に今は「EUが、ただ前進するだけではなく、その歴史的な限界や矛盾を正していく好機でもある」と言うのである。そして「ヨーロッパよ、立ち上がれ!」というチャーチルの言葉で、この著作が締めくくられることになる。
上記の個々の課題については、ここでは詳細には立ち入らないが、もちろん著者の幅広い知識と見識、そして親EU派としての理想主義には敬意を表したい。しかし、繰り返しになるが、2020年の英国のEU離脱に始まり、その後の新型コロナ危機による社会と財政への大きな影響、そして足元では、それまで事実上EUを牽引してきた(EU2)メルケルの退陣とショルツ政権の成立、そして本文中でも触れられているウクライナを巡るロシアとの軍事緊張等、歴史は動き続けている。気候変動問題の様に、その後も継続的に議論が進んでいる分野もあるが、同時にその後の展開が議論の基盤を変えてしまったと思われる分野も多い。こうした現在の状況についての著者の最新の見解が望まれるところである。そして個人的には、やはり著者と同じ「親EU派」としての私も、EUがこうした困難を乗り切り、著者の提示している様な理想的統合体に向かっていくことを期待しているのである。
読了:2022年2月14日