EU離脱ーイギリスとヨーロッパの地殻変動
著者:鶴岡 路人
1975年生まれの慶応大学准教授による、2020年2月刊行の「ブレクジット」についてまとめた新書である。著者があとがきでも書いている通り、2016年6月、英国が国民投票でEUからの離脱を決定してから約3年半の迷走を経て、2020年2月、離脱協定が発効し、「移行期間」に入ったタイミングでの出版となっている。その後英国とEUは、2020年12月にFTAなどに合意し「移行期間」が終了。そして2021年1月のFTA等の暫定適用開始を経て、2021年4月、欧州議会がFTAなどに合意し、これらが「完全発効」され現在に至ることになる。ということで、ここでは2016年の英国国民投票から2020年2月の離脱協定発効に至る約3年半の迷走を整理している。
この時期は、私自身は、シンガポール滞在の最後の時期で、そこから、このかつて滞在した欧州での大きな地殻変動を眺めていた。2016年の国民投票で英国のEU離脱が決まったことは驚きであったが、他方で、かねてから大陸諸国とは一定の距離感を維持してきた英国民がそうした判断を行うこともそれなりに納得できた。しかし、それから最終的な離脱に至る具体的な交渉は、興味深く見ていたが、シンガポールでの情報が限られていたこともあり、必ずしもきちんと追いかけることはできなかった。そしてその交渉がなかなか進まず、時の英国のメイ首相が苦労しているということは理解できても、何が問題なのかは必ずしも理解できないままであった。しかし、2020年秋の私の帰国時期までには、新たに首相に就任したジョンソンの下で、この交渉も何とか決着し、むしろ世間の関心が新型コロナ対応に移っていたこともあり、これが話題になることはほとんどなくなっていた。今回、その空白を埋める形で、その過程をそれなりに認識することになった。その過程は一言で言えば、英国側の「迷走」であり、特にメイ政権の下で与党保守党が議会で絶対多数を確保できず、また保守党、労働党共に、離脱派と残留派に分裂し、夫々の指導者のリーダーシップが発揮できなかったことがその主因であった。
国民投票を経て実務的には粛々と進められていた離脱交渉が迷走する始まりは、2018年11月に、首脳レベルで合意・署名された「離脱協定」と「政治宣言」が、2019年1月の英国下院で「歴史的大差」で否決されたことである。「本来であれば、自らの交渉方針を定め、それに関する少なくとも与党内の合意を確実にしてから、EUとの交渉に臨むべき」であったが、「これらを欠いたことで、後に大きな代償を払う」ことになった、というのが著者の理解である。そしてこの混迷を招いた要因は、ひとえに英国側にあり、それは、@EUからの「離脱」は簡単であるという誤解、A離脱交渉における目標が、「経済的利益」なのか、「主権を取り戻す」という「政治的なもの」かについてのコンセンサスが欠けていたこと、そしてB譲歩できないレッドライン(絶対的条件)に一貫性がなく、「国内向けのその場しのぎ」のものであったことであったとする。こうしてメイ政権は、「合意なき離脱」を避けるための離脱協定案についての試行錯誤を繰り返すと共に、離脱期限の延長を繰り返し、結果的には万策尽きて、2019年5月に辞任することになる。それを仕切り直すことになったのが、保守党首を引継いだジョンソンということになる。
メイ政権の致命傷となったのが、北アイルランド問題であったことは、当時シンガポールからこの交渉を眺めていた私も、何となく分かっていたが、詳細は理解していなかった。今回この新書で、結局、アイルランド本国と北アイルランド間の関税設定の問題が、その鍵であったことが分かった。メイ政権は、両地域の自由な往来を維持するため、イギリス全土を対象とした安全策を受入れたのに対し、ジョンソンは北アイルランド限定の措置を導入することで解決を図る。そして、ジョンソンは、全般としては「合意なき離脱」も辞さない覚悟でEUとの再交渉に臨み、それをもって2019年12月の総選挙で勝利し、国内のコンセンサス作りの主導権を得ることになったのである。
こうして、取りあえずは「合意なき離脱」は回避し、英国のEUからの離脱が決着することになるが、その影響について著者は論じることになる。最も印象的なのは、「EUからの離脱により、英国が主権を取り戻す」というスローガンが多く聞かれたが、実際には「離脱によってさらに主権・影響力を失い、さらには連合王国としての自国の存続自体が危機にさらされることになった」という議論である。そもそもヨーロッパ統合は、超国家的統合を進めることで一国では限界のある世界での影響力を取り戻すことを目的としていた。EUの中で主権は制限されるかもしれないが、そこで主導権を確保することで、EUという大きな統合体の影響力を外に対して使えることになるのである。更に英国は、そこではユーロへの不参加やシェンゲン協定等の「オプト・アウト」、あるいは共通農業政策での一部払い戻しなどの「特別待遇」も享受してきた。EUからの離脱は、そうしたコストを抑えながらEUを通じての影響力を行使することが出来なくなることを意味する。そして更にEUから離脱しても、「地理的に隣接し、かつ最大の貿易パートナーであるEUとの関係は(中略)続く」ことになる。そして関税設定で、北アイルランドをEU側に残したことで、将来的にこの地域が「連合王国」に残るかどうか、という課題や、スコットランド独立問題等も残すことになった。その意味で、この離脱は、英国の今後の統合に多くの懸案を残すことになった、という著者の議論には留意しておく必要がある。
離脱を受けての英国とEUのFTAについて、著者は様々なパターンを提示しているが、取合えずこれは、前述の通り、この著作刊行の一年後、2021年4月、欧州議会がFTAなどに合意し、これらが「完全発効」されたことから、ここで振り返す必要はない。またテロ対策やインテリジェンス、更にはNATO体制については、英国の離脱の影響は限定的である。またこの英国の離脱にあたっては、終始主導権を確保し対応したEU側であるが、当然英国離脱後は、EU内の主権国家のバランスも変わることから、特に中小国を中心にした「英国ロス」も生じているという。そしてそれ以上に、この英国の離脱が「統合から分裂に向かう世界」を象徴しているのではないか、という指摘もそのとおりであろう。この時点では、欧州と距離を取り始めていた米国トランプ政権との関係も別の懸念材料であった。
しかし、結果的には、その後の世界の動きは、この英国の離脱が、別の課題で薄まることになったのは皮肉であった。それは何よりも、2020年2月の離脱協定発効と時を同じくして拡大した新型コロナの世界的感染拡大と、そして足元はロシアのウクライナ侵攻による欧米民主主義国家対ロシア等権威主義国家の対立激化という2つの事件であった。前者は、EU内部においても、感染対策による主権国家単位での国境閉鎖をもたらし、英国・EU間のみならず、EU国家内での人流や物流の停滞という事態を引き起こす。そして後者は、言うまでもなく、英国・EUを含めた西側民主主義国全域での危機感を高揚させ、これらの国の安全保障上の一体感を強化することになっている。その中で、英国・EU間の経済関係の懸案や英国内におけるスコットランドや北アイルランド問題自体が、政治課題としては全く劣後することになっている。
もちろん、こうした足元の大事件が収束した段階で、改めてこの英国のEU離脱に伴う問題や英国内の分裂的な動きが顕在化してくることは十分予想されるが、それは少し先のことになりそうである。その意味で、今この著作を読むと、英国のEU離脱過程で迷走した3年半はいったい何だったのか、という感慨も抱かざるを得ない。しかしそれはまた忘れた頃に再び蘇ってくることになるのだろう。その時、世界の情勢、そして欧州主権国家の状況はどうなっているのだろうか?
読了:2022年3月18日