アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
アフター・ヨーロッパ
著者:イワン・クラステフ 
 2017年原著、邦訳は2018年出版のEU分析であるが、この本の特徴は、私が初めて読むブルガリアの政治研究者の著作であるという点。この国は、冷戦時のソ連圏では、「社会主義の優等生」とされ、ディミトロフの独裁政権下、反体制運動が起こることもなく、ほとんど国際ニュースに登場することはなかった。他方経済的にも東欧圏の中では農業異存の最貧国のイメージが付きまとい、「ブルガリア・ヨーグルト」が特産品として思い浮かべられる程度の存在感であった。

 それでも、冷戦終了後の1989年、いち早く共産党政権が崩壊し、1991年にはワルシャワ条約機構から脱退、2004年にNATO、2007年にはEUに加盟する等、西欧寄りの姿勢を強めてきた。EUへの参加に際しては、改革が不十分であるとして欧州理事会による再審査も行われたというが、加盟後はIT分野などで、それなりの経済成長も遂げているという。そうした国で、親EU派として政治研究や発言を行ってきた1965年生まれの著者による、2017年時点でのEU分析となっている。

 2017年というと、シリアなど中東やアフリカからの移民の波が欧州に押し寄せ、その受け入れを巡りEU内で、右翼ナショナリスト的なポピュリズムが勃興するなど、多くの軋轢が発生、挙句の果ては英国のEU離脱の国民投票が賛成多数で決定することになり、まさにEUの「危機」が叫ばれていた時期である。その結果、この本での議論も、その状況を色濃く反映したものになっている。そして著者がその視点の基礎とするのは、このEU分裂の危機が、かつて1917年に経験したハプスブルグ帝国の崩壊を思い起こさせるという「既視感的思考様式」で、この感覚が現在の政治にどのような力をもたらすか、と自問するのである。問題は、@「難民危機が国内レベルの民主政治の性格を劇的に変えた」こと、A「欧州で目撃しているのは、エスタブリッシュメントに対するポピュリストの暴動だけではなく、能力主義エリートたち(中略)に対する有権者の反乱でもある」ということになる。

 まず、著者は、難民危機を、「欧州にとっての9.11」に匹敵する欧州全体の問題である、とする。そもそもEUの知的な起源は「普遍的な市民権」というもので、それは、@仕事とより高い生活水準を求めて無条件な移動の自由が保障されるか、A国家間の膨大な経済的・政治的格差が消滅し、あらゆる場所で人々が普遍的な権利を享受できることが前提であった。しかし、後者はEU加盟国の中だけでもすぐ実現できるものではないことから、むしろ、例えばブルガリアのような低い経済水準の国では、前者がEU参加のメリットとなっていた。しかし、そこに難民の大量流入が発生することで、前者の権利自体を保障することに疑念が生じることになる。特に、ドイツはメルケル首相が、一つには第二次大戦時の自国難民の受入れに対するある種の贖罪から、更には低賃金労働力の確保という実利的思惑から、これを積極的に受け入れたことが、域内途上国のみならず、中核国も含めた一般国民の反発を受け、右派ポピュリスト運動の興隆を招くことになった。そしてそれが結果的に、域内国境の閉鎖をもたらす事になる。またそれはEUの基本的な特徴であった「感情と礼節」というアイデンティティも脅かす。「一年前は温かく歓迎された外国人こそが、欧州の福祉モデルと歴史的文化を損ない、われわれのリベラルな社会を破壊するだろうという不安」が拡大したのである。

 この動きは、二つ目の論点である、EUの「能力主義的エリートに対する有権者の反乱」という側面を持つ。域内先進国のみならず、東欧諸国の間でも、従来は「自国政府よりも(自国のリーダー以上に能力があり、腐敗していない)ブリュッセルを信頼する傾向があった」にも関わらず、難民問題、なかんずくEU内での移民割り当てを巡って、政府が国民の利益を守っていると考えるようになる。特に、東欧諸国においては、1989年以降の相次ぐ(優秀で若い)国民の海外移住が進んだ結果、人口の減少と社会保障制度の維持のために移民が必要であるにも関わらずということになる。1989年当時、国境の解放はそれを促したことで、多くの移住を望む国民はそれを歓迎したにも関わらず、今やこれらの国民は、移民に対して国を閉鎖するという自国指導者に共感しているのである。多様性と移民の問題に関するブリュッセルの「能力主義的エリート」と国民の距離は、かつてないほど広がっている。それがEUの目標である「一層緊密化する連合」と「一層進化する民主主義」という二つに二律背反の関係をもたらす事になる。そして、東欧諸国では、より権威主義化した指導者による、国民投票も利用した国家利益の擁護が顕著となるのみならず、西欧諸国でも、ポピュリスト勢力の勃興となり示されるのである。著者のユニークな議論は、こうした問題を3つのパラドックスとして提示しているところにある。

 第一のパラドックス(中東欧のパラドックス)。中東欧の有権者は、世論調査では親欧州であるのに、裁判所や中央銀行、メディアといった独立した機関にあからさまな嫌悪を示す反EU政党を権力の座につかせるのか?第二のパラドックス(西欧のパラドックス)。世論調査では上の世代よりもずっとリベラルで、EUに親和的な西欧の若い世代の政治参画が、なぜ汎欧州的で親EU的なポピュリスト運動の出現をもたらさなかったのか?第三のパラドックス(ブリュッセルのパラドックス)。なぜ欧州人は欧州で最も能力主義的な形でエリートとなったブリュッセルのエリートに憤慨しているのか?それぞれの分析を簡単に整理すると以下のようになる。

 中東欧のパラドックスは、当初はこれらの国で欧州統合が「不可逆的な民主化を保障する主要な要素」と考えられてきたが、ハンガリーのオルバン政権やポーランドのカチンスキー政権は、民主的に成立した政権ではあるが、「リベラル」とは一線を画することになる。そこには、「特権的な地位にいる少数者―欧州の場合、それはエリートと主要な集団的『他者』つまり移民であるーに対する抵抗の機会」が発生し、そうした国民感情を受けた上記の反リベラル的な政権が誕生することになったとされる。裁判所や中央銀行、メディアといった分散した権力は、「民主的」に選ばれた政権の目標達成を阻害する要因であると見做されることになり、こうしたポピュリスト政権の攻撃対象となるのである。それは「EUが依拠している土台としての立憲主義的リベラリズム」を揺るがし、欧州プロジェクトの存続の脅威となる。

 西欧のパラドックスは、英国でのブレクジットの国民投票にも見られる通り、より若く、高学歴な人々が親EUであることは明らかであるが、彼らが親EU的なポピュリスト運動の出現をもたらさなかったのは何故か、という問いである。これに対する著者の見方はやや分かり難いが、スペインでの債務危機に関連して発生した運動のように、こうした若者が「妥協のない反制度的」なアプローチをすることで、政治的な広がりと有効性を持つことができなかった、ということのようである。「若い有権者は、欧州では少数派でありどんどん少なくなっている」というが、それがこの原因であるかどうかは、個人的にはやや留保しておきたい。

 最後のブリュッセルのパラドックスについては、ギリシャの前財務大臣パパコンスタンティノウの例が挙げられている。一般家庭出身で、良い教育を受け、その能力と誠実さでパパンドロウ政権に招かれたものの、結果的には彼はギリシャで最も憎まれる人物になってしまったところに、親EUの「能力主義的エリート」に対する国民の不信感が象徴されているという。彼らは、「身近な富豪や腐敗しきった人々」とは程遠いにも関わらず、何故かくも忌み嫌われるのか?それは能力主義的政策が、「自己中心的で傲慢な勝者と憤慨して自暴自棄になった敗者の社会を作り」、「不平等な社会ではないが、成果の違いによって不平等が正当化される社会」をもたらし、その結果、「能力主義の勝利は政治共同体の喪失につながる」ことになるからである。

 しかし、それは、独裁政権でも同様であるが、「エリート支配」の効率性は、その結果で成功か失敗かが最終判断されるという、古今東西共通する原則を示しているに過ぎないというのが私の見方である。ただEUの場合は、独裁政権と異なり、民主主義とリベラリズムという2つの理念を標榜したプロジェクトであるが故に、その「エリート支配」の結果的な失敗は、ポピュリズムという「民主主義」による、「リベラリズム」批判という形で表れてきていると言える。著者は、かつての貴族主義的エリートと比較して、「新しいエリートは、統治するよう訓練されているが、犠牲を払うことは教えられていない」といった「民族、宗教、あるいは社会集団への無条件の忠誠心」の欠如を指摘しているが、これは「新エリートのサラリーマン化」とも表現できるかもしれない。ただ民族、宗教、あるいは国民に対する犠牲精神と忠誠心というのは、確かに聞こえは良いが、独裁者もそうした理念を標榜する。その評価を決定するのはあくまで結果である。EUの「能力主義的エリート」たちは、まさに難民問題や通貨危機を通して、政治的、経済的、社会的な結果責任を問われている。本書の最後に著者が指摘している通り、少なくとも欧州統合は、「欧州人がみな同じ政治共同体の一部であるという感覚を育んできた。」それが成功し、ポピュリズムの圧力を振り切ってEUが生き残る可能性を高めるには、妥協や和解を通じて、その「エリート的」政策決定を、構成員の多数に納得してもらえるかどうかにかかっている。それが結果的にブリュッセルの正統性を強め、EUの生存能力を高めることになろう、というのが著者の結論には、私も異存はない。

 この著作の出版後、欧州を含めた世界は大きな変化に晒されることになった。言うまでもなく、新型コロナによる国境閉鎖により、移民問題はここ数年ニュースにならない状態にまでなる。そしてロシアによるウクライナ侵攻は、ブレクジット後の英国を含め、NATOという安全保障枠組みを通じてEUの結束を強化することになった。またその結果、各国における反EU的なポピュリズム運動も勢いをそがれている(本年4月のフランス大統領選挙での、マクロン勝利、ルペン敗北等)のが現状である。もちろん、ロシアからの天然ガス供給削減・停止を巡る協議でハンガリーが抵抗する等の不協和音も一部に見られるものの、ここで著者が取り上げた論点は、EU内では、現在ほとんど関心が払われていないのは事実である。

 しかし、コロナやウクライナが落ち着けば、ここで取り上げられた問題が再び浮上することは間違いない。また我々が予想しなかったような新しい問題が生じることさえも十分あり得る。その意味では、欧州統合は「未完の革命」であり、常に新たな挑戦を続けることを余儀なくされる運命にある。そしてそれが、アジアの将来とも関連し、私がこのプロジェクトを追いかけている理由でもある。ブリュッセルの「能力エリート」の手腕が引続き試されることになろう。

読了:2022年6月11日