ブレクジット・パラドクス
著者:庄司 克宏
1957年生まれの慶応大学大学院教授による英国のEU離脱に関わる2019年3月出版の著作である。この著者は、先日読んだブルガリアの著者による「アフター・ヨーロッパ」(別掲)の訳者でもある。英国は、2016年6月の国民投票での離脱決定から、3年半の交渉を経て2020年1月末をもってEUから離脱。そして2020年年末までの移行期間を経て、2021年1月から完全離脱を行うことになった。この著作は、2020年1月末に向けて行われていた離脱交渉を振り返りながら、何故この交渉が難航を極めたのかを中心に説明している。
2016年6月の国民投票で、事前予想を覆し離脱票が過半数を制し、離脱が決定した訳であるが、その理由は、(後講釈ではあるが)、英国にとっては、EUへの主権移譲には、大陸諸国のように「平和を推進し、政治的危機を回避する手段」という思いはなく、あくまで単一市場として自国経済のために役立つ実利的な価値がある限りで、一定の主権委譲も止むを得ないという程度の物であったということである。もちろん、よりヨーロッパ意識の強い若い世代では異なっていたものの、高齢世代では、旧東欧地域や中近東・アフリカからの移民問題等を中心に、大陸に対する違和感が広がっていたということであろう。
こうして選択されたEU離脱であるが、交渉は難航を極めることになったことはよく知られている通りである。双方の対立点(あるいは譲れない「レッドライン」)を著者は以下の通り整理している。
(英国側)
1、EU司法裁判所の管轄権排除
2、人の自由移動の除外
3、EU財政への義務的分担の廃止
4、独自の通商政策を追求する自由の確保
5、北アイルランド国境問題をめぐる英国の「領域的・経済的一体性」
(EU側)
1、単一市場の一体性(特に物・人・サービス・資本の自由移動の不可分性)の維持
2、競争政策、国家援助、税制、社会政策、環境基準などでの公平な競争条件の確保
3、EU法秩序と政策決定の自律性の維持
4、権利と義務のバランスを図り、英国にEU離脱の結果によりEU加盟国より有利な条件を得ることがないようにすること
この両者の思惑が交錯する中、EUの関税同盟や単一市場を完全に離脱する「ハード」な離脱から、それを一部又は全部取り入れた関係に留まる「ソフト」な離脱の間の様々なオプションが検討されることになる。著者は、EUが非EU諸国と締結した様々なモデルを検討しながら、英国とEUの思惑に従った形を探っている。この著作では、最終的な決着は明確に示されていないが、結論的には、カナダ・モデルに近い形に落ち着いたと思われる。このカナダ・モデルでは、英国が固執した金融サービスでの単一パスポートは含まれていないが、「同等性」制度の下で、EU内で一定分野での「越境サービス」取引を行うことができるというものである。それに「最恵国待遇についての例外条項」等もついたものと思われる。いずれにしろ、英国とEUの関係は、このように、EUが他の非EU諸国と締結しているモデルのある部分に落ち着くことになったのである。その過程で、EU側は余りブレることがなかったが、英国側は、国内のEU離脱強硬派と穏健派の分裂により国内的な意思統一が遅れ、交渉過程で譲歩を繰り返すことになった。
また北アイルランドの扱いも、英国側にとっては厳しい課題となったこともよく知られている通りである。1998年4月のベルファスト合意で、約30年間で3000人以上の犠牲者を出したカトリック系とプロテスタント系(英国国教会系)の対立に終止符が打たれ、英国とアイルランドのEU加盟も、アイルランドと北アイルランド間の関税撤廃と人の自由移動が確保されることになり、この和解を支援することになった。従ってこの枠組みを英国の離脱後も維持できるかが、重要な論点となったのである。
この問題についてまず、英国側は英EU将来関係協定で達成(先送り型)したいと考えたのに対し、EU側(特にアイルランド)は、離脱協定の段階で解決策を先に確保しておきたいという、方法論の問題でもめることになる。英国では、その交渉中に行われた総選挙で保守党が大敗し、北アイルランドの地域政党(民主統一党(DUP))との連立内閣となったことも、北アイルランドを本土と別扱いとすることに反対、という流れを作ることになる。こうして、厳しい交渉の末、妥協案として、北アイルランド議定書が、将来関係協定でこの問題が解決されるまでの「バックストップ」として成立することとなる。それは、各種の検査や書類チェックを、EU加盟国であるアイルランドの国境で行うのではなく、北アイルランドと英国本土との間で行うことを定めているが、これは、北アイルランドへEU司法裁判所の管轄権が及ぶことや、英国が独自の通商政策を制限される点で、英国の一体性を脅かすが、他方でこの地域のEUとの「単一関税同盟」を認める点でEU側の譲歩も示されているという。ただ、これはあくまで英EU将来関係協定で、この問題の最終解決が行われるまでの一時的措置である。しかし、その後、この英EU将来関係協定が結ばれたという話は聞こえてこないので、依然この問題は最終解決には至っていないと思われる。また最近のネット情報によると、今年(2022年)6月に、英国政府が、この議定書の一部を破棄する法案を発表する等、この「バックストップ」を巡ってもEU対英国の攻防が依然続いているようである。その意味で、英国のEU離脱は、まだまだ途上にあり、その決着点は見えていないと言える。
しかし、この著作が出版された当時は、数多くの報道が行われていたこの「ブレクジット」は、その後の新型コロナ拡大や、ロシアのウクライナ侵攻の中で、現在はほとんどメディアから消えてしまっている。それでも今回この著作に触れて、依然この問題は、欧州では決して忘れられているものではなく、今後の欧州国際関係の中で重要な課題となっていることが確認できた。この問題を地道に追っている著者のような研究者は、おそらく状況を苦々しく眺めているのではないかと想像されるが、いずれにしろどこかの時点で、改めてこうした諸問題への関係者の対応が注目されることになることは間違いない。その時改めて、英国とEUの関係が問われることになるのであろう。
読了:2022年6月26日