アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
現代ロシアの軍事戦略
著者:小泉 悠 
 ロシアによるウクライナ侵略が長期化する中、メディアに頻繁に登場している研究者が何人かいるが、その中の一人で、1982年生まれのロシアの軍事戦略研究家による2021年5月出版の新書である。但し、執筆完了は2021年2月ということで、侵攻が開始された2022年2月24日の1年前のタイミングであり、それまでのロシアーウクライナ関係を踏まえた議論になっている。当然ながら、2014年のロシアによるクリミア半島併合は議論の一つの中心ではあるが、その後の事態の進展を考えながら読み進めると、著者の議論の説得力が増す部分と、彼の予測が外れた部分が混在する著作となっている。

 かつての冷戦期、米国と拮抗していると思われていた旧ソ連の軍事力は、ソ連崩壊後、いっきに劣勢となり、特に欧州で軍事的に対峙するNATOとの比較では質量共に大きく劣後する状態となった。しかし、そうした中で、2010年代に入り、いとも簡単にクリミアを併合する等、ロシアの軍事力が見直されることになる。それは古典的な軍事力に加え、「人々の認識を操作する情報戦、電磁波領域(EMS)やサイバー空間での『戦闘』など」によるハイブリッド作戦を遂行したことが大きな要因の一つであったとされる。但し、それにも関わらず、ロシアでは西側との「永続戦争」の機運が高まる中、古典的軍事力が、その戦略の中心であり続ける。そして実際、2010年以降、ロシアで行われている軍事訓練は、表向きは「対テロ戦争」や「反政府運動」に対する戦いといった「限定行動戦略」の形をとっているが、実際にはそうした勢力の背後にいる大国との軍事紛争も想定したものとなっているとされる。著者は、そうした戦略は、「巡行ミサイルや精密誘導兵器(PGM)による激しい攻撃の下で遂行される」と共に、「最終的には核兵器の使用にもつながりかねない」ものとなっていると見るのである。著者は、ロシア語資料も含めて読みこなしながら、まさに「軍事オタク」的に、詳細な議論を進めていくが、ここではそうした細部には踏み込まない。その上で、冒頭に述べたような、今回のウクライナ侵攻以降の状況を踏まえ、著者の議論の説得力が増す部分と、彼の予測が外れた部分を夫々見ていこう。

 前者については、ウクライナの西欧接近が、プーチンのロシアにとっては大きな懸念であったという指摘が重要である。2004年のバルト三国へのNATO拡大は、「極めて面白からざる出来事ではったが、最終的にロシアはそれを受入れた。」その背景には、当時のロシアの弱い国力故に、国際的な地位の回復に努めていたという事情もあった。しかし、その後原油価格高騰等により、それなりの国力回復で自信をつけたロシアは、2008年に持ち上がったウクライナとグルジアへのNATO拡大には大きく反発し、2008年のグルジア戦争と2014年のクリミアとドンバス地方への軍事介入となる。ここには「ロシアの『勢力圏』を脱出しようという国があれば、軍事力行使に訴えてでもこれを阻止する」というグルジア戦争以降のロシアの基本方針があった。またソ連崩壊のみならず、「アラブの春」や、ウクライナを含めた旧ソ連圏での「カラー革命」が、「敵対的な政権を打倒するために西側が仕掛けている『非線形戦争』である」という、西側から見ればある種の「被害妄想」的な見方が、2000年代になってからのロシアの軍事理論の通奏低音となっていたとされる。そして、2014年、「無血併合」したクリミアとは異なり、実際に激しい戦闘が行われたドンバスでは、ロシア側が、ドローンを多用したり、電力設備等インフラへのサイバー攻撃による「ハイブリッド戦略」を強化していたことが説明されている。まさに現在のウクライナへの全面侵攻というロシアの軍事戦略は、この時点から予想されていたものであった。その意味で、著者が、こうしたロシアの軍事戦略を詳細に追いかけてきたことは、現在の情勢を理解する上で大変有用である。またクリミアやドンバスとは別に、シリアでロシアがサダト政権の劣勢を巻き返すために大きな役割を果たしたことや、2020年のナゴルノ・カラバフを巡るアルメニアとアゼルバイジャンの武力紛争時に、基本的にはアルメニア側に立ちながらも、両国を自分の勢力圏に留められるような対応をとった、という指摘も、今回初めて知ることになった、具体的な地域紛争に関与する際のロシアの軍事戦略であった。

 他方、今回のウクライナでの全面戦争という事態が、著者の見通しから外れていることも確かである。2020年代半ばのロシア軍の演習を詳細に分析しながら、著者は、前述した通り、この時期以降ロシアで行われている軍事訓練では、表向きは「対テロ戦争」や「反政府運動」といった「非国家主体」に対する戦いといった「限定行動戦略」の形をとっていることや、それが実際にはそうした勢力の背後にいる大国との軍事紛争も想定した軍事戦略であるとされる。そしてそれが「究極的には大国との戦争を想定している以上、そこには常に核使用を含めた大規模戦争へのエスカレーションの可能性が存在する」ことになるが、それが現実に発生する可能性については否定的である。特に2017年の大規模演習時は、「演習のどさくさに紛れてロシアがハイブリッド戦争を仕掛けてくる」といった憶測が、特に西側メディア中心に広がったのみならず、リトアニアがロシアとの国境にフェンスを設置したり、ウクライナが戦闘準備態勢を整える議論まで出た。これに対し、著者は、恐らくロシアにはそこまでの経済的・軍事的な理由はない、ということだと思われるが、そうした対応は「あまりにヒステリックな対応と言わざるを得ない」としている。しかし、結局それから4年後にはウクライナへの全面的な侵攻となったこと、そして、実際そこでの戦闘の劣勢が伝えられる中、ロシアによる「エスカレーション抑止」を目的とした「限定核使用」も現実的な懸念となった。後者の「限定的核使用」については、著者は、この時点の西側でも、これはあくまでロシアによる「心理戦」にすぎない、という議論があることは伝えているが、特に前者については、この本の執筆を終えた2021年2月の時点でも著者がそのようなコメントをしていたことは、やはり「軍事オタク」としてはすぐれている著者も、政治的判断においてはやや脇が甘かったといわざるを得ないだろう。
 
 いずれにしろ、「権威主義体制の下にあるロシアと、これを受入れない西側の『永続戦争』は今後も続いていく」という著者の最後の指摘の通り、ウクライナでの戦争は、双方の一進一退を繰り返しながら当面は停戦の見通しのないまま続いている。そして「(プーチン失脚という)体制内改革による苦境の脱出か、『長い2010年代』の中での穏やかな衰退か」という岐路に立っているロシアの動静が、その軍事戦略、そしてウクライナでの戦争の今後の展開を左右するという著者の指摘は、その通りであろう。足元の報道は、プーチンが、戦況の劣勢の責任を軍部に押し付けているのではないか、といった議論も聞かれるが、そうした動きが、反プーチン・クーデターを誘う要因になる可能性もなしとはしないが、いずれにしろ、この戦争の行方がプーチンの指導力と彼の今後の運命にかかっていることは間違いない。そしてそうした状況下で、一時的に結束を強めている欧米にも「ウクライナ支援疲れ」が目立つようになったり、オルバン大統領の下で権威主義体制を強めるNATO加盟国であるハンガリーによるロシア接近といった、EU内の不安定要因も存在する。それはEU自体の今後の展開にも大きく影響することになる。そうした状況下、日本も含めた西側諸国が対ウクライナ支援を検討する際のベースとなるロシアの軍事的な基本姿勢を確認する意味で、この著作が持っている意義は否定できないし、また著者の今後のメディアでの発言にも注意を払っていきたいと感じたのであった。

読了:2022年11月5日