独裁者プーチン
著者:名越 健郎
1953年生まれの元時事通信記者による、2012年5月出版のプーチン論。2012年というと、2000年に「巡り合わせ」でロシアの大統領となったプーチンが、2期8年の大統領、続く4年の首相を経て、再び大統領職に復帰した時期である。この時点で、著者は、プーチンが「今後最長で二期十二年政権を担当する可能性がある」と推測しているが、その通り、それから10年を経た2022年の現在、彼は依然大統領であり続け、その独裁的な支配を強化することになった。他方でそれが足元はウクライナ侵攻を受けた欧米との緊張激化という形で厳しい局面を迎えている。この10年前のプーチン論は、当然ながら現在から見ると古さは感じられるが、それでも現在に至るまで続いているプーチンの政治手法を理解する上での様々な指摘が十分参考になる。
この著作出版時点では、プーチンが、当初の12年で権力集中をそれなりに達成した後、彼の独裁的支配に対する批判が広がり始めていた。冒頭から、著者はその支配を皮肉るアネクドートを紹介するところから始めているが、それはソ連の末期にも見られたロシアでの伝統的な民衆の政府批判の表現であった。しかし、実際に反政府=反プーチン運動も行われる中で行われた2012年3月の大統領選挙では、プーチンが勝利することになる。彼の勝利の要因としては、軍人、警官、教師らの給与や公務員の年金引上げ、国防予算増額による軍需産業の下支え、そしてそうした公務員や政府系企業を総動員した選挙戦に加え、選挙直前にチェチェン・テロの摘発などで保守層の治安意識を刺激したといった作戦が功を奏したと指摘されている。しかし、著者は、こうして大統領として再登板(「オーナーの復帰」)したが、プーチンにとってこれからの6年は、「政治民主化、資源依存経済の是正、閉塞感の一掃、汚職腐敗対策」等多くの課題を抱えた「いばらの道」であるとする。そして彼の支配の特徴を更に踏み込んで説明することで、彼の支配の今後を想像させることが、以降の本書の課題となる。
KGB出身で、ロシア人としては小柄(167cm)なプーチンが、首相を経て大統領になり上がる経緯と、その経歴が彼の支配行動に如何に影響しているかが説明されているが、これはよく知られているところである。著者も体験した、彼の通勤時にモスクワ市内の道路が交通規制されることから大渋滞が発生するというのも、どこかで聞いたことがあるが、テロを懸念する彼らしい行動である。私生活面では、リュードラという妻と二人の娘がいるが、彼らの私生活は、これまたテロ懸念もあり一切公表していないという。リュードラは、他の主要国首脳と異なり、外交などで同行することはほとんどなく(2005年の日本公式訪問では、当初彼女が同行すると発表されたが、結局それはなかったという)、既に離婚したという説もあるが真相は不明である。プーチンの首相就任直後の1999年9月に発生し、彼の飛躍の契機となった、チェチェン・テロリストによる連続爆破事件とその後の関連した反プーチン派の暗殺事件が、KGB後継組織で、プーチンがコントロールしていたFSBの陰謀であったという批判も、いろいろなところで語られているが、真相は究明されていない。また2003年から4年にかけて石油価格が高騰する中で、反プーチン派の石油王ホドゴルスキーを逮捕し、彼が築き上げた企業ユコスを解体、国有化したことも、富裕層に対する庶民のルサンチマンを利用し政敵を倒すと共に、国の財政基盤を改善させることで彼の評価を高めることになる。更に2004年9月に発生したチェチェン人によるベスラン事件も、「強い指導者」に対するロシア人の羨望を刺激し、彼への支持を高めたという。著者は、こうした事件を経て、石油価格も高止まりし、経済成長率も8.1%とソ連崩壊後の最高を記録、外貨準備も膨れ上がった2007年が、プーチンの絶頂期であったとしている。更に、著者は、こうしたプーチンの「独裁」を強化した彼の統治手法の数々を紹介しているが、その中で特筆されるのは、メディア支配を通じた世論操作と、政権主要ポストの人脈による独占である。
前者については、テレビ局支配や反プーチン・ジャーナリストの暗殺を含めた排除が中心であるが、それに加え、定例の「庶民」からの質問に、時として4時間以上も費やし彼が答える「国民との対話」番組が大きな効果を発しているとして、著者はその質問・回答例を詳細に報告している。当然ながら、ここで取り上げられる質問は事前の検閲を受け、また地方政権幹部等への牽制や排除といった意図で選別されていると思われるが、ある意味、「水戸黄門や遠山の金さん」を連想させる世論操作の「原初的」な手法である。それがそれなりの効果を発揮しているというのは、未だに「民衆に寄り添う強い支配者を求める」ロシア社会の特質を物語っているとされる。
また後者の「強権的手法」については、「旧サンクト派」や「旧KGB派」による人事独占と支配下に収めた公営企業を通じての国富の収奪とその実態の隠蔽が中心となる。権力が集中した国家ではどこでも生じるこうした現象は、プーチンのロシアでも例外ではない。溢れるオイル・マネーを使い、国民の全般的な生活水準が高まったことも、こうした政権への批判が広がらない要因になっている。まさに「週愚政治」ここに極まれり、といったところである。
そしてそうした盤石な国内基盤を受けての外交。その基本は「多極主義、国連中心主義、ならず者国家との接触、欧米離間、中露連携、旧ソ連圏への干渉、エネルギー国策利用、民主化後退」等々、特に「米国の世界戦略を妨害する要素ばかり」である。その結果、プーチンの危険性に気が付かなかったブッシュ政権初期以降、米国との関係は悪化の一途を辿ることになる。他方で欧州との関係には気を使い、特に、イタリアのベルルスコーニやドイツのシュレーダー、そしてフランスのシラクとの個人的親交を米国への牽制に利用することになる。また中露関係は、この時点ではやや微妙な状況であったが、旧ソ連圏への対応では、ベラルーシとの「統合(併合)案」が出ていたというのは興味深い。日本との関係では、柔道での交流を通じた山下泰弘との個人的関係に触れられているが、それを除けば、特に北方領土問題での「2島先行返還」について、日本側が与えた誤解と、小泉がこれを蹴った経緯等が特筆される。この著作の時点では、東日本大震災への支援といったロシアの動きもあり、またその後安倍政権の下で北方領土問題を念頭に置きながらプーチンとの関係を改善しようという動きも見られたが、基本的な日露関係は、その冷えた状態が改善することなく続くことになる。
この著作の時点では、2008年のリーマン・ショックがロシアにも大打撃を与え、また第二次グルジア戦争でロシア軍の問題が明らかになったこともあり、大統領はメドベージェフとなり、プーチンは一旦首相となっていたものの、彼への批判が盛り上がっていたとされる。しかし、そうした著者の「ささやかな期待」にも関わらず、2012年に大統領に復帰したプーチンは、その後2014年にはクリミアを併合。そして西側からの経済制裁を受けながらも、ここで説明されている支配構造を変えることなく、また国内の反プーチン運動は高まる兆しのないまま現在に至り、そして今度はウクライナ侵攻という、より挑戦的な事態を引き起こすことになったことは繰り返すまでもない。その意味では、今回のウクライナ侵攻を契機として、ここで語られているプーチン支配の構造が変わるかどうかが、引続き現在及び今後のロシアを見る上での最大の焦点であることは言うまでもない。プーチンの今後については、相変わらず多くの憶測は流されているが、まさに「一寸先は闇」の状態が続いている。その意味で、この体制の今後を展望するのは、中国の習近平の今後を語るのと同様なかなか難しいが、少なくとも、その政権がよって立つ「基層」―それはこの10年を経ても変わっていないーを分かり易く提示している著作である。
読了:2022年12月7日