アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
ウクライナ戦争
著者:小泉 悠 
 昨年(2022年)11月に、同じ著者による「現代ロシアの軍事戦略」を読んだが、これは今回のロシアによるウクライナ侵攻から1年ほど前までの時点での、ロシアの軍事戦略を説明した著作であった。その評でも書いたとおり、一方で、2014年、「無血併合」したクリミアとは異なり、実際に激しい戦闘が行われたドンバスでは、ロシア側が、ドローンを多用したり、電力設備等インフラへのサイバー攻撃による「ハイブリッド戦略」を強化していたことが説明されており、その「地域紛争」の拡大可能性を予測していたものの、それがウクライナへの「全面侵攻」に至る可能性は低く見ていた。そして2020年代半ばまでにロシアで行われていた軍事訓練では、表向きは「対テロ戦争」や「反政府運動」といった「非国家主体」に対する戦いといった「限定行動戦略」の形をとっていたものの、それが実際にはそうした勢力の背後にいる大国との軍事紛争も想定した軍事戦略であり、そしてそれが「究極的には大国との戦争を想定している以上、そこには常に核使用を含めた大規模戦争へのエスカレーションの可能性が存在する」ことになるが、それが現実に発生する可能性については、著者は否定的に見ていたという。

 しかし2022年2月、実際にはロシアの意図したような結果は得られなかったとは言え、プーチンはウクライナに対して「全面侵攻」を企てることになった。この2022年12月出版(そして実際の脱稿は2022年9月末)の著作では、前著での著者自身の議論を踏まえながら、この実際の戦争で予想が異なった点を中心に検証している。ただ当然ながら、この戦争はその後も続いており、刻一刻その様相を変えている。その意味で、具体的な戦争の叙述としては、あくまで途中経過ということになる。

 今回の戦争は、「大規模な国家間戦争はもはやあり得ず、戦争は国家対(テロリストといった)非国家主体による『非対称戦争』とか、非軍事的手段を駆使する『戦争に見えない戦争』へと変容していく」という多くの軍事理論家の予想を覆した「古典的」な国家間大規模戦争となった。それは何故起こったのか、そして取りあえず当初の約半年でどのように展開されたのか、そしてこの戦争が持つ意味は何なのか、といった論点を著者は論じることになる。

 最初の論点については、著者は2021年7月頃から、プーチンは、ウクライナに対する「民族主義的野望」をあからさまに示すようになり、戦争準備が加速していったことが示される。この年の初め、2014年以降も紛争地であったドンバス地方での「停戦違反」が頻発するようになり、この地域に隣接する国境地域へ駐屯するロシア側の戦力が強化され、それに対抗するウクライナ側の準備も進むと共に、西欧側からのウクライナ支援の動きも本格化し、それがまたロシアによる批判を呼ぶという形で緊張が高まることになる。世界がまだコロナ対応で四苦八苦していた時期である。この緊張は、一旦はロシア側の国境線力の引上げという形で落ち着いたかに見えたが、この緊張は、ロシア側から見ると、ロシアに融和的であったトランプ政権からバイデン政権への移行、あるいはロシアでの反体制派の拘束とそれを巡る国内でのプーチン批判の高まりといった内政上の危機も要因の一つであったとされている。他方、ウクライナ側ではゼレンスキーが、ドンバス紛争の解決に向けた対応で迷走し、この時期はむしろ国内的には窮地に立たされていたという指摘も興味深い。

 この流れが一気に戦争に向けて動き始めたのが2021年9月以降で、この時期、ウクライナ国境地域へのロシア軍の再結集が始まり、10月には米国情報部も、バイデン大統領に「ロシアが本気でウクライナ侵攻を考えている」という報告を行ったとされる。当然それを受けた欧米のロシアへの牽制とそれに対するロシア側からの攻撃も激しくなっていく。そして年が明けた2月、本格侵攻となっていく訳であるが、何故この時期だったのか、という点については、著者もこの時点では合理的に説明することは出来ないとしている。もちろん、ロシア側の理屈としては、2021年7月の長大なプーチン論文等が参照され、@ウクライナの「ナチ化」(=ドンバス等でのロシア系住民の「虐殺」等)、Aロシアとウクライナ民族の一体性、BNATO拡大による脅威、が挙げられるが、それは、プーチンがこの時期に全面侵攻を開始した理由は説明にはなっていない。

 こうして運命の2022年2月を迎える訳であるが、今回のロシア軍の集結については、多くの研究機関やメディアが衛星画像を駆使してその状況を「丸裸」にしたという点で「実に現代的」であった。また著者は、「集結するロシア軍のかなりの割合がベラルーシを前方展開拠点とした」ことも、それまでのベラルーシの腰が引けた姿勢を考慮すると「新しい」現象であったとしているが、これは2020年8月のベラルーシでの反ルカシェンコの動きをプーチンが協力して抑え込んだことで、ルカシェンコの「生殺与奪権を握った結果ではないか」としている。この点は、その後のワグネル反乱で、逆にルカシェンコがプーチンの弱みを握ったことで借りを返されたと見ることができよう。いずれにしろ、この時期直前まで行われた各種の交渉は全て決裂。著者は、まだ第二次ミンスク合意を飲ませれば、ロシアの侵略はないと考えていたことを告白しているが、プーチンが「ドネツク」と「ルガンスク」2州の独立を強行したことで、そうした期待は打ち砕かれ、2月24日午前5時の侵攻を迎えることになる。

 この侵攻作戦「特別軍事作戦」は、米国などが予想していた通り展開し、ロシア側は「ゼレンスキー以下を電撃的に排除して政府を瓦解させる」「斬首作戦」であったが、結果的には、ロシアはそれに失敗する。その理由を著者は、@ウクライナに張り巡らせた内通者のネットワークがあまり当てにならなかった、Aキーウ制圧の失敗。特にロシアは近郊のアントノウ空港の制圧は行ったが、ウクライナ側の攻撃で追加部隊の空港利用ができなくなってしまったこと、そしてBゼレンスキーの力量を見誤ったこと、を挙げている。そして電撃作戦に失敗したロシアは、通常戦力によるウクライナの打倒を図ることになるが、ここでも欧米側の予想にも反してウクライナは驚異的な粘りを見せ、特にキーウを始めとした北部主要都市を最後まで守り抜くことになった。その要因として著者は、@ウクライナの通常戦力も決して弱体ではなかった、Aウクライナの広大な地域と湿地や森林の存在、そしてB当初欧米が供与した対戦車ミサイル、ジェベリンの効果を挙げているが、結局は電撃戦を食い止めた理由が根底にあったことは間違いない。

 以降は、東部での激戦が行われる中での停戦交渉とその行き詰まり、ロシアによる核の脅威や欧米からの武器援助の拡大等、日々のニュースで接している戦況が詳細に語られるが、それらは省略する。

 いうまでもなく、この戦争は長期化し、ロシア側は、欧米側の「支援疲れ」を期待しているが、他方で、ワグネル反乱に見られる通り、ロシア内部での混乱も生じており、今後の予測が難しい状況は、この新書が出版されて半年以上が経過した現在も変わっていない。そしてそうした状態は当面は続くのであろう。ウクライナの人々への同情は禁じ得ないし、この戦争の早期終結を期待する気持ちは変わらないが、国際政治の現実は甘くはないであろう。それを十分理解した上で、ロシアの軍事戦略の専門家としての著者の分析への期待は、今後も同様に変わることはないであろう。引続き戦争の状況は追いかけていきたい。

読了:2023年7月12日