ウクライナ動乱
著者:松里 公孝
前回の小説を読了した後、10月があっという間に過ぎ去ろうとしている。猛暑が落ち着き、心地良い秋の気候が訪れていることもあり、読書には最適な季節なのであるが、読書のペースが大きく落ちている。それは通常のテニスやプールでの時間に加え、この新書がたいへんな力量で書かれていたことが大きい。足元中東でのイスラエルとハマスの対立にメディア情報の多くが割かれ、ウクライナ戦争の現状についての報道が減少しているが、この著作により、個人的には改めてこの地域への関心を強めることになった。先に読んだ著者の地域政治の研究「ポスト社会主義の政治」(この作品は、ロシアによる今回の全面侵略前の2021年3月の出版であることもあり、侵攻後の状況については触れられていない)の内、ウクライナに焦点を当てたものであるが、この2023年7月出版の新著では、この戦争の現在を伝えると共に、この地域の歴史も改めて詳細に論じている。メディアが報道している以上に、この地域を巡る問題がたいへん複雑であることを再度深く認識させられることになった。
まず前著でまとめられていた、かつてのソ連・東欧地域の全体像は、この地域には今日28の承認国家、3つの半承認国家(コソヴォ、アブハジア、南オセチア)、4つの非承認国家(沿ドニエストル、ナゴルノ・カラパフ、ドネツクとルガンスクの人民共和国)があるということで、その内の2つ、ドネツクとルガンスクが、今回のウクライナ戦争の中心舞台となる。またロシアに併合されたクリミアは、「非承認国家」ではない。
次に前著で説明されているウクライナの政治体制の推移を確認すると以下の通りである。著者は、まずこの国についての偏った見方を修正することから議論を始める。その誤解の一つは、この国が、親ロシア的な東南部と親欧州的な西部の文化的分裂にあり、それが今回のロシアとの戦争の原因とする見方である。しかし、この国の歴史を見るとそれほど単純ではなく、この国の領土は、ロシア帝国時代に3段階に渡ってロシア帝国に組み入れられた東南部と、第二次大戦に前後してポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアからソ連に組み込まれた6つの地域からなり、夫々に「進歩・保守」の対立があったとされる。東西対立軸は、その他の対立軸がない時に前面に出てくる傾向があり、2004−5年のオレンジ革命以降、「かなり人工的に作り出された」ものであるという。またこの国は、ソ連時代は農村地帯という誤解があるが、ソ連時代はコメコンの地理的中心にあったことから、軍需・宇宙産業の中心地となり、ロシアはむしろウクライナに原材料を輸出していた。ところがワルシャワ条約機構崩壊後は、こうしたウクライナで生産された兵器を買う相手が消滅したことから、経済的な困難に直面したことが指摘されている。この点ではベラルーシが、ソ連時代に民需品生産に特化していたことから、冷戦後の資本主義にそれなりに適応することができたことと比較されている。
そしてこの国の1991年12月の独立以降の政治体制は、1996年憲法により権力分散的な「準大統領制(理念を担う大統領と、実務を担う首相)」が生まれたが、その後の何人かの大統領と首相の権力闘争という紆余曲折を経た結果、オレンジ革命の最中に生まれた2004年の憲法改正によりこの権力の分散(大統領と首相の権力闘争)がいっそうひどくなり、2013年には「ユーロマイダン革命」と呼ばれる諸政党勢力による武力衝突も発生することになる。ただ2021年段階では、この2004年憲法がまだ有効であった。そして2019年3−4月の選挙で誕生したゼレンスキー大統領の下で、現状は彼の「人民の僕」等が議会も抑えていることから、実質的には「大統領議会制」に近い形で政権運営されているという。そしてこうした体制下で、「社会経済政策の失敗をごまかすために言語,正教、歴史評価といったアイデンティティに関わる問題をアピール」するユシチェンコ大統領の行動に、ウクライナ東部での地域党の勢力拡大や、それに危機感を覚える民族主義者の活発化、更には「2008年以降のロシアと西側の地政学的な競争の激化」が加わり、この国の政治は迷走、結果的に2014年のロシアによるクリミア併合を経て、今回の侵攻に至ることになるというのが、前著で説明された足元の大枠である。そして、この新著では、これを踏まえた、これらの紛争の舞台についての、現在までのより詳細な分析が示されることになる。特に2022年2月のロシアによる全面侵攻以降は難しくなったとはいえ、それ以前には、著者は、こうした紛争地に自ら足を運び、ユーロマイダン革命に身を投じた人々やそれに反対した人々等、立場を異にする人々に接してきた経緯もあり、こうした異なる見解を紹介することも、この新著の主目的になっている。それらを全てまとめることは難しいが、この戦争評価の難しさという観点から、できる限りの整理を試みたい。
著者は、まずこの地域の足元の混乱は今始まったものではなく、ソ連末期以来の社会変動の延長線上にある、という基本的視点を、経済、分離紛争、安全保障の3分野で説明することから始める。それは例えば、ドンバスが、石炭の豊富な埋蔵量から、ソ連時代は国内でも相応の経済的な豊かさを誇ったが、ソ連崩壊以降はその地位を失い、経済的衰退が社会的な不満を惹起し、それを逸らすために、国や地域の指導者らが、「国内党派政治」的な対応で糊塗しようとしてきたことに典型的に示されているという。また選挙や革命で民衆が意思表示することができない状況では、賄賂や汚職が瀰漫することになり、ウクライナも例外ではなかった。また「分離紛争」という観点でも、ソ連の解体過程での問題がそのまま残り、当該地域の親国家(例えばウクライナ)が、その上位国家(ロシア)に近かった限りはそれが表面化しなかったが、親国家が上位国家に反旗を翻すと、その地域の親国家との関係も緊張し、紛争が表面化することになる。また安全保障面でも、ソ連崩壊直後は、「NATOは東へは1インチも拡大させない」というベイカー米国務長官(当時)の発言にも関わらず、なし崩し的に旧東欧諸国の加盟で拡大した結果、ウクライナの「中立」構想が崩れ、ロシアとNATOとの関係を巡るウクライナの国内勢力の対立が高まっていったことが詳細に説明されている。当然ながら、クリミアやドンバスなどロシア寄りの勢力が強い地域は、ウクライナ中央政権との緊張が高まり、それが2014年のユーロマイダン革命で爆発することになったのである。こうして「2004年のオレンジ革命以来のウクライナ政治の分極化・地政学化の結果であり、(中略)ウクライナ政治を一層分極化させた。」ユーロマイダン革命の過程と、様々に論じられているその革命の意義が詳細に説明されることになるが、それには立ち入らない。ただこの革命が、「独立後四半世紀、政治対立があっても非暴力で解決してきた(紛争のイデオロギー化を避ける力があった)」この国が変わる契機になった暴力事件を起因とし、それが、最終的に露ウ戦争に至る双方からの暴力応酬の契機となったことは忘れるべきでない。混乱の中、ヤヌコビッチ大統領(当時)は、ハルキウ、ドネツクを経て逃げまくり、最後はクリミアでロシア特殊部隊に保護されることになる。そして東部のハルキウ、ドネツク、ルガンスクといった親ロシア地域の分離派が革命に抵抗し、それを革命派が攻撃、ロシアの支援を受けた分離派が反撃するという現在まで続くこの地域の混乱が始まったのである。2回に渡る内戦回避のための「ミンスク合意」にも関わらず対立は続く。オデサ労働組合会館放火事件は、その中でも最も残虐で多くの死傷者が出た事件であり、革命派はこの調査を忌避、他方分離派は抵抗の象徴とすることになる。他方、革命派も指導者の度重なる交替を経て2018年11月-12月の総選挙でゼレンスキーが新大統領となる。
こうして係争の地となった、クリミア、ドンバス、ドネツク各地域の歴史とそこでの政治・経済・市民社会の様子等の詳細が説明されることになる。それも深入りはしないが、基本的に紛争激化前は、ある程度の「自治」が認められることにより、分離独立やロシアへの併合等は想定されていなかったにもかかわらず、上記の紛争激化過程で大きく変わったというのが要点である。そしてクリミアはロシアが併合し、ドンバスやドネツクでは現在も激しい戦争が繰り広げられることになるのである。
そしてこの新書は、ミンスク合意が最終的に反故にされ、2022年のロシアによる侵攻開始とその後の出版時までの最新の経緯が語られるが、この対立の結末については、著者も展望を持てないままである。近い将来、ロシアがこうした地域を手放し、軍を引き上げることはあり得ないし、他方、ウクライナの軍事的勝利による奪還も考えられない。ましてや「ウクライナで改革が進み、経済水準でクリミア(やその他の係争地域)を越えることで(平和的に)返ってくる」のも全く期待できない。実際は、ロシアと、ウクライナを支援する欧米が疲弊し、戦争継続を諦めることしかこの戦争が落ち着く理由はないのであるが、これも何時になるかは、現状は見えない。
こうして戦争の先行きについては悲観せざるを得ないが、この地域の研究活動を行う著者の活動にはたいへんな畏怖の念を抱く。かつて学生時代に、ロシア革命以来のこの地域の歴史に強い関心を持ち、ある時期はそれを専門にしたいという気持ちも抱いた分野であるが、この私よりも6歳ほど若い著者の研究を目にすると、やはり私にはこれほどまでの能力も気力もなかったことを痛感させられる。足元は紛争地域に入るのは難しいが、それまではこうした地域に頻繁に足を運び、当然現地語を駆使して、対立する双方の側の人物に取材をし、そして前の著作と同様、この地域の政治、経済、社会の深い歴史的知識を披露する著者の研究は、これからも追いかけていきたい。ただ、議論の対象となっているこれらの地域を示す地図が著作中にほとんどないのは、この地域が複雑に入り組み、且つ一般的に馴染が薄いだけに、やや不親切であった。
読了:2023年10月28日