「帝国」ロシアの地政学
著者:小泉 悠
トッドのエキセントリックなウクライナ戦争論と並行して読んでいたが、それと比較して、この日本人学者の冷静かつ客観的な姿勢を痛感することになった。既に何冊か読んでいるロシア軍事研究者による2019年9月出版の単行本である。時期的にまだロシアによるウクライナへの本格侵攻は始まっていないが、そこに至るまでのロシアの発想を、彼らの立場から理解し、説明しようとする意図が明確に感じられ、たいへん分かり易く、説得力のある著作である。
日本にとっては、ロシアとの最大の課題は北方領土返還問題で、著者は自らが参加したビザなし訪問団への参加時の観察から始めているが、これはロシアの「地政学」の一断面で、また最終章で触れられることになる。そして、ソ連崩壊により、社会主義というイデオロギーを失ったロシアが、広大で、民族的にも宗教的にも多様な地域を統治するための「国民団結の理念」として、より「地政学的」発想を重視していったことが示される。他方、ソ連崩壊によりロシア系民族自体も国境で分断されたことから、この「地政学とアイデンティティがほとんど判別不能な形で癒着する」ことになる。著者は、それが、現在に至るロシアの行動を理解する基盤であるとするが、まさにその通りであろう。
ソ連崩壊以降、ロシアの国家像は、当初の「西欧志向」から、「帝国志向」、そして「大国志向」へと変化することになる。NATOの東方拡大や、旧ユーゴでの欧米の振舞を受け、当初の「西欧志向」は挫折。しかし「ロシアが旧ソ連諸国をコントロール下に置く」という「帝国志向」は現実的な処方箋とはなりえない。その模索の結果ロシアがとった姿勢が「大国志向」であり、それはより地政学的な要素が中心となるのである。
こうした中で、クリミアの強制的併合やドンバスでの民兵侵入(そしてもちろんそれ以降のウクライナへの本格侵攻)、これに続くシリアへの軍事介入や2016年の米国大統領選挙をはじめとする西側諸国の選挙介入といった近時のロシアの行動により、欧米では懸念が強まることになったことは言うまでもないが、他方「ロシアはむやみに介入を行っている訳ではなく」、「シリアと北方領土を除けば、ロシアの介入は旧ソ連諸国に集中している。」まさにその地域がロシアにとっての「地政学」的な防衛線となっているのである。こうした旧ソ連地域への介入の正当化を試みるロシアについて、著者はプーチンの数々の演説の中で主張されている「主権」概念で説明している。それによると「主権国家」とは「他国に依存せず、『自由』=自己決定権を自らの力で保持できる国だけ」であり、同盟等により安全保障を他国に依存する国家は「主権国家」ではない。プーチンにとって、その意味での主権国家は、米国、中国、インド、そしてロシア等一握りで、日米安保条約下にある日本や、NATOの保護下にあるドイツをはじめとする西欧諸国も主権は制限されているということになる。そしてそうした状況下では、「主権の偏在状況はパワーバランスに応じて変動する」ことから、それを維持する行動は主権国家には許される、という議論になる。他方で、「人道的理由に基づいて国家主権が制限されうる」とする冷戦後の「保護する責任(R2P)」論には強硬に反発してきた。プーチンにとっては、「主権国家の影響力が残る地域では、主権国家の介入は法的に正統」なのである。まさに今回のウクライナ紛争も、そうした欧米的「R2P」論とロシア的「制限主権論」の軋轢と見做すことができる。またそうしたロシアの主権が影響力を持つべき「勢力圏」は、@ソ連領土であった地域、Aワルシャワ条約機構の構成国、B「不安定で限定された影響力だけを発揮できたアジア・アフリカ諸国」という「グラデーション状の勢力圏理解」があるというのも分かり易い。こうした中で、冷戦終了後一極支配を持続させてきた米国の覇権が揺らいでおり、それを守るために米国が突き進んでいるのが「戦争に見えない戦争」で、そこから、ロシア勢力圏での多くのカラー革命の裏にある「陰謀論」が出てくることになる。従ってロシアにとって、現在の世界秩序を不安定化させているのは米国で、ロシアの介入は防衛的なものであるという、結論的には、トッドが主張している議論と同じものになる。ただトッドと異なり、著者は、こうしたロシアによる「歴史的主権」の行使は、論理的には他の大国も同様の特権を周辺諸国に対して持つことになるが故に容認できるものではないとする。そしてそうした介入を行うことにより、「周辺諸国の警戒感を強め、結果的に勢力圏を衰退させる作用を持つ」ことは、今回のウクライナ侵攻が、従来NATOと距離を置いてきたスウエーデンとフィンランドの加盟を促し、またウクライナのロシア離れを一層進めることになったことでも裏付けられている。
こうした総論を受け、著者はグルジアやバルト三国、ウクライナ、中東、そして日本との北方領土問題について、個別に見ていくことになる。詳細は省くが、グルジアでは、著者自らが目撃した「国土の20%がロシアに占領されている」という町に張られたポスターから、南オセチアとアブハジアの占領の経緯が説明される。またバルト三国のソ連による占領と支配の歴史や、その条約を巡る正当性論争、あるいは、ロシア系国民を多く抱えるエストニアとラトヴィアの問題等が説明されている。またウクライナについては、今回の侵攻前の時点での報告であることから、既に直前に読んだ松里公孝の著作で詳細な最新状況を読んだ上では付け加えることはない。
これに対して、2015年9月末、ロシアが反政府勢力やイスラム国との内戦で苦境に陥っていたシリア、アサド政権を支援するために介入したケースは、ロシアの勢力圏という観点では例外的な事例であったとされる。これは、オバマ政権以降、米国が中東への関与を弱める中で生まれた「真空」を埋めるものである、という論調も見られたが、他方で派遣された軍人の中には、「何故シリアで闘わなければならないのか?」という批判もあったことから、プーチンの対外戦争への参加としてはやや例外的なものと評価されている。そしてロシアによる支援も限られたこの遠隔地への介入に際しては、基本的には、「すべてを丸抱えせず、現地部隊を支援、指揮するという立場に回ることで、大規模な地上部隊の派遣を避け(存在を高めることに)成功した」ということになる。そして、それ以降発生したイエメン内戦や、イランとイスラエルとの限定戦争などでは関与を控え、また今回のガザにおけるハマスとイスラエルの大規模な激突でも、ロシアは関与しない姿勢を維持していること(あるいはウクライナでの戦闘もあり、そうした余裕はない)を示している。こうして、著者は、ロシアのこの地域への関与は、「中東への影響力を回復する途上にあるものの、その度合いはあくまで域外大国としてのそれに留まる」とまとめることになる。
地域戦略の最後は、冒頭に著者も訪れた北方領土を巡る日本との関係となる。1951年にサンフランシスコ条約で日本が「主権を放棄した」これら4島は、しかし「誰に対して主権を放棄したか」は明記していない。それもあり、これが日本とロシアの間で長く続く懸案となってきたことは言うまでもない。しかし、冒頭のロシアの理解による「主権」概念を考えると、日米安保条約下にある日本は「半主権国家」であり、「日本がロシアと何を約束しようが、米国に強く言われれば、北方領土に米軍基地や戦闘部隊が展開する可能性が排除できないというのがロシアの日本観である。」更にロシアにとっては、2014年以降の対米関係悪化を受けて、北極及びオホーツク海の「核要塞」の再構築が戦略的な重点課題となったことも指摘されている。もちろん軍事要因だけではない、経済や外交といった要素もロシアの政策決定に影響を与えることは考えられるが、少なくとも現状の「劇的な米露関係の悪化は日露関係を強く制約する要因である」というのが著者の見方である。更に日本には、急速に台頭する中国の脅威に対応するためロシアと連携しようという議論もあるが、これは現在の中露関係を考えると、ほとんど現実性はない、という著者の議論もその通りである。ただ中国も一帯一路等を通じてロシアの勢力圏に触手を伸ばしていることもあり、将来的にそうした中露関係に隙間ができる可能性が全くない、ということではない。その意味で、世界情勢の不透明感は益々深くなっているので、折々の状況を踏まえた的確な判断が必要ということであろう。
地域政策の最後に、著者は、北極海を巡るロシアの戦略を紹介している。ここでは、気候変動により、北極海を覆っていた冠氷が減少し、軍事面に加え、資源開発及び航路としての北極海の利用可能性が高まってきたことが、近時の戦略に影響を与えているという。こうした北極地域を巡る「協調と対立のいずれかの側面が前景化されるかは、ロシアと西側との『対立及び紛争』が決定的な影響を有する」というのもその通りであろう。そして冒頭で著者が訪れた北方領土を巡る「巨人」ロシアの隣人としての日本の運命に関わる随想で、この著作が終わることになる。
ロシア崩壊後の混乱の中、その国家としてのアイデンティティの模索を続けてきたロシアは、プーチンの指導下で再び大国としての地位を復活させてきた。一時期はG8として欧米日本との首脳会議にも招待されてきたロシアであるが、NATOの旧東欧諸国への拡大を受け、欧米に対する懸念を強め、その結果、ウクライナ侵攻を始めとする欧米諸国との対立の激化をもたらすことになった。そうしたロシアの行動を、いわば内在的に理解し説明しようという試みが本著作であり、それはトッドの様に、自らの立場を一方的に主張するだけではないことから、十分な説得力を持っている。こうした内在的なロシア分析が、今後の日本や欧米の対ロシア政策にどのような影響力を持つかは定かではないが、少なくとも欧米日本の政治指導者たちが、こうした分析を理解した上で、今後の対ロシア政策を検討・実行していくことを願うのみである。国際情勢は、益々不透明になってきているだけに、こうした冷静な分析に基づく行動が必要とされることは間違いないからである。
読了:2023年11月9日