戦時下のウクライナを歩く
著者:岡野 直
図書館から借りた本としては新しい、2023年7月出版の新書で、1960年生まれの朝日新聞記者による戦時下ウクライナのルポである。そもそも外大ロシア語学科卒業で、入社前後の1984年と1989年の2回モスクワに留学した経験もあることから、そのロシア語力を生かして、危険なこの地域を移動しながら、多くの人々の話を聞き、この戦争の実態を伝えている。それは生々しい報告であるために、いっきに読み進めることができる。
著者の取材は、2月24日のロシア侵攻前後の様子から、占領下で行われたブチャでの虐殺現場、激しい攻防の末ロシアに占領されたマリウポリの状況、そしてこうした戦争を支えるボランティアの活動から戦闘に参加した普通の人々等様々であるが、その根底にあるのは、何故この国がこうした侵略を受けたのか、そしてそれにどのように対応しようとしているかという問題意識である。
ロシアの侵攻直後、首都キーウ数10キロまで迫っていたロシア軍に立ち向かった領土防衛隊を、戦闘に参加したり、食事を提供したりして支えていた一般市民の証言からこのルポが始まる。一方、闘うことを忌避して逃亡しようとしたが、ポーランド国境で阻止された20代の男性の声も伝えている。また当初のロシアによる占領下で、友人が拷問、虐殺された男性の証言。彼もロシア兵に尋問されたが、スマホ情報を消去していたことが助かった理由ではないか、という話が生々しい。そのロシア兵は、白系ロシア人よりもモンゴル系が多かったという。著者は、その後解放されたブチャも訪れ、その惨劇の場の様子を写真と共に伝えている。
そして著者は、激しい戦闘が行われていた南部ヘルソンへ向かうことを考えるが、交通手段の制約もあり断念し、電話により現地で拘束、拷問されたが、最終的にウクライナが守り切ったことで解放された新聞記者の話を聞くことになる。しかし、守り切れず、現在に至るまでロシアの占領期におかれている50万人都市マリウポリの状況は、2万人以上の死者と建物の90%が破壊されたと悲惨極まりない。そこを無差別攻撃するロシア軍と、地下壕に避難して難を逃れようとした市民の様子が、幸運にもそこから逃れてきた人々の話として報告されている。そこで最後まで抵抗した、ロシアがナチ・テロリストと呼ぶアゾフ連隊や、それにも関わらず陥落したアゼフスラーリ製鉄所の話しは当時良く聞いたものであるが、ここではそのアゾフ連隊の名前は出てこない。
マリウポリでは多くの子供が避難していた劇場もロシア軍の砲撃に会い、多くの死傷者がでたことは、当時の報道でも記憶していたが、その破壊された劇場をスロバキア国境に近い西部に再建しようという話を聞き、著者はその街ウジホドロに向かうことになる。それは「ロシアの世界」についての人々の実感を探る旅でもあった。
劇場再建を担う女性演出家は、侵攻前のマリウポリの劇場運営で、既に親ロシア派とウクライナ派の軋轢が存在していたことを語る。前者は、ロシア文化を尊重し、演劇もロシア語で、後者はウクライナ語で行うといった違いがあった。それが2019年の関係法規により、ウクライナ語以外の映画、演劇は、ウクライナ語の字幕等を添える形に変更されていた。しかし親ロシア派の作品はそれを無視していたとされる。
憲法では、公用語はウクライナ語のみであるが、実際には多くの人々が両国語のバイリンガルであり、時と場合で使い分けているという。著者も、今回の訪問、インタビューでロシア語を使ったが、当初敵視されるかと危惧していたにも拘らず、著者がウクライナ語はできないと分かると、人々は嫌がらずにロシア語でインタビューに応じてくれた。その意味では、ウクライナ派の中でもロシア語は日常生活で使われているし、現在もそうである。しかし、今回の侵攻で、そうした言語や親しむ文化の相違がより先鋭化されることになったー例えば書店からはロシア語の本は消え去ったというーことは間違いない。著者は親ロシア派の人々の話も聞いているが、彼らは彼らで、ロシア文化が抑圧されていると感じており、それはまさに今回のロシアによる侵攻の最大の口実になっている。他民族、多言語社会の難しさを改めて感じさせる報告である。新たに再建されたウジホドロの劇場では、ソ連時代に「民族主義者」として逮捕され、1985年にハンガーストライキの末獄死した詩人ワシーリ・ストゥスの生涯をテーマにした演劇や、ウクライナの伝統的な人形劇などが、当然ながらウクライナ語で上演されているという。またこれは昨日(12月24日)のNHKニュースでも報道されていたが、ギリシア正教では1月7日にクリスマスを祝うが、今回の戦争を受け、今年はウクライナでも正式に、西欧に合わせた12月25日に各種の儀式が行われるようになったことも報告されている。またそれは、戦時下にも関わらず、キーウ等で営まれている「普通」の日常生活として本の最後で触れられている国立バレエ劇団の公演の様子でも示される。これも昨日(12月24日)のNHKテレビのニュースで、ウクライナ国立バレエ団日本公演として報道されていた。著者は、バレエ芸術監督である寺田宣弘氏(キーウ在住36年)の話を伝えているが、彼は今回の日本公演で当然ながら来日している。NHKの報道によると、日本で演じられたその演目の主題曲は、元々はロシア作曲家のものが使われていたが、今回の講演ではそれがウクライナの作曲家のものに替えられたということである。
その他、著者が前線に近い北東部ハルキウの取材時に世話になった多くのボランティアの活動の様子と証言、そこで戦闘に参加している元大学教員の女性兵士や神父、あるいは元大臣の話等も心に残る。そして国立バレエ団を含めた戦時下での「豊かで普通」の日常生活の背後で行われている電力や輸送の確保のための、あるいはウクライナが攻撃できないサポリージャ原発を占拠し、そこを要塞化するロシア軍に対し、その原発の危険を回避するための懸命な努力などの報告等。本の最後は、そのウクライナを率いるゼレンスキー大統領についての、少数ながら批判的な意見も含めた人々の証言でこのルポは終わることになる。
足元、米国議会でのウクライナ支援の縮小議論や、大統領選挙を巡るトランプ・リスクの拡大、そして何よりも中東でのイスラエル対ハマス戦争で、ウクライナに対する支援の先行きが不透明になっている。今日(12月25日)の日本のテレビでの「クリスマス報道」でも、長期戦を決め込み、軍事予算もつぎ込んでいるプーチンが、その動きに喜んでいる様子が伝えられている。ゼレンスキーは、そうした状況に度々警告を発し、また日本でもウクライナ人たちによる街頭での訴えや募金活動等が行われている。おそらく帰国後の著者も、そうした活動に関与すると共に、米国での動きなども危惧しているのだろう。そうした思いを個人的にも深くする著者の渾身の現地ルポであった。
読了:2023年12月24日