アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十章 欧州統合の視線から
第三節 ユーロ
物語 ウクライナの歴史
著者:黒川 祐次 
 中公新書の「物語」シリーズ中のウクライナ版。著者は1944年生まれの外交官で、駐ウクライナ(モルドバ兼務)大使も歴任している。この新書の出版は2002年8月ということで、言うまでもなく、今回のロシアによる侵攻や、それ以前の2014年のクリミア統合などが行われる前で記載は終了している。しかし、この国、あるいは地域を巡る複雑な歴史を、大使時代に現地で入手したと思われる情報を含めて分かり易く説明しており、現在のロシアとの戦争を理解する上でも大いに参考になる。

 この地域の古代についての、司馬遼太郎による、ヘロドトスの「歴史」に登場する「スキタイ」と、司馬遷の「史記」に登場する「匈奴」の紹介から始まるが、この辺りは跳ばすことことにする。ある意味、ウクライナの古代も、ここのところ多数の本に接してきたモンゴルとも共通するユーラシア大陸に生息した古代民族―それは何よりも、騎馬術に優れた戦闘的な民族という共通点があるーの歴史と重なっていることだけ踏まえておけばよいだろう。また地域的には、神話時代から歴史時代に入り、このウクライナの黒海沿岸やクリミア半島が地中海性気候で住み易いことからギリシャ人等の移住の対象となっていたというのも、現代のこの地を巡る紛争を考える上でも興味深い。

 ラテン、ゲルマンと共に現在のヨーロッパを構成する三大民族の一つであるスラブ民族は、文献上に初めて登場するのは、三民族の中で最も遅い6世紀になってからで、尚且つ特段武力を使うということでなく、東ヨーロッパに静かに広がったという。そして12世紀に編纂された「原初年代記」で、キエフの街の創設と、そこを基盤とするキエフ・ルーシ公国の建国が記録されることになる。これが現在のロシア、ベラルーシ、ウクライナ三国の起源となるが、以降は、王族間の内紛もあり、その中心がキエフから次第に北に移っていく過程が示される。またこの時代(10世紀頃)に、キリスト教が国教として受け入れられるが、それがギリシャ正教だったことが、その後のこの地域の宗教性を決めることになる。そして13世紀のモンゴルによる征服で、このキエフ・ルーシ公国は消滅するが、モンゴルは「服従を誓って納税すれば自治を認めた」ことから、それなりの地域権力は維持され、またイタリア商人を中心に、東西の交易路も復活したことから、この地の穀物、魚、皮革、奴隷等が取引されたという。またこの時期、モスクワ公国、ポーランド王国、リトアニア大公国によるこの地域の権力分割が進んだということである。特にリトアニア(スラブでもゲルマンでもない、「孤立した」部族であるという)がそれなりに大きな支配地位を固めたというのは今回初めて知った面白い歴史事実である。更にポーランドがユダヤ人優遇策をとったことから、この時期、西欧カトリック協会に迫害されたユダヤ人がこの地域の都市部に流入したというのも重要である。後年歴史に登場するトロツキー、ジノヴィエフ、カガノヴィッチ、シャガール(そして現大統領のゼレンスキー)等はこの地域の生まれであり、こうしたこの時期の移住ユダヤ人の末裔であるようだ。

 17世紀半ば、モンゴルの勢力が衰えるに従い、コサックがこの地域の中心勢力として台頭すると共に、この勇猛果敢ではあるが独立志向の強いこの集団をどのようにコントロールするかというのが、特にこの勢力を利用したポーランドの課題となる。そしてそうしたコサック勢力の中から17世紀になると、ポーランド支配に反旗を翻して、ウクライナ地域で初めて実質的な「国家(ヘトマン国家)」を打ち立てたフメリニツキー等も現れることになる。しかし、彼の死後は再びこの地域はモスクワ、ポーランド、トルコ、タタールを巻き込んだ混乱に陥ることになるが、18世紀末にはポーランドもロシア、プロイセン、オーストリアに分割されたこともあり、ウクライナ地域は大部分がモスクワ、西の一部がオーストリアの支配下に入ることになるのである。

 この時代特記される動きとしては、ロシアのみならずウクライナでも工業化が進み、その労働者としてロシア人がウクライナ地域に大量に流入したことが挙げられる。これが、都市部のロシア人(そしてユダヤ人)と農村部のウクライナ人という現代まで続くこの地域の民族問題の源泉となる。他方、この地域でのバルザックやチャイコフスキーを巡る逸話や、1853年―56年のクリミア戦争のロシアへの影響も興味深い。更に経済難から、多くのウクライナ人がこの時期ロシア極東地域に移住し、その結果日本の対岸にある極東地域には、今でもウクライナ系の人口が多いというのも、遠く離れたこの地と日本の縁を感じさせる。

 以降は20世紀に入り、社会主義がこの地域でも次第に広がっていく様子を中心に語られる。1905年、オデッサ港での「戦艦ポチョムキン」の反乱は映画でも有名であるが、その背後で、反乱兵士に日本軍から資金が流れていたという説もあるという。またオーストリア支配下の地域では、啓蒙君主のもとで、ロシアより締め付けは厳しくなかったことから、それなりの民族意識も高まることになる。更にこの時期、農民を中心にアメリカやカナダへの移民も増加し、現代でもこれらの国でそれなりの政治力を持っているというのも、現在のロシアとの戦争を見る上で留意しておくべきなのだろう。

 そして第一次大戦と1917年のロシア革命。10月革命直後に、ウクライナの民族主義者たちは、「ウクライナ国民共和国」の創設を宣言することになるが、まずは独墺軍とボルシェヴィキ、その後は反革命軍やその他の国の干渉に巻き込まれ、独立は短命に終わる(この時期、ペトログラードの若き大使館員であった芦田均が、この地位を視察して記録を残している)。そして戦後は最終的にこの地域はボルシェヴィキのソ連に加え、西部の一部がポーランド、ルーマニア、チェコ・スロヴァキアの3か国に分割支配されることになる。ソ連地域では、革命直後こそ「ウクライナ化」が進められるが、その後スターリン独裁が確立すると穀物強制調達などで、厳しい飢饉に襲われる。そして第二次大戦での激しい戦闘と戦後復興。フルシチョフ政権のもとでの一定の民族主義への理解(クリミアの返還)からブレジネフ政権での停滞の時代を経て、ゴルバチョフの登場とソ連の解体、そして1991年8月の「350年間待った独立」に至るのである。

 こうしてこのウクライナと呼ばれる地域の通史を眺めてくると、やはり列強が交錯する陸続きという地理的要因が、民族や宗教の複雑な交錯を生み、それが安定した国家という枠組みを打ち立てることを難しくしたことが容易に理解できる。更に、そこが肥沃な穀倉地帯であったことや、クリミア半島等、黒海沿岸の温暖な気候の魅力もあって列強が進出したくなる要素を持っていたことが加わることになる。そこでは歴史的な「国境」はなく、それは夫々の勢力が自分の都合で決めることができるものであったということである。現在のロシアとの紛争が、最終的にどのような形で取りあえずは落ち着いたとしても、これから将来に渡ってはまだ何度も動きが出てくるのだろう。そうした地域の宿命を感じつつも、足元は、中世コサックの勇猛果敢な伝統を持つこの民族がロシアの脅威を跳ね返すことを祈るばかりである。

読了:2024年11月27日