アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十一章 その他
ベルリンに帰る 1997年ドイツ日誌
著者:B.ソゼ− 
 独仏の通訳として始め、1990年代には独仏協カの研究機関を立ち上げ、現在はフランス人でありながらシュレーダー政権の独仏関係担当補佐官にまで任命されている女性の、日記形式による1997年のドイツ記録である。かつてブルポン朝フランス官廷のドイツ通として知られたスタ−ル夫人を意識しつつ、フランス人の立場から、見た現代のドイツを、哲学、文学の素養も随所に散りばめながら描いていくが、それ以上にこの1997年のドイツは、私自身のドイツ滞在の最終局面にあたっていたことから、自分のドイツ体験と重ね合わせながら読み進めることになった。ここでは私の日誌を平行的に眺めながら、著者の感性を見ていこうと思う。

(1月)
 前年のクリスマスの余韻の残る中、1997年が始まる。そのクリスマス、フランクフルトの教会で、ミサの最中2人を巻き添えにした爆弾自殺の三面記事が短く触れられる。そう、そんな事件があった。クリスマス明けのコ−ル首相の初仕事は180人のシテルンジンガ−を迎えること。三王礼拝の歌は、英国に比較すれば宗教が日常性に下りていたドイツの風土を思い出す。著者のドイツにおける拠点、ゲンスハ−ゲン。ベルリン南部20キロに位置するこの町は、依然旧東独の雰囲気を残している。それはチュ−トン騎士団の東方移民からプロイセンを経て、2つの大戦と共産主義時代の痕跡が依然として残っているドイツ、私が西独地域では余り感じることのなかった、しかし旧東西国境を越したアイゼナッハやエアフルトで感じた田舎感覚のドイツなのである。

 ドイツ−チェコスロパキア(当時)共同宣言を巡る世論。ヒトラ−の侵略と戦後の約300万人のズデ−テン・ドイツ人の追放と財産接収。月末、この共同宣言は調印されるが、CSUの票田となっている後者の補償については「未来のドイツ基金」が創設されたのみで、具体的な決定はなされなかった。

 ドイツの図書ベストセラ−順位。フランス人は8−9割フランスの本を読むが、ドイツ人の読書はグロ−バル化している。これはむしろフランスが例外ではないか、という著者の自問。独仏の国家観の相違−フランスの出生地主義とドイツの血統主義。

(2月)
 エアハルト生誕百周年。ドイツ社会的市場経済の父に対する称賛が、ライン型資本主義の変化の兆しが現れる中で行われたことには簡単にしか触れられていない。ファッスングとモ波ドイツ中心のカ−ニバルは、ある州立銀行でのナーレンシュピーゲルを思い出させる。「フベルトシュトックの狩りの館」。ホ−エンツォレルン家の狩り場はゲーリング、そしてホ−ネッカ−に受け継がれ、現在ではブランデンブルグ州の首相シュトルベが実業家たちを招待する。案内の女性は、こうした狩り場の歴史については黙して語らなかったという。ゴールドハーゲンによるホロコ−スト本の反響。ゴアレーベンヘの核廃棄物輸送を巡る議論。

(3月)
 ゴアレ−ベンへの移送が終了すると、今度はザールとルールでの補助金削減反対の炭抗労働者デモが始まる。リ−ベンベルク城を巡る、オイレンブルグ事件とドイツにおける性的なものについての、良俗面における抑制的態度。

(4月)
 ドイツのメディアにおける社会保障制度、財政改革、年金改革についての視聴者参加の真剣な議論。ドイツ人が「世界を把握・理解しようとする欲求を持っていること」。フランスでは類似した態度は殆ど専門家にしか見出せない。ビスマルクとも親交があったタデン家の領地、ポ−ランドに近いトリ−グラフヘの旅。ソ連軍の侵攻で破壊された墓地等。

 フランクフルトで開会式が行われた「国防軍の罪」展。会場となったパウロ教会には、第一週だけで2万人が訪れたという。私はこの展覧会の記事と展示に、会仕の同僚ドイツ人が関与していることを知っていたが、残念ながら展示自体は見逃した。

 クロ−ン牛を巡る論議。シュピ−ゲルの表紙は果てしなく続く3人の人物の行進。それは、
ヒトラ−、アインシュタイン(ウルムの出身だそうだ)、そしてクラウディア・シェーファー。これが現代ドイツの三つの典型なのか。そして月末、今年のベルギリウスの夜は大きな騒乱もなく過ぎ去ったようだ。トイツにおける暴力についての考察。

(5月)
 ポ−ランド国境近くの城館ホテル。ひとつのホテルを巡っても、ナチ時代から1989年革命に至る暗い記憶がある。フランス人にとっては、その城と関係するある将校は、パリの虐殺の記憶を呼び覚ます。ケ−ニヒスベルグ、メ−メル、ティルジットといった、いまやロシア領となっている旧東プロイセンの町。過ぎ去った幸福と、今日の悲惨、荒廃、遣棄の状態の対比。カンヌ映画祭でのドイツ・ナショナリズムの昂揚。ドイツ・ナショナリズムは、常に侵害され、忌避され、中傷され、差別されたといった、言わば劣等感に接木された攻撃性である。これに対し、フランスのナショナリズは(それが幻想であったとしても)優越感に接木されているために攻撃的ではない、と言う。

 戦争の傷痕はまた時折浮上する。暗殺首謀者に対するヒムラ−の残虐な報復と首謀者の家族の復権の遅れ。終戦前後に処刑された脱走兵の復権。あるジャ−ナリストによると、国防軍は、約5人の自軍の兵士を処刑したという。ボスニアでのドイツ兵の事故死。戦後初の海外での兵士の死。東独秘密警察の長、M.ボルフに対する寛大な判決。

(6月)
 マ−シャル・プラン決定50周年。「ドイツは自らがアメリカ合衆国に負っていることを考えている。」しかし「ドイツはフランスよりもアメリカ化していないと同時にアメリカ化してもいる。」それは日本もまた同じである。戦後の占領者アメリカに対する追従と反感。三島や石原慎太郎らの伝統主義者が意図的に反米色を出すのは、アメリカに対する愛憎共存の現れであり、ドイツも同様であろう。しかしドイツと日本で異なることがひとつ。ドイツは60年代にフロイトやウェ−バ−を介した亡命者集団により大きな米国文化を形成した。日本がそうした影響をアメリカに及ぼしたことは全くない。

 ドイツ語正書法の改定(Sツェットの廃止等)、パイゲルの連銀保有金再評価問題。NTVの悪口:アメリカまがいの経済情報はまだ良いが、「sparen」−税金・保険・住宅建設等々で凝り固まったコマ−シャルには耐えられない。ドイツ人の倹約癖は有名である。何事も完全主義で仕上げようとする傾向。
 ドイツで最も美しい季節であるはすの6月末は、雨、風、寒さの中で空しく過ぎ、シュプレ−川の枕許ではその間も巨大な建設浩二が行われ、派遣法をかい潜った闇建設労働者により、ドイツ人労働者は失業中である。

(7月)
 「思考するための言語としての」ドイツ語についての省察。確かにヘーゲルやハイデガ−の哲学はドイツでしか生まれようがなかったし、それは真理に向け、徹底的に論理的であろうとするドイツ人気概を象徴している。しかし、他方で、サルトルやメルロ−・ポンティの哲学はフランスでしか生まれようがなかったのも確かであり、まさに退屈な論理に帰依しうるドイツ人(「退屈させることはドイツでは大罪にはならない」)とレトリックを尊重するフランス人との思考様式の差が歴然と出ている部分である。しかし「自然から離れて漂流する近代的人間」を作った責任からデカルトは今やエコロジストの第一の敵になっている。

 ベルリンでの「ラブ・パレ−ド」。テクノ/レイブ世代のウッドストック。フランクフルトでもゲイ/レズ集会が開かれていたことがあった。保守的小市民が小ぎれいな秩序を築く中で、時としてアバンギャルドが町を占拠するドイツ的現象。

 普段は密航者が簡単に渡航できた程度の川幅をもつオ−ル川の氾濫。「フランクフルトがフランクフルトを助ける」との標語を私も記憶している歴史的な水害。羊が流されていく新聞の写真を覚えている。ライン川の氾濫にも遭遇したが、欧州の川との共存には、日本では体験できない深さがある。

(8月)
 休暇時期の「夏の空洞(Sommerloch)」。FAZに結婚紹介欄があったことは知らなかった。しかも、ロンドンの「タイムアウト誌」にあった「Lonelyheart」等とは異なる「エリ−ト」やけ「上流階級」の求婚広告。ドイツには一般的には欠如しているジョ−クの世界なのだろうか。あるいは何事にも絶対の自信を示すドイツ気質の現われなのか。

 ユグノ−の息子の作家フォンタ−ネ(「シュテヒリン湖」)。人気作家であるというが、私は聞いたことがなかった。「人間のドラマすべては日常生活、それも、平凡さの中にある。」ドイツ版チェ−ホフだとすると、私には向いていない。ギュンタ−・デ・ブロイン「わがブランデンブルグ」。1930年代のブランデンブルグでの少年時代。こちらの方がまだ良いか。

 「ドイツ人は礼儀正しい時は嘘をついている」(ゲーテ)。ドイツとフランスの礼儀作法の相違を宮廷文化の発達の相違に求めるノルベルト・エリアスの「宮廷社会」。
ダイアナの事故死。ドディ−の母親はカショギの妹であり、ダイアナの地雷撲滅運動と矛盾すると言いながらもドイツの民衆も新聞も、ダイアナには好意的であった。「イギリス支配階級の、女性教育の社会的通念の犠牲。」

 フライア・フォン・モルトケの回想録「思い出の記」。ドイツの名門貴族で、反ヒトラ−抵抗運動により処刑されたヘルム−ト・ジェイムスの妻による終戦時の回想。特にロシア人とボ−ランド人の関係。「ポ−ランド人から逃れるためロシア人の保護下に入った。」同じ時期のロシア側の事情はソルジェニ−チンの「東プロイセンの夜」が参考になると言う。

 いくつかの事件でのドイツ人の犠牲者。アンゴラ沖の軍用機衝突。ボスニア派遣軍のヘリ墜落、そしてエジブトでの観光客襲撃(死者9名)。ドイツの世論はこれを冷静に受け止めた、という感覚は私も共有できるものである。恐らく日本では大変な責任問題になっていただろう。半面でインドネシアの人為的山火事にドイツ人ははるかに強い関心を抱いている。環境問題について世界を擬人化、人間化する傾向に著者はやや癖々している。

(10月)
 女性論。著者によると子育てに関するドイツ人女性の感覚は日本人に近い。もちろん変化しつつあるが、子供のために仕事を犠牲にするという傾向が、間違いなくフランス人より強いという。著者によれば、それは離婚に当たっての女性の権利がフランスよりもドイツの方が強いからである。「ドイツの女性はまず何よりも母親」なのである。しかし、子細に見ると、必ずしもフランス女性の方がが解放されている訳でもない。フランスの女性参政権が認められたのはドイツのみならず、トルコやインドより遅く、国民議会への進出も遅れている。それはフランスで女性への影響の大きい教会と国民議会とのやや離れた関係や、「人の気に入られることという鉄の規則が君臨するフランス社会」といった要因があるという。田舎者ドイツ人はそれなりに産業化され、農村社会フランス人の意識には伝統的思考が残ったという側面。いずれにしろ、「第二の性」やS.ヴェイユはドイツでは現れなかっただろう。

 ロシア人による誘拐殺人事件。1980年代の歴史家論争は、ナチの残虐行為が「絶対悪」の表現であったのか、あるいはスタ−リンの恐怖政治−アジア的残虐のもたらした恐怖からのものであったのかが主要論点となった。ロシア人の犯人はアジア的側面をドイツ人に思い起こさせたという。

 ドイツ人の正義感の考察。「良い側」「親切な側」にいることの安心感。ドイツ語には、「悪意」という概念は存在しないし、「思想健全な者」や「好人物」を嘲ることはできない。皆、良き市民であろうとする。が、それを利用したのはナチも同様であった。G.グラスの落した知的爆弾はその対極に位置する。ドイツ人の外国人嫌いの非難とトルコ政府の対クルド政策と同政府への武器引き渡し批判。「良き市民」に潜む欺瞞を暴く爆弾。ボン基本法の建前とスキンヘッドの本音。どこにてもある矛盾である。

(11月)
 クルップによるティッセンの敵対的買収提案。今から考えると、この事件がライン型資本主義変質の最初の兆候であった気がする。この月の第一週、私はパリ郊外でビジネス・スク−ルでの研修に参加していたが、そこで道路公団事件の第一報に接していた。日本型資本主義もその時期、同じように変質の兆侯を示していたと言える。

 11月9日、ワイマ−ル共和国成立、ヒトラ−のミュンヘン暴動失敗、そして水晶の夜、更に壁が崩壊したのもこの日である。この4つの中で、ドイツで最も話題にならないのがワイマ−ル宣言であるという。

 16日は「国民哀悼の日」である。ルタ−以来、改悛することがドイツ人の性癖になってきたと言う。フランス人が「罪の許し」を求めるのに対し、ドイツ人はその「有罪性」の許しのために祈る。

(12月)
 「指導者養成大学校」、即ちフランスにおける「陸軍士官学校」の同類がドイツ右翼を講演会に招いたというシュピ−ゲルのすっぱ抜き(「狼が来た」と叫びたくなる話)。ドイツ国防軍が戦後受けてきた「内面の規律による行動」原理と60年代以降顕著になる徴兵拒否。「もはや彼らの社会的奉仕活動なしで寝たきり老人や身体障害者施設がどう機能するか分からない。」

 グラス家での個人的夕食会。生身のドイツ文学界の巨匠が「ひらめ」を切り分ける姿。
新教の教義の中で重要な「直接性(Uumittelbarheit)。司祭や聖者、秘蹟の助けなく、神に直接見える仕方。真理との直接対峙という発想は、ドイツ哲学の真髄かもしれない。

読了:2000年2月28日