アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十一章 その他
ドイツ 町から町へ 
著者:池内 紀 
 ドイツ文学者が、ドイツの72の町に係るエピソ−ドを、旅行記風に綴ったエッセイである。既に何冊もこの著者のものは読んでいるが、その都度、洒落て気のきいた文章に、思わずにんまりとしてしまうのであるが、しかしそれ以上に何かがあるものではない。結局、今後それぞれの町を訪れる機会があれば、旅行ガイドとして手元にもっていたい、というタイプの本である。

 当然私も知っているエピソ−ドが多いが、いくつか、初めて聞いたエピソ−ドを中心に抜き書きしておく。どうしても、余り私自身は訪れなかった北ドイツは馴染みがなく、中部及び南部ドイツが中心になる。

 友人を訪ねて、一度だけ訪れたことがあるハンブルグ。私の記憶では、彼に案内してもらったエルベ川の高級別荘地の印象が強いが、著者が取り上げているのはハンブルグ演劇である。1767年にここに国立劇場が設立された時、監督として招かれたのがレッシングであったが、客の入りが悪く、翌年には閉鎖されてしまった。それでも、彼の銅像は、旧市と新市の境界にあるゲンゼマルクトに聳えているという。レッシングの失われた夢が、現代に至り、グリュントゲントスらの名優によりかなえられた、という話。

 イエ−ナを訪れる機会はなかったが、このフィヒテやヘ−ゲルが教鞭をとったことで知られている町は、また著者によると、カ−ル・ツァイスがレンズ工房を開き発展させた町でもある。ドイツ資本主義を象徴するような、技術に裏付けられた職人集団の典型。そして書店のフィッシャ−社が誕生したのもこの町であるという。

 マイセンも訪れる機会はなかったが、マイセン陶器には随分とお世話になった。しかし自分では買うことのなかったこの陶器は、ヨハン・ベドガ−という錬金術師が、ザクセンのアウグスト「剛胆王」の脅迫にも似た支援により1708年により開発し、その後のザクセン王室のドル箱になったものだという。1923年のハイパ−インフレの際に、ドレスナ−銀行が、マイセン磁器による貨幣を作り地域的に流通させた、というのも面白い話である。

 ワイマ−ルのゲ−テ記念館。「目とくらべると、耳は沈黙した感覚である」というゲ−テの言葉どおり、彼は音楽には関心を示さず、ひたすら目で見ることにこだわったという。私が、この記念館で見たことは、機会があれば別にまとめてみたい。

 ケルンは当然のことながら大聖堂の話になる。13世紀半ば、建造を請け負った棟梁のゲルハルトは、自分一代で建築しようと、悪魔の力を借りたが、その賭けに敗れ足場から身を投げた。その後、ゲルハルトの亡霊が夜な夜な現れる、という「ファウスト伝説」。そして普仏戦争の賠償として、フランスの大砲を鋳潰して作った「皇帝鐘」。鳴ることが無いまま1908年、設計上のミスから落下し、そのまま第一次大戦中に鋳潰されてしまった、という。

 ベルギ−に滞在していた英国の友人達と、中間地点ということで待ち合わせた町、ア−ヘン。起源800年頃、カ−ル大帝が、「ゲルマン民族のはじめての国の首都」とした町は、1849年、ロイタ−という33歳のドイツ人が伝書鳩を使い、ブラッセルと交信する事務所を開いた町である。彼はその後、英国に渡り成功することになる。

 グリム兄弟が生まれた町ハ−ナウは、初春、まだ小さかった子供を連れて週末の気分転換に訪れたことがある。こんな田舎に、ロコロ風の宮殿があるのかと驚いたものだが、それが「フィリップスル−ヘ」であった。ハ−ナウ公という田舎貴族が、ベルサイユ宮殿を模倣して建築したその宮殿の庭に長く滞在するには、まだ冬の寒さが残っていた。上空を、西にあるフランクフルト空港に向かい、着陸態勢をとる航空機がひっきりなしに飛んでいたのを記憶している。

 ヴィ−スバ−デンは「ラ−トハウス」、ヴユルツブルグは「リ−メンシュナイダ−と後期ゴシック」、そしてフランクフルトは「ロ−トシルド」。この辺のネタはよく知られたものである。フランクフルトの「エッシェンハイム塔の9つの穴」の話だけが、初耳であった。

 バ−ト・ホンブルグは、30年戦争で足を負傷したこの町の大公フィリップ2世が、自らナイフで足を切り離した故事と「銀の脚(義足)」、そして温泉による治癒の話(因みに大陸最古のカジノの話はない)。マンハイムはプファルツ選定侯によるハイデルベルグからの遷都の話。大々的な町作りが、その後の大学や産業の誘致の際に役に立ったという。カ−ル・ベンツの最初の工場がつくられたのも、ここマンハイムであった。

 ダルムシュタットと「ア−ルヌ−ボ−」、アイゼナッハはワルトブルグ城に係る「ワグナ−のタンホイザ−」と「壁についたルタ−のインクの染み」は、よく知られたネタ。マ−ルブルグは「1529年の宗教会議」。「聖餐におけるパンとブドウ酒の中にキリストの体と血は存在するかどうか。」ルタ−は肯定、ツヴィングリは否定し、両者は対立したそうである。

 南ドイツの初めにトリアが来るのもよく分からないが、マルクスに加え、この町の聖堂にはキリストの「聖衣」を始めとする「聖遺物」が多く収められているという。チュ−ビンゲンは大学町であるため、メランヒトン、ケプラ−、ヘ−ゲル、ヘルダ−リン、そしてこの町の書店の店員であったヘッセ等々の名前が並ぶ。

 ミュンヘンは市庁舎のからくり時計とドイツ語の時間の話、シュタルンベルグはル−ドビッヒ二世と「うたかたの記」、アウグスブルグは「フッゲライ」と復習が続くが、アウグスブルグが、ディ−ゼルがエンジンを開発し、ブレヒトが生まれ育った町(町にとっては「黒い羊」)であることは初耳であった。30年戦争でも2回の大戦でも破壊されず残ったネルトリンゲン、他方ネッカ−の要地で水力発電とそれを利用した軍事産業が集まったハイルブロン(私は車で通過しただけの町だ)は第二次大戦でこなごなに破壊されたという。ニュ−ルンベルグは靴屋にして詩人のザックス親方とホフマンの地図やデュ−ラ−、そしてナチとソ−セ−ジ。郊外のアンスバッハは、カスパ−・ハウザ−の物語。

 突然モ−ゼルに飛び、ベルンカステル。私達も小休止しワインを購入したこの町は、ワインに関する諺に溢れている。またラインに飛び、カ−ルスル−ヘは王宮を中心にした扇型に設計された町。取引先の一つが、この王宮の向かいにあった。バ−デンバ−デンにカジノを開いたのはフランス人のベナ−ル親子。M.トゥエインやドフトエフスキ−も滞在したこの温泉街は、何度も訪れた懐かしい町である。シグマリンゲン城を訪れた時には、そこが第二次大戦末期、フランスから逃げてきたペタン将軍が滞在し、亡命政権を宣言した場所であることは全く知らなかった。同じ旅行で立ち寄って、町の風景のリトグラフを購入したウルムは、「白バラ」抵抗運動で有名なショル・ギムナジウムがある町であると共に、ヒトラ−に強いられたロンメルが毒をあおいだ町でもある。

 最後に著者は南バイエルンの幾つかの町を紹介しているが、このあたりは私は、ただ通過しただけか、あるいは訪れたことのない地域である。やはり、こうした本は、自分の経験とダブらせて読まないと全く面白くない。ドイツは遠くなったが、自分が訪れたことのある街がテ−マのこうした作品を読むと、それらが心の中では、その文化と共に依然強く生きているのを感じているのである。

読了:2003年1月26日