アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十一章 その他
スパイたちの遺産
著者:ジョン・ル・カレ 
 ル・カレのスパイ小説を、「ドイツ読書日記」に掲載するというのは、やや場違いな感を否めない。但し、以下のとおり、丁度この冷戦下の東独を主たる舞台とする情報戦争の後日談をネタにした本作を読了した直後に、この著者の逝去の報に接することになったということも踏まえ、無理やりここに掲載することをご容赦頂きたい。

 図書館にあった彼の単行本の最後、帰国後4冊目の作品を、全米ゴルフでの渋野の結果(2打差4位と残念であった)を見るために早朝に起床した後の時間に読了した。そして朝食後新聞朝刊を読んでいたところ、この著者が、12日にウェールズで、89歳で亡くなったとの記事に接することになった。その作品を読了した後、1時間半後に著者の逝去情報に接するという「奇遇」に、今日はややセンチメンタルな気分で始まることになった。

 巻末の訳者解説によると、2017年の本作品は、著者24作目の長編で、彼の往年の人気作品である「スマイリー三部作(発表順に「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」、「スクールボーイ閣下」、「スマイリーと仲間たち」)で活躍した、イギリス情報部員のピーター・ギラムが主人公で、その他にもこれらの作品で登場した人物が多数、改めて出ているという。そうであると、これらの過去の作品を読んでいない私にとっては、本作を読むのは順序を間違えた選択であったが、同時に、これからこうした過去の作品に目を通す楽しみも与えてくれた。また、今回続けて読んだ4冊の中では、最も新しい作品であるが、アマゾンで検索してみると、著者は今年7月に「スパイはいまも謀略の地に」という作品を出版しているので、この作品は、著者の生前最後から2作目のものということになる。

 もともと、この著者の作品はペーパーバックで読み始めた何作が挫折した後、今回の帰国後、翻訳の「われらが背きし者」を読んだことから、続けて読み始めたものであるが、翻訳で読んでも、英国人らしい皮肉に溢れた登場人物の会話や、飛び交う時間や場所についていくのがなかなか容易ではない。この作品でも、前述の作品群で描かれた作戦の結果、ベルリンの壁で射殺され命を落とした同僚スパイとその愛人の息子や娘が、それに責任があったとして、主人公を含めた英国情報部を告訴する、という主題の中で、英国/東独(シュタージ)双方の二重スパイの暗躍や、情報ネットワークの構築と関係者の逃避行、そしてその崩壊といった展開が、時間・場所を次々に移しながら描かれることになる。主人公のピーターは、今やフランスで隠居生活を送る好々爺であるが、007を髣髴させるような女たらしの残滓も残し、同時に過去の犠牲者に対する悔恨と贖罪といった「人間的」な感覚も有している。そして当時の作戦の真実を調査する現役の情報部員や死んだスパイの息子たちと、それに対し手練手管で対応する主人公の駆引きが続いていく。その結果は?この前に読んだ晩年の作品の多くがそうであるように、結末はやや中途半端で期待外れである。しかし、そこに登場する多種多様な人間描写と、現在と過去を交錯させる物語の展開は、読む者を飽きさせない力を持っている。特に東西双方の二重スパイという「影の主人公たち」の蠢く姿は、この時代の(あるいは冷戦終結後の今も、何らかの形で残っている)情報戦の凄まじさを、改めて強く印象付けることになる。これから本作の素材となっている「スマイリー三部作」をゆっくり堪能していこうと考えている。

読了:2020年12月15日